第一話 出国
この世界は、いくつかの国から成り立っている。国ごとに独自の文化や制度が形成されており、国同士の交流はあまり盛んではない。
山奥に、ポツンと存在する一つの国があった。国の名前は、愛の国。野生の動物に襲われるのを防ぐために、国は高い壁に囲まれている。王に出国許可を貰わなければ、壁の外に出ることは許されない。出国許可を貰えるのは猟師をはじめとする一部の人間だけなので、愛の国に生まれた人間は基本的に一度も国外へ出ることなく命を終える。
しかし、国民は特に外へ出たいとは思わなかった。世界が平和であり、満たされていたからだ。
そんな愛の国の王宮で、一人の若い男が王に出国許可を貰おうと謁見していた。
「そなたには少し荷が重いのではないかと、私は心配しているんだ」
王の言葉に、片膝をついたまま男は応えた。
男の横に置いてある剣は綺麗に光り輝いており、その刃に凛々しい男の顔が映っている。
衣服の上からでも分かるほどに筋骨隆々な男の名はエリス。この国の軍隊長である。
軍隊長といっても、たかだか十人ぽっちで構成されたお飾りの軍なのだが。
「……誰かがやらねばならぬことですから」
王は顎髭をさすった。短い顎髭を手のひらで撫で回す。言葉を選ぶときの王の癖だ。
王の代わりに、側に立っていた大臣が声を発した。
「この平和な世界を創造した神が殺されるなど、誰も考えもしなかったことだ。それ故に、今はどこも混乱している。この混乱を治めて元の平和を取り戻すためには、神を殺した者を早急に討伐し、次の創造主を決める必要がある。しかしエリス、お前は腕が立つがただの人間だ。神を殺した者と対峙して、無事で済む保証はない。王はそれを心配していらっしゃる」
流暢な大臣の言葉に、王は頷いた。
大臣は王よりいくらか小さく、卵のような体型をしていた。しかし独特な体型をしていても、長年王を側で支える能力の高さについては誰もが認めるところであった。
「お心遣いありがとうございます。けれども、この世界の崩壊を黙って見ているわけにはいきません。空をご覧になりましたか?」
「確かに……」
王が何か言おうとしたそのとき、王宮が激しく揺れた。ゴゴゴゴゴ、と不気味な音が地の底から響く。
「おおおおおっ!」
エリスは飛び出し、バランスを崩し倒れそうになる大臣を素早く抱えた。
「暫くかがんでいてください」
大臣は声を出さずにコクコクと頷いた。
エリスは天井を見上げた。煌びやかなシャンデリアが振り子のように大きく揺れている。
シャンデリアには火の灯ったロウソクが数多く刺さっており、その内の半分近くが揺れで振り落とされていた。
ガシャアン!
シャンデリアが天井に強く叩きつけられ、割れた欠片が雨のように降り注いでくる。
「ギャー!」
大臣の叫び声が部屋にこだまする。
エリスは剣をとり、勢いよく振った。その剣圧で、欠片は壁目掛けて吹き飛んでいく。
「し、死ぬかと思った……」
うつ伏せになって両手で頭を覆いながら、大臣はブルブル震えていた。
揺れは数分後に収まった。
「王宮内で剣を振るったこと、お許しください」
「何を言う。そなたのお陰で怪我をせずに済んだ。礼を言う」
王は頭を下げた。
「確かに、世界は崩壊へと向かっている」
この世界を創造した神が殺された。この世界に生きる者は皆、誰に教わるでもなくその事実を理解した。
それから、神の死を裏付けるように世界は変わり始めた。青い空にはところどころに黒々とした穴が生まれ、海辺には多くの死んだ魚が打ち上げられ、地盤は歪み出した。
「このままでは、この世界に残された時間は残りわずかです。この国の軍隊長として日々修業を積んでいたのは、平和な世界に訪れる危機のため。今こそ成果を発揮するときかと」
王は深く頷いた。王の額に刻まれた皺が、世界の行く末を憂う若者の目に留まった。
「そこまで言うなら止めはせん。この世界の平和を取り戻すための旅に出よ」
「ありがとうございます!」
エリスは頭を下げた。
「神を殺した者の詳細は、神の国へ行けば何か分かるかもしれないな」
「神の国?」
エリスはその国を知らなかった。というより、エリスは生まれてこのかた一度も愛の国から出たことがないので、外国に関する知識をまるで持っていなかった。
「創造主はこの平和な世界を維持するために、神を作り、手伝わせたのだ。その神達は創造主と区別して女神と呼ばれ、神の国に住んでいる」
「神が住む国ですか」
王はまた、顎髭をさすった。大臣はそれをじっと見つめている。王が何を言おうとしているのか、今度は大臣にも予想できないようだ。
王が口を開いた。
「……私はな、そこに住む者の誰かが創造主を殺したと思っている。そうとしか考えられんのだ」
「滅多なことを口にするものではありません!」
大臣が横から口を挟んだが、王は手で制した。
「我々人間は創造主のお姿を拝見することができない。そのお声を聞くこともできない。ただ、その存在を直感的に理解できるだけだ。人間に知覚できない存在を、人間がどうやって殺すことができようか? 神を殺せるのは神だけだ」
エリスは神を殺した者について考えた。何を思って、どうやって創造主を殺し、どこへ逃げて、今何をしているのか。しかし考えはまとまらない。人間の理解から外れた行為について、エリスは想像すらろくにできなかった。
「では、まずは神の国を目指してみます」
「地図を持っていくといい」
大臣は大股でエリスに近付き、古い羊皮紙を渡した。
「今の世界は地盤が歪んで国同士の位置関係も大きく変わっていることだろう。あまり参考にならないかもしれないが、地図の裏には私の署名も入っている。持っていて損はあるまい」
「ありがとうございます」
重ねて礼を述べ、エリスは王宮を出た。王宮の門番をしていたのは、軍隊長としてエリスがよく指導していた人間だった。
エリスは門番に声を掛けた。
「この国を頼んだぞ」
「はっ。隊長がいない間、我々がこの国をしっかりと守ります」
門番の暑苦しいまでに正義感の漲る顔は、エリスによく似ていた。
王宮の門をくぐる。そのまま国を出て旅を始めても良かったが、最後に我が家に寄ろうと思った。
エリスは小さな家に住んでいた。物がほとんどない、質素な家だ。エリスにとって家は雨風をしのぐためのもので、それ以外の機能は過ぎたものだった。
家の庭には細い木が一本植えてあった。今は亡き父が、自分が生まれたときに植えた木だ。
エリスは木や土に詳しくないので、もっと上手い育て方をすればいくぶん立派に生長したのではないかと思っている。力を加えたら簡単に折れそうな木を見る度に、エリスは父に対して申し訳ない気持ちが湧き上がってくるのだった。
自分の家に戻ると、そこには幼馴染みのジェーンがいた。
「よっ」
ジェーンはリビングでコーヒーを飲んでいた。両手でマグカップを抱え、大事そうに口をつける。
ジェーンは目のやり場に困る服装をしていた。大きな胸の形がはっきりと見える服だ。さほど暑くもないのに躊躇なく肌を晒すのは彼女の悪い癖だ、とエリスは思う。
「勝手に僕の家に入るなって言っただろ」
平和な世界では盗みが無い。家に鍵をかける必要もないので、簡単に他人の家に出入りができる。エリスの家にも鍵はない。
しかしエリスは他人が勝手に家の中に入ってくるのが嫌いだった。勝手に心の中を覗かれているような気分になる。相手がジェーンなら、その嫌悪感はいくらか中和されるのだが。
エリスはジェーンから目を逸らし、ソファに寝転んだ。
「本当に行ってしまうのね」
「うん。僕は行くよ」
ジェーンは「そう」と呟いた。
「寂しくなるなー。ねえ、私も一緒に行っていい?」
「これは遊びじゃないんだ。神を殺した者を討伐しに行くんだ。危険な旅になる」
「だから私もその旅に同行するの。人数は多い方がいいでしょ?」
ジェーンがどこまで本気で提案をしているのか、エリスには分からなかった。
「死ぬかもしれないんだぞ」
「大丈夫。これでも魔法はある程度使えるし」
神様が生み出した魔法という技術がある。人間にはそれがどういう理屈で成り立っているのか全く分からないが、神様から力を授かり魔法を使える者は多い。
ジェーンは料理をよくするので、火を生成する魔法を神様から授かっている。火を放てるのなら、確かにある程度自分の身を守ることができるだろう。
「旅の途中でご飯食べるときどうするの? 料理できる人がいた方がいいでしょ? お金の管理だって誰がするの? あなた身の回りのことてんで出来ないじゃない」
耳が痛い。エリスはその通りだと思った。家の中に物がほとんどないのは、整理整頓ができずに家の中を散らかしてしまうからだ。
「手に持ってるそれは地図でしょ? 今まで地図を読む機会なんてなかったと思うけど、あなたはちゃんと地図を読めるのかしら」
言われてみればそうだ。エリスは次第に、自分一人では満足に旅をすることができないのではないかという気持ちになってきた。
「それに、私が側にいるだけであなたは癒されるでしょ?」
「随分と自信があるようだが、花を愛でている方が僕は癒されるよ」
エリスが言うと、ジェーンはニヤニヤと笑みを浮かべて近付いてきた。豊かな胸がたぷたぷと揺れる。
「ほんとかなぁ」
ジェーンは、エリスが自分の胸をよくチラチラと見ていることに気付いていた。だからわざとエリスの前で白い肌を晒して、その反応を楽しんでいるのだ。
エリスの顔がみるみる赤くなっていく。ジェーンのからかいに、エリスは根負けした。
「分かったよ。ついてきたいなら勝手にしてくれ。後で国に戻りたいと泣き喚いても知らないぞ」
「やったー!」
ジェーンは無邪気に笑った。そんなジェーンを見ていると、エリスの心は温かくなった。
「なんでそんなに嬉しいの?」
「あら、嬉しいのはお互い様でしょ」
ジェーンの指摘に、エリスはきょとんとした。
「お互い様?」
「うん。あなた今とっても嬉しそう」
あまりに意外な発言に、エリスはソファから飛び起きた。
「僕が?」
「そう。あなたは多分、平和な世界に飽き飽きしてたのよ。折角剣の練習をしても、この世界に敵なんていないもの。動かない人形相手の訓練ばかりでうんざり。だから今、神を殺した存在に胸が高鳴ってる。生きた本当の敵と、本物の戦いができるから」
ジェーンはよくこういうことを言う。人の心を見透かしたようなことだ。まるで見当違いでも、段々当たっているように思えてくる呪いのような言葉。エリスはジェーンのこういうところだけはどうにも好きになれない。
胸が高鳴ってるだって? 世界が崩壊しかけているというのに。
「そんなことはないよ」
「どうかしら。平和なのはいいことだけど、それってつまり退屈ってことでしょ?」
「命を脅かされる危機がないんだ。退屈なのは悪いことじゃない」
エリスは自分に言い聞かせるように反論した。
「ふーん。でも私は人生にもっと刺激が欲しいわ。あなただけ退屈から逃れて楽しい思いをするなんて許さないから」
こうして、エリスがジェーンの旅に加わることになった。ジェーンは決して多くない額のお金と数日分の食糧、そして剣を携えて愛の国を出発する。
二人は神の国を目指す。