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風待つ朔  作者: 丹寧
序章 績麻なす
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一 急襲

 風読(かぜよみ)の姫は、天象(てんしょう)を読む。


 その夜も夕星(ゆうずつ)は、風が絶えた雲居(くもい)の気配を指で触れるように感じることができた。しかし、眼下の火炎が衰えることはすでに望むべくもなかった。崩れた丸木の柵と乱杭(らんぐい)の間から、夕星は燃えさかる故郷――科戸国(しなとのくに)を呆然と見おろしていた。


 月影もない闇のなか、火は国長の館を抱く山の斜面にもおよびつつあった。幾人とも知れない敵の兵衛(ひょうえ)は、いまも暗がりから次々に火矢を放っている。その(やじり)の雨から逃れ、夕星は館の奥へと走った。


 高床の外廊を駆け、(きざはし)を下った先の庭には、数名の下働きたちが怯えた顔で立っている。彼らの縋るような目が、いっせいに夕星を向いた。


 だが、十六歳の国長(くにおさ)の視線が交わるまえに、だれもが目を逸らした。射干玉(ぬばたま)の髪に白い肌とあえかな瞳、内気で一途な内面を写しとったようなそのあどけなさと頼りなさが、いまは見るに堪えないのだと言いたげに。


 夕星はここ科戸国の長であり、風読だった。長が風や雲の動きを読み、農耕や漁労を助けてきた科戸国は、とくに華々しく栄えもしないが、同時に激しい貧窮もなく過ごしてきた。今宵、東の隣国である出雲(いずも)の急襲を受けるまでは。


 数日前、風読の身柄を引きわたすようにと出雲が唐突に通告してきた。理不尽な使者を追い返すと、その後最初に強風の吹いた夜に火攻めが仕掛けられた。すぐに風は弱まったものの、大軍を前にした小国科戸になすすべはなかった。


 火影が踊るなか、(やぐら)射手(いて)が敵へ矢を放つ音が鳴っていた――あまりにも間遠な間隔ではあったが。さらに、脇に現れた兵衛が茫然と告げた。彼の顔色は、炎に焼かれる夜空よりなお暗い。


「――お父上が、亡くなられました」


 夕星は黙したまま唇を引き結んだ。


 若い風読に代わり、実質的に国を率いていた父が死んだ。いまここで、いったい自分に何ができるだろう。


 風は死んだように絶えている。夕星の心もまたすべての動きが止まったかのように、恐怖も焦燥もひどく遠かった。遠からず訪れる死が、早まっただけだからだろうか。すべての風読に、等しく早く定められた死が。


「夕星!」


 鋭い声に呼ばれ、夕星は顔を上げた。目線のさきには、許婚の朱鷺彦(ときひこ)がいる。白皙の顔は弓弦のように張りつめ、優雅な目元は悲壮に満ちていた。


「朱鷺彦様」


 呟くと、武人らしからぬすべてを見通すような眼が哀しげに瞬いた。


「間もなくここを守り切れなくなる」


 朱鷺彦の首筋には汗が流れ、息ははずんでいた。国一番の射手である彼は、丸木の弓を手にずっと大軍に抗い続けていた。背に負った胡簗(やなぐい)には、わずかな矢しか残っていない。


 その彼が言うからこそ、やるせない現状もすんなりと腑に落ちた。夕星は頷くと、自分のものとも思えない口を静かに開いた。


「皆の者は各々逃げよ」


 庭に立つ者たちを見渡しながら、夕星は続けた。


「ここに留まれば、風読の臣下として確実に命を奪われよう。裏の空井戸を通れば、麓に逃れられる。国長のもとにいたことは隠して生きろ」


 誰も異論はないようだった。ただひとり、年配の侍女だけが強張った顔で尋ねた。


「姫様は、どうなさるのです」


 ここで死を待つ、と言おうとした刹那、朱鷺彦が淀みなく言った。


「風読の姫は私が連れて落ち延びよう」


 夕星は許婚を振り返った。その相貌は、これまでにない覚悟に満ちている。朱鷺彦に問いを向ける者はひとりもなく、彼もまた迷いを抱いていなかった。


 ひっそりと息を止めようとしていた何かが、胸の奥で脈動した――まだ、彼といられる。それは夕星の命が続くかぎりにおいて、なにより重要なことだった。


 弓弦の鳴る音は、いつのまにか絶えていた。ひとりふたりと去る者たちを見送ると、朱鷺彦は虚空に向かってある名を呼んだ。


葉隠(はがくれ)


 は、と短い答えがどこからか響いた。声の主はどこにも見当たらない。夕星の当惑をよそに、朱鷺彦は姿のない声に向かって告げた。


「聞いての通りだ。西へ落ち延びる」

「御意」

「お前も夜目が利く。追っ手があれば知らせよ」


 仰せの通りに、と答えた声は朱鷺彦より幾らか低いが、彼とそう変わらない歳のようだった。


 朱鷺彦たち月読(つくよみ)の神の(すえ)にまつわる、ある言い伝えを夕星は思い出した。


 月読の里が科戸国に合一した頃から、月読の裔は姿を見せない(しもべ)を従えていたという。いつどこにでもついていき、主を護るよう定められた臣下。いつか噂に聞いただけで、朱鷺彦の口から聞いたことはなかったけれど。


 朱鷺彦が夕星の手を取った。間髪を入れずに彼は言った。


「行こう」


 館の敷地を抜け、西の谷へ続く道に出る。あたりは死んだように静まり返っていた。


 上がっていく自身の呼吸を聞きながら、夕星は腕を引かれるまま駆けた。月が雲に隠れているいま、夜目の利かない夕星は彼が頼りだ。弓弦を引き続けて固くなった、親指の付け根の感触だけが、闇のなかにも確かだった。


 ところが間もなく、空を切る矢羽根の音が響いた。谷の上の断崖から、足音を聞きつけたと思しき射手が矢を放っている。こちらの姿が見えないため、狙いは甘く間隔も間遠だが、矢は執拗だった。


「北の崖に射手が」


 葉隠がどこからか囁くと、朱鷺彦の手がぐんと夕星を引いた。つんのめりそうになりながらも、必死で走る。


「森まで転ぶな」

「はい」


 木立に入れば、梢が矢を阻む。間もなく下草の種類が変わり、木から垂れさがった蔓が肩に触れた。安全な場所はすぐそこだ。


 いっそう足に力を入れたとき、しかし鈍い音が耳を震わせた。夕星にはそれが、矢が人の身体を貫く音に聞こえた。


 すっと背筋が冷えた刹那、朱鷺彦が小さく呻く。間もなく強い血の匂いがした。


「朱鷺彦様――」

「静かに」


 小さく叫んだ夕星を、朱鷺彦が制した。不自然に力をこめて夕星の手を握り、駆け続ける。その間にも、明らかに苦しくなっていく呼吸が聞こえた。


 今まで他人事のようだった不安と恐怖が、急に夕星の心を覆い始めた。故郷が燃えていても、朱鷺彦がかたわらにいる限りすべてを失ったとは思えなかった。だがもし、彼といることが叶わなくなったとしたら――


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