二十四 風読
「――なぜ」
長い沈黙のあと、ようやく夕星は呟いた。
「なぜ、誰にも訪れる死を隠すのですか。他の者の身体を用いてまで」
低く答えたのは、高良彦だった。
「智鋪の百余国は、日向大王の力でのみ束ねられるからだ。先見の力を具えた王を喪えば、国の礎が揺らぐ」
「台与様がいるではありませんか」
ほとんど食って掛かるようにして、夕星は言った。
「あれはまだ八つだ。王に立てるには幼すぎる」
高良彦が苦々しげに言った。事実だった。
「では、他の誰かを王に立てるか、貴方が代わりを務めればいい」
至極当然のことを、夕星は言った。
「日向大王か台与でなければ、百余国は束ねられぬ。智鋪の王は、並の者には務まらない」
「でも、誰しも死にます」
大王とともに百年は生きているという高良彦が、依代を取ったかはわからない。だが、天照の裔が長く生きるのは事実だ。筑紫洲各地にいる二人の縁者も、一様に長命だった。しかし彼らも死を免れることはない。
「私たちは、花が散るように短い命を生きるよう定められた。花が散れば実が結ばれて、また別の命が宿ります。多少の違いはあれど、貴方がたも営みは同じはず。なぜその道を外れようとするのです」
「外れることはない。私は遠からず息絶える」
断言した大王を、夕星は怒りに任せてねめつけた。彼女の相貌は、伊都にいる間に記憶の奥に霞みかけていた。だが今宵以降、忘れることはないと確信がある。
「どう信じろと言うのです」
依代は、ある程度魂に沿って形を変えるのだろう。大王の面立ちは、弟の高良彦によく似ている。しかし多岐都と似た特徴も残っていた。
――私が叔母様に一番似ている。
そう言って多岐都は、自分の頬を指さした。大王の頬の同じ位置に、涼しげな泣きぼくろがある。
「私を依代にして、生き延びる算段ではないのですか」
伊都から呼び戻した時点で、夕星を館から再び出すつもりはなかったのだろう。長きにわたり、これだけ厳重に秘密を守ってきたのだから。
日向大王は憂いを帯びた目で夕星を見据えた。
「其方を依代にはしない。台与が女王に立てるようになるまで、影を務めてくれれば良い」
そして冷静に続けた。
「台与が生まれるまでは、私が生きている必要があった。恋心を持たず、嫁すこともなく、鬼道に仕える者が現れるまでは。だが今なら、台与が長じるのを待つだけで良い。依代を取ってまで長らえずとも」
「それどころか、私を影にする必要すらないでしょう」
夕星は声を高くしたまま言った。
「智舗国を脅かすものなどありません。熊襲は遠からず滅ぶ。貴女ならとうに、そのくらいは見通していたはずだ」
大きな戦も起こりえないのに、大王の死を隠す理由が解せなかった。
しばらく沈黙を守っていた高良彦が口を開いた。
「何故わかる――熊襲が滅びるなどと」
夕星は彼に向き直った。
「水分の里が襲われた後、長の娘の罔象姫が都に逃げ延びておりました。大水の復旧に行った貴方の配下に拾われた子どもが」
多岐都や鞠智彦、阿蘇津彦と同じく、あの子の目も夕星を離さなかった。白露を拒み夕星にだけ懐いたのも、只人ではなかったからだ。
それを確信したのは伊都でのことだった。只人にあやされても泣き止まなかった台与が、多岐都の姉が来てからは落ち着いた、と聞いた時に。
「罔象姫は犯された恐怖で、言葉も記憶も失っていた。でも、うわ言で何度も『水脈が消える』と呟いていた。地の下の水脈が読めたという罔象姫が」
宇土から帰った鳥船は、水分の里の戦いで水脈読みの姫を喪ったと話していた。多岐都が饗で会ったという罔象姫の外見は、死んだ子どもによく似ていた。
「罔象姫が読んだ水脈の変化から、里長は熊襲の山がいずれ火を噴くと知っていた。それを、天之尾羽張を手に入れたなどと歪めて吹聴したのではありませんか。熊襲を牽制するためにそう言ったつもりが、要らぬ挑発になってしまった」
軽々しい喧伝が熊襲の警戒を招き、里もろとも葬られることにつながった。彼の子どもたちは館で骸となって発見されたが、下働きの童の遺骸も多かったという。運よく逃げた罔象姫も、絶命したと思われていたのだろう。
「その子どもが罔象姫だったという徴はない」
畳みかけられても、高良彦は動じなかった。だが夕星にも引かない理由がある。
「呪いの夢で熊襲に呼び出された時、たびたび山の頂が震えていました。地下の火が頂に近づくたび起きる、大地の震れです。きっと遠からず、山は火を噴く」
「其方が読むのは風だ。水脈でも火でもない」
頑として言い分を認めない高良彦に腹が立ったが、これ以上の証を示せないのも事実だった。歯噛みして押し黙ると、日向大王がゆっくりと言った。
「熊襲は滅びるかもしれぬ。だが私たちが憂えているのはそのことではない」
「何だというのですか」
「智鋪国が乱れることだ」
大王は淡々と答えた。
「私が王に立つ前、筑紫洲は長く戦が収まらなかった。先見をする巫女さえいなければ、百余国の筆頭に立ちたいと野心を抱く者は多い」
納得できる話ではある。高良彦が何かと諸国に出向いていたのは、堤や溜池の整備に加え、反逆の気配がないか探るためでもあった。
「そこまでして、智鋪を長らえさせたいのは何故です」
大王が哀しげな笑みを浮かべたとき、高良彦が口を開いた。
「けして斃れぬ王権を作るためだ。日がいつどんな空にも昇り巡るように、いつの世にも続く王権を」
躊躇いも淀みもなく言いきった彼に、夕星は短くかぶりを振ってみせた。
「力は移ろいます。決して滅びない国などありえない」
「斃れぬ礎が穿てれば、その上で何が起ころうと構わぬ。好きにすればよい」
意味を取りかねた夕星に向かって、彼は続けた。
「月が満ちては欠けるのも、風が立っては消えるのも、月や風の勝手だ。だがそれが叶うのも、日がかならず昇っては巡るからだ」
大王のもとで生きのびた夕星たちのありかたを指摘するように、彼は言った。
「其方の言う通り力は移ろうが、一度築いた礎は大八洲を支え続ける。そのために日はいつも同じところになければならぬ。力が減じれば、また世が移ろうのを待つ――月が重なって日が陰れば、月が動くのを待つように。斃れなければ、いつか別の機が来る。だが日が昇り照らなければ、すべては始まらぬ。だから決して、失われてはならぬ」
苦々しく思いながらも、夕星は黙ったままだった。
「決して斃れぬものには贖いが要る。日が五穀の実りをもたらすものでもあれば、光の多寡で干死にを誘うものでもあるようにな。一片の歪みもなく生き続けるものなどない。俺たちは、贖いを続けながら礎を築いてきた」
夕星はひたすら高良彦と睨み合っていた。緩やかに吹き始めた夜風が、徐々に強まっていく。吹き寄せられた松明の火の粉を、高良彦が一瞥した。
「身像の姫から、負けん気の強さを叩き込まれたようだな」
高良彦の挑発に応じるかのように、一陣の風が広間を渡った。火の粉は朱い雨のように舞い散っていく。




