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風待つ朔  作者: 丹寧
第一部 風読 月夜見
13/64

十 邂逅

 長い初夏の陽も暮れかかり、青い闇が広がり始めている。日が落ちる前に帰ろうと、夕星は馬首を返した。はっきりと尋ねる声が響いたのは、その刹那だった。


「誰と話していた」


 咄嗟に辺りを見回した。尾けられてはいなかったはずだ――そうであれば、とうに葉隠が気づいている。思ったとき、向かいの山に声の主が見つかった。谷を挟んだ斜面の道からこちらを見据えている。


 大きな黒馬に乗った若者だった。


 見たことがないほど逞しい体躯と、浅黒い精悍な顔がこちらを向いていた。身分の高さがひと目でわかる衣の肩に、射干玉(ぬばたま)のような黒髪が流れる。刺青に縁どられた目つきは苛烈で、目が合った者を捕らえて離さない鋭さがある。夕星より数歳、年上に見えた。


 夕星は半ば見惚れるようにして、彼に目を奪われていた。すぐにこの場を離れるべきだと、本能が囁いていたにもかかわらず。


 不意に相手が眉を顰めた。


「其方、只人ではないな。何者だ」


 その意味はすでに夕星にもわかっていた。神々の裔であるということ――その証である、強い余韻を残す眼を持つということだ。この美しい武人と、同じように。


 ここで見抜かれるべきではないことだった。彼は、熊襲の者だ。


「夕星様」


 葉隠が囁いたのと、あらん限りの力で馬の脇腹を蹴ったのが同時だった。驚き嘶いた馬は、来た道を戻って疾駆し始めた。薄暗い木立を駆け抜ける間も、燃えるように強い視線が脳裏から離れない。


 長の館に戻り、宴の喧騒を耳にしたとき、夕星はようやく安堵の息をついた。どっと押し寄せた疲労に肩を落とし、厩に馬を戻す。


「あの者は、いつからあの場にいただろう」


 浮かない声で尋ねると、葉隠が静かに答えた。


「姿を現したのと、夕星様に声を掛けたのはほぼ同時でした」

「そう」


 何のために国境(くにざかい)にいたのだろう。


 胸騒ぎがするのは、敵国の者に会ってしまったからだけではなく、彼の美しさのせいでもあったことに、夕星は気づいていなかった。





「――ですので、婚礼の支度は滞りなく進めております」


 菟狭(うさ)の国長が高良彦に言うのを聞きながら、夕星は何度目かにあくびをかみ殺した。


 大王の館で執り行われる、(あえ)の祭祀が数日後に迫っていた。冬、太陽は勢いをひそめ、稲――智鋪で初めて食べた、あの蒸された穀物のことらしい――は種にこもる。ふたたび日が長くなり、種が萌える営みを確かめる祭りを饗と呼んだ。


 祭儀のため智鋪の各所からおとずれた遣いに、夕星も面会している。高良彦が級長戸辺(しなとべ)の裔を紹介したがったためだ。各国に供物や使節を出させることで服属を確認する意味あいもあるこの祭りで、風読を得た優位を印象づけたいらしい。


 遣いは近隣の不弥国(ふみこく)伊都国(いとこく)の者もいれば、会話に難儀するほど遠方の者もいた。とりわけ南方の智鋪や日向(ひむか)の言葉は難解で、夕星はいつ話を振られるかとひやひやしどおしだった。


 菟狭の言葉は比較的聞きとりやすかったものの、別の意味で居心地が悪かった。長の息子の佐知彦なる若者が、絶えず舐めるような視線を送ってきたからだ。八女(やめ)国の(すみれ)姫が許婚らしいが、昨日見た儚げな少女に彼が釣りあうのかははなはだ疑問だった。


 次に控えていたのは、身像国(みのかたのくに)多岐都(たぎつ)姫の一団だった。


 身像は都の北東にある沿岸国だ。海と道を司る姫神(ひめがみ)――多紀理(たきり)姫、多岐都姫、狭依(さより)姫の三柱――の裔が治める地で、大王たちが国を拡げる以前から確固たる地位を築いていたという。


 涼しげな切れ長の目、白い頬に形の良い唇が揃った多岐都の顔は美しかった。目の覚めるような青い裳と帯、それに領巾(ひれ)をつけている。年配の(はふり)に付き添われ、高良彦の前に進みでた彼女はよく通る声で言った。


「饗の祭りに、新穀のことほぎを奏上に参りました。身像の神籬守(ひもろぎもり)の娘多岐都と、祝の長の忍彦(おしひこ)にございます」


 他の謁見にはない緊張が走った。貢納に訪れる彼女たちと智鋪の立場の違いは明らかなのに、慇懃さの裏に敵意がひそんでいる。


「遠いところをよくぞ来られた」


 何十回目かわからないせりふを、高良彦は冷ややかに述べた。彼もまた、他のときと明らかに様子がち

がっていた。


「姉ぎみの多紀理姫は伊都での任を解かれ、身像に戻られるはこびとなった」


 伊都国は都の西北に位置する沿岸国だ。当地には海の向こうの伽羅国(からくに)から使節が着くこともある。御笠の外港にあたる那津(なのつ)と並んで重要な水門(みなと)だった。


 身像にも大きな水門があるが、入ってくるのは秋津洲との交易船だ。伽羅国からの遣いが来ることはなく、智鋪を代表することもある伊都とは立ち位置がちがう。広間のはりつめた空気も、それを雄弁に伝えていた。


 冷たい笑みをたたえた多岐都が言った。


「姉は私と入れ替わりに、身像へ戻ることになっております。おそれながら、今後はわたくしが伊都での任を引きつがせていただきます」


 多岐都の語調が、急に刺々しさを増した。どうやらこの話題こそが、彼女が突き放した態度をとる理由らしい。


 高良彦が、まったく本心から思っていない口調で返した。


「日向大王の嗣は、多紀理姫のもと健やかに育っていると聞く。多岐都殿のもとでも、台与(とよ)姫がよき導きに恵まれるよう」


 大王が嗣とする宗女の台与が、伊都で巫女の修養を積んでいることは夕星も知っていた。身像の姫がその侍女を務めていることは初めて知ったが、こんどはその役目が妹である多岐都に引きつがれるらしい。

夕星が見つめる前で、多岐都はやや仰々しいほど丁寧に首を垂れた。


「ご期待、畏まり極まることでございます」


 よそよそしい言葉の応酬で、居心地はきわめて悪かった。だが夕星以外の者はみな、何も起こっていないかのような顔をしている。身像の姫が智鋪に不満を抱いているのは、すでに周知の事実ということか。


「朝霧」


 出しぬけに名を呼ばれ、夕星は息が止まりそうになった。


「はい」

「饗の日和はどうだ」


 高良彦の仏頂面がこちらを見ていた。ここ数日で何度も繰り返された問いだ。


「はじめから終わりまで、あたたかく晴れるかと存じます。そののちは雨になりますので、帰路はくれぐれもお気をつけくださいますよう」


 多岐都は夕星をしげしげと眺めた。只人ならざる娘がなぜここにいるのか、心底不思議がる様子だった。


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