第二話 盗人
「ねえ、道ほんとにこっちで合ってんの?」
愛の国を出発したエリスとジェーンは、森の中を歩いている。陽の光が木々に遮られた、薄暗く湿った空間だ。太い木の根がそこら中に張られており、地面に注意を払わないと躓いてしまう。
苔で足を滑らせないように、慎重に歩く。
「地図はこっちを差してるんだろ?」
地図を見ながらジェーンが進み、その後ろを荷物を持ったエリスがついていく。ジェーンの危惧通り、エリスは地図を読めなかった。
「そうだけど……こんな森があるなんて地図には描かれてないし」
「王が仰っていた。崩壊へ向かっている今の世界は地盤が歪んで、国同士の位置関係も大きく変わっていると。けれども現状手掛かりはその地図しかないんだから、それに沿って進むしかない」
ジェーンは頷いた。
「そうね。ひとまずこの森を出ないと」
黙々と森の中を進む。獣の歩く音や鳥の鳴き声があちこちから聞こえてくる。そのどれもが、森に侵入した異物に対して警告しているように、エリスには思えた。
人間が社会を形成するように、森には森の暮らしがあり、ルールがある。それを無闇に踏み荒らすべきではないことは承知しているが、今は地図に従うしかない。
しかし声を聞く限りでは、自分達は森の出口に向かっているどころか、より深淵に潜っていないか?
エリスはそう訝しんだが、進むべき方向に関してはジェーンに任せることにした。地図も読めない人間が口を出すべきではない。
「キャー!!」
ジェーンの叫び声がした。エリスは急いで走る。
「どうした!?」
エリスの少し先で、ジェーンは倒れ込んでいた。
「あ、あれ……」
ジェーンの指さす方を、目を凝らして見てみる。
エリスは奇妙な生き物を見つけた。
それは人間のような姿をしていた。二本足で立っていて、手があって、顔に二つついている目はしっかりとこちらを見据えている。上半身は裸だが、下半身には衣服を纏っていた。
違う点は二つ。緑色の肌と、人間より遥かに大きいそのサイズ。
「あがががが」
それは理解できない言葉を発すると、ゆっくりとこっちに近付いてきた。
エリスは剣を握る手に力を入れた。
「あれ、魔物よ。図鑑で見たことがある! ゴブリンだわ!」
ジェーンは叫んだ。
「魔物?」
「世界を終焉へ導く存在。平和な世界とは相容れない存在」
平和な世界とは相容れない存在。
平和な世界には存在しなかったが、創造主が殺されたことで生まれたということか?
「ゴブリンって本当にいたんだ……」
「斬っていいんだな?」
「是非そうして!」
人の姿をしているものに斬りかかるのはあまり気が進まないが、元よりそんな甘いことを言ってられる旅ではない。
エリスは荷物を置いて、剣を構えた。
「ががががががが!!」
魔物が叫ぶ。何を言っているか分からないが、明確な敵意だけは感じられる。
魔物は拳を固め、エリスに向かって殴りかかった。エリスは剣でその攻撃を防ぐ。
固い! 人間の皮膚とは大違いだ!
「ががががが!」
驚くエリスは判断が遅れた。魔物の二発目を防げず、パンチをもろに横腹に食らう。
「がはっ!」
エリスの身体は吹っ飛び、木にぶつかって地面に落ちた。パンチを受けた横腹と、幹に打ち付けられた背中が痛い。
「大丈夫!?」
「来るな!」
近寄るジェーンをエリスは制した。
油断した。ここはもう平和な世界の、壁に囲まれた国ではない。
気を引き締めろ!
エリスは自分を叱咤した。
「ふーっ」
落ち着け。奴は武器を持っていない。攻撃は素手だ。ということは、あのゴブリンとかいう魔物は近距離で戦うのが得意なわけだ。それなら遠距離から攻撃すべきだろう。
しかし、皮膚が固くて剣が刺さらないのはどうするべきか。遠距離だろうが近距離だろうが、攻撃が効かなければ意味が無い。
エリスは冷静に魔物を見る。魔物もエリスをじっと見ていた。お互い、相手の出方を窺っている。
人と同じ姿をしているのなら、弱点も人と同じと考えるのが自然だ。心臓か、首筋か。
……いや、違うな。
上半身裸で剥き出しの場所が弱点であるはずがない。弱点は衣服で覆われた下半身、つまり股間だ!
「よし!」
エリスは円を描くように走り出した。まずは奴の視界から外れる必要がある。
「あがー!!」
ゴブリンが吠える。あまりの大声に耳を塞ぎたくなるが、エリスは走り続けた。
走りがてら、木の幹を斬る。木はエリスの目論見通り、ゴブリン目掛けて倒れていく。
ゴブリンは難なく木をよける。エリスは次から次へと木を斬り倒すが、ゴブリンには全く当たらない。
それでいい。奴に当てることが目的ではない。
倒れる木々が地面を震わせる。辺り一面に土煙が舞う。
「あがが?」
ゴブリンはエリスを見失った。
ずっと見られてると思ったが、やはり視覚を頼りに動いていたか。土煙を起こせば視認できまい。
逆にこちらからは、その足音で大体の位置は掴める!
これでこっちの攻撃に奴は反応できまい。後は一撃を決めるだけだ。エリスは深呼吸した。
視界が晴れる。エリスの予想通りの場所に魔物がいた。
今だ!
エリスは剣を投げた。剣は弧を描き、魔物の下半身に深く突き刺さる。
「ぎゃあああああ!!」
魔物の叫び声が森の中に響いた。やはり股間が弱点だった!
「ぎゃあああああああ!!」
魔物は悲痛な叫びを上げながら暫く暴れていたが、仰向けに倒れ、やがて動かなくなった。
「……終わった」
エリスはその場に座り込んだ。
初めての敵。実際の戦い。
「……フフ」
ジェーンの指摘は当たっていたな、とエリスは思った。
今自分は、戦いに楽しさを感じている。これからの戦いにワクワクしている。
エリスは魔物のもとまで歩き、下半身に刺さった剣を抜いた。剣には緑色の血がべったりと付着していた。
「お疲れ様」
ジェーンが声を掛けてきた。
「なんか、私が思ってるより強いのね。あなた」
「軍隊長に向かって失礼だぞ」
「ごめんごめん。それじゃ、先に進もうか」
「いや、荷物を途中で置いてきてしまった。あれを回収する必要がある」
エリスはぐるっと辺りを見渡す。しかし自分がどの辺で荷物を置いたのか分からない。
「どこに置いたかな」
「嘘! ごめん、私が気付いていたら拾ったのに」
「いや、僕の責任だ。あっちの方だったかな……」
上から物音がした。エリスはそれを聞き逃さなかった。音がした方を見上げる。
誰かが木の上にいる。今度は間違いなく人間だ。よく見えないが、背中にあるのは……。
「僕の荷物だ!」
「えっ、どこ?」
エリスが叫ぶと、木の上にいた人間が逃げ出した。木から木へと飛び移る。まるで猿のようだ。
エリスは走り出した。
「くそっ、追いつけん!」
エリスは魔物との戦闘で体力がかなり削られていたし、魔物を倒したことで気が抜けていた。
あの中には二人の食料が入っているというのに!
「エリス、任せて!」
ジェーンの声がした。ジェーンは指を構えて、木の上の人間に人差し指をさす。
「いけっ!」
ジェーンの人差し指から炎が噴射された。炎は森の中を明るく照らしながら、木の上の人間に向かって一直線に進む。
ボッ!
「あっちいぃぃぃ!!」
木の上の人間は発火し、木から落ちた。
エリスとジェーンは盗人のもとへ急いだ。
「あちっ、あちっ」
盗人はゴロゴロと地面を転がって、ほとんど燃えて炭になっている服の火を消している。身体の毛にも燃え移ったようで、前髪や眉毛の端が少し消えている。
盗人は女だった。煤だらけだが、整った顔をしている。
だが、エリスは盗人の顔などどうでもよかった。
「荷物はどこだ……」
盗人が荷物を持っていたはずだ。エリスは周囲に目を走らせる。
「あっ!」
盗人のそばで燃えている荷物を見つけた。エリスは急いでそれを拾い上げ、叩いて火を消す。
しかし時既に遅く、エリスとジェーンの食料は炭になってしまっていた。
「ご、ごめん。加減できなくて……」
ジェーンがしょんぼりとした顔をしながら言った。
「いや、ジェーンの魔法がなければ盗まれたままだった。ジェーンは悪くない」
悪いのはジェーンではない。盗人だ。
エリスは盗人を睨む。
「おい盗人」
「ひっ、ひい! 私を食べないで!」
盗人はみっともない声を上げた。
「誰がお前を食うか。いいか、お前が盗んだ荷物に僕達がこれから食う物が入ってたんだ。それを全部燃やしてくれやがって」
「も、燃やしたのは私じゃないでやんす!」
「お前のせいなのには変わりない。代わりの食料はお前が用意するんだ」
「ど、どうやって?」
どうやって? エリスは考え込んだ。盗人が食料を持っているとも思えない。
エリスと盗人の会話に、ジェーンが割って入った。
「ねえ、あなたはどこの国の人なの? 私達神の国ってとこに行きたいんだけど、どうも地図が古くて」
「へえ。神の国ってのは知りませんが、私は食の国の人間です」
「食の国?」
「この世界で一番ご飯が美味しい国でやんす! ここからすぐ近くでやんすよ?」
「へえ、そこ行ってみようか?」
ジェーンはエリスに提案した。食料が無い以上、神の国へ行く前にどこかに立ち寄る必要はある。
「そうだな。盗人、お前が案内しろ」
エリスの言葉に盗人は頷いた。
「へい! 案内させていただきます! 私の名前はイディナでやんす」
盗人は調子良く名乗ったが、エリスは盗人の名前を覚える気はなかった。
「あら、イディナちゃんって言うの。よろしくね」
「よろしくでやんす!」
ジェーンはエリスと対照的に、イディナに友好的だった。その能天気さにエリスは溜め息をついた。
「はぁ……」
イディナの案内のお陰で、エリスとジェーンは森を抜けることができた。森を抜ける頃には、ジェーンとイディナはすっかり仲良くなっていた。
「絶対ツインテール似合うって」
「えー、本当?」
「てか、ジェーンは顔がいいから」
「いやでも髪をこう結んだらさ……」
途絶えずに話し続けるジェーンとイディナの後を、エリスがついていく。楽しそうな二人と違い、エリスは退屈だった。
魔物出てこねーかな。戦いたいんだけど。ああ、さっきの爽快感気持ち良かったなぁ……。
しかしそんなエリスの願いも虚しく、三人は食の国へ着いた。
「着いたでやんす。ここが食の国!」
愛の国と同じように、国は高い壁で覆われていた。外の獣を防ぐためだろうが、今では魔物を防ぐ役割も果たしている。
門をくぐると、何やら良い香りがあちこちからしてくる。さすが食の国と謳っているだけあるな、とエリスは感心した。
「お、ちょうどでやんすね」
ポーン、ポーン、と音が鳴った。高く聳え立つ時計台から音がしているようだ。
「あの時計台はこの国の文化財に指定されている、とっても重要な建物なんでやんす。時計台に落書きしたり、中に侵入したりしたらすっごく重い罰が待ってるでやんす。気を付けてください」
「へえ。よく分かんないけど、なんか凄い建物なのね」
エリスは時計台を見上げた。見渡す限りでは最も高い建物だ。
時計台はまだ無機質な音を奏でている。
ポーン、ポーン、ポーン。
エリスは奇妙な気持ちになった。決して良い気分ではない。
なんだ、この感覚は……?
「お二人さん、まずは食べ物でやんすよね? この国で一番大きなレストランが近くにあるでやんす。そこへ行きましょう!」
「わーい!」
イディナとジェーンはすたすた歩き出した。エリスは時計台から目を離し、また二人の後を追う。