憎悪。
ザワザワとした声が広がる。
ホールには立食の用意もされているけれど、誰もそれに手をつける様子もない。
皆、陛下のお声を待っている。
そう見えた。
「私は彼女を后に迎える。これは決定事項だ。覆ることはない」
押し殺したような唸りと共に、そう声を吐き出す陛下。
グルルル。
そんな唸り声が会場中に響く。
ヤギの翁もカメレオンの夫人も無言で跪き首を垂れる。
「うむ。お前たちが国をあんずる気持ちもわかる。しかし、何度も言うがこれは決定事項で覆ることはない。今後このアリスティアに害なすものは皇帝への叛逆であると、そう肝に銘じるがいい」
唸り声と共にホールの空気が震えている。
獣帝の唸り、荒々しく震える空気に全ての獣人たちがその場で跪いた。
♢ ♢ ♢
宴。
というにはあまりにも静かすぎる。
多くの食事の数々もほとんど手をつけられることもなく。
皇帝に忠誠を誓うよう跪いた彼らがそれ以上の反論をすることなく、わたくしの歓迎式典という名の会が始まった。
注がれた酒を持ち三々五々かたまり、話す言葉も小声で過ごしてる。
まだ何か言いたいことがあるのだろうけれど、それを押し殺し時々横目でわたくしを睨みつけるのが精一杯、といったところか。
わたくしも。
望んでここにいるわけではない。
そうは思うけれど肩身が狭い。
まあ、姉様にこんな思いをさせずに済んだことだけは幸いか。
一回目、二回目も、死んだのが姉様で無かったことだけが救いだ。
死にたくない、こんな人生回避したい、そうは願っていた。
だけれどそのおかげで姉様が死ぬ運命になるのであれば話は別だ。
わたくしが姉様の代わりになった、身代わりになって良かった、そんな偽善を言うわけじゃない。
でも。
わたくしの代わりに姉様が死んだり悲しい思いをするのだけは耐えられない。
だから。
ちゃんと、この運命から逃れる方法を考えないと、いけない。
そう思う。
多くの憎悪を向けられた、そんな宴という名の針の筵から解放されて。
そのあとは夕食もあまり喉を通らず寝室に篭ったわたくし。
お風呂の準備ができましたと声をかけられたけれど、そんな気分にもなれずごめんなさいって断って。
窓の外には本当なら月が見えている時間だろうに、雨が降りそうに曇っていてどんよりとしたままただただ暗く。星の瞬きすら見ることもできなかった。
憎悪を向けられたことは怖くて悲しい出来事だったけれどそれでもまだ我慢できる。
それよりも、皇帝陛下に優しくされるたびに痛む胸。
苦しくて、そんな辛さから逃れたくなる。
それでも。
今の自分にはそうする自由すらないのだと、そう思い知るといたたまれない。
うとうとしかけたけれど結局なかなか意識を手放すこともできずただただ寝返りを打っているうちに、夜が更けていった。
「震えているね。アリス。大丈夫だ、何があろうと君は私が守る」
そんなレオンハルト様の低く響くお声を思い浮かべるたびについつい身を委ねてしまいたくなるけれど、そんな感情をグッと抑え我慢する。
あれはわたくしではないのだから。わたくしに向けられた言葉ではないのだから。
そう呪文のように心の中で唱えて。
♢ ♢ ♢
「眠れない……」
心の奥がざわついてどうしても寝付けず、ベッドから身体を起こす。
むしょうにのども乾いて。
冷や汗も、かいている?
心のざわつきが体にも現れてしまったのだろうか。
そんなふうにも思いながらチェストの水さしを取ろうとベッドから降りて。
ざわ
一瞬、殺意にもにた感情がわたくしの心に触れた。
(何? 廊下、かしら。誰か、いるの?)
足音がするわけでもない。
呼吸の音がするわけでも衣擦れの音がするわけでもない。
ミーアの気配は頑張って意識し判別できるようになったけれど、彼女でもない。
(では……、誰、でしょう……)
先ほど感じたわずかな殺意。
ううん、殺意なんて明確なものでもない。
ただ、排除しようとする意思。
同じ人間だと思っていない、虫でも捕まえて踏み潰してしまおうか、そんな意識、だ。
悪意、はあるけれど、それはわたくしに対してだけの感情。
ほんの一瞬触れただけだからそんな細かな感情に確信は持てないけど、この扉の向こうに人がいるのは間違いない、かな。
一度目の人生であまりにも強烈な感情を目の当たりにして、わたくしの魂は少し壊れたのかもしれない。そう思う。
他人の強烈な感情にすぐあてられるようになって。
特に悪意には敏感になっていた。
心が読める、とか、意識が読める、とか、そう言うものとは少し違う。
相手の強烈な感情が、わたくしの心に触る、というか。
相手の感情によって自分の心が侵食される、というか。
特に、嫌われている、といったようなときにそれは敏感にわたくしの心を裂いて。
傷つけ、痛めつける。
だからかな。
逆に昨日の悪意の宴程度では負けないくらいには鍛えられていたりもして。
傷ついていないわけじゃない。ダメージを負っていないわけじゃない。それでも。
なんとか耐えられるようには成長した、つもり。
今回の人生で感じたレオンハルト様のそれは純粋な好意だった。
一回目のあの強烈な悪意の感情ではなくて驚いた、けれど。
それがよけいに苦しかった。
こんなんだったら、悪意をぶつけられていた方が良かった。
そう思ってしまうほどに。
カチャン。
扉が開く。
入ってきたのはジークバルトだった。
漆黒の髪を後ろに流し、モノクルをはめたその姿。
一瞬、悪魔のような形相に見えた彼のそのお顔は、ベッドにわたくしがいないことに驚くように周囲を見渡した。




