10−5
「Hotel Heavenly」本日最終話です。長らくお付き合い頂きありがとうございました。
【プロローグ】
「ほら、真っ直ぐ前を向いてて…」
二人の秘密の砂浜ではロムがダーオの髪の毛を切っていた。ダーオの家から持ってきた古い木製の椅子はダーオが動くたびにギィギィと音を立てる。浅瀬に置かれた椅子に座るダーオは、切られていく自身の髪の毛が海の波に乗って遠い地平線の彼方に運ばれていくのを見送っていた。沈む夕陽は海に金色の橋を映す。
「カッコ良くしてくれよ?」
オンショアの風がダーオの髪の毛を撫でてゆく。愛しい島の子を慈しむ風だ。ダーオの瞳にかかる前髪がくるりとカールして、それをふっと息で飛ばしたダーオは自身の真後ろに立つロムのポケットから煙草を探り当てた。
「…オーダーは受け付けない。流行りの髪型にしたいならプーケットに行け」
頑ななロムにダーオは吹き出す。死する太陽が二人を照らしていた。二人の足首に晒される海水は温い。
「お前、そんなんじゃ美容師としてやってけないぞ!接客業は笑顔が基本だろうが!」
「…本業は運送屋なんで」
ダーオの髪しか切らないロムだ。美容師としてやっていけなくてもなんら問題はない。
背の高い椰子の並木が風に揺られてサワサワと葉を鳴らす。ハイビスカスの花達は今日もその身に愛を燃やし尽くすのだ。
「はぁ…お前は屁理屈屋だよ。無口だから忍耐力あるみたいに思われてるけどなぁ、実際のお前は子供だし?すぐムッとするし?土曜日生まれだし?」
「…土曜日生まれは関係無いだろ」
「あるある!大有り!土曜日生まれはお前みたいにヤベェ奴が多いんだよ。蛇みたいにネチネチと機会を伺ってさ…それに後はなんだ…そうそう、ムッツリだし?」
「…おい」
「孤独が好きで?内向的な性格ってーの?俺の事がチョー好きすぎて拗らせてるしさ」
「…悪口大会かよ、勘弁してくれ…」
ダーオがロムの弱点を上げ連ねていくので、ロムは鋏を止めた。ダーオは地平線の先を見つめながら観念した様に息を吐く。
「…はぁ…そんなお前に俺も絆されたし?」
ダーオの言葉にロムは細い目を見開いて彼のつむじを見つめた。ダーオはそんなロムの気配を背中に感じながら、勝手に拝借した煙草に火をつける。
「…ははッ、Nongはホント、わかりやすいヤツ」
ダーオの吸った煙が夕陽に溶けて、空には一番星が煌めき始めた。うっすらと透けた月が徐々にその輪郭を現し始める。
海から吹く風があと少しだけ冷たくなければロムの身体は冷やせそうにない。今しがたダーオから貰った言葉は間接的で曖昧だったけれど、ロムには充分すぎる言葉である。
ダーオの肩甲骨が白いノースリーブに浮かび上がる。夕陽に照らされたダーオの首筋から肩までのしなやかな曲線が美しかった。
二人の関係がついに今日、新たな一歩を踏み出し始める予感がする。
「あ…ッ…」
その声がどちらから漏れたかは分からない。けれど一瞬の間のうちにロムは持っていた鋏を海に放り投げ、ダーオの唇を奪わずにはいられなかった。ダーオに撤回させる隙を与えたくない。たった今ダーオから貰ったその言葉はロムだけのものだ。
不明瞭でいい。言い改めなくていい。それ以上何も喋らなくて良いからダーオの体温が欲しい。
不安定な砂と波の上でギシリと揺れた椅子は男子二人の体重を支えきれず、甘く刺さる釘が根元の腐った椅子足の一本を失って、二人は椅子と共にバランスを崩して海に堕ちる。水飛沫を上げながら浅瀬に放り出されてしまった二人だが、それでもロムはダーオを離せなかった。ダーオは溺れまいと必死にロムにしがみつき、ロムの与える激しくも懐かしい口内の体温に身を任せる。それは息をする間もない口づけだった。
「…っは…ロムッ…」
ダーオが何か喋ろうとしてもロムがそれを許さない。またもやダーオは緩やかな波の上で、ロムに抱き竦められながらロムの与え続ける刺激を甘受する。
ふとロムの手が悪戯にダーオの胸元に伸びて来た。それを咄嗟に遮ったダーオはやっと唇を離してロムの背中をタップする。
「ちょっ…ストップ…!」
「…何」
ロムは不機嫌そうにダーオを見つめる。触るくらいは許可してほしい。その先は我慢できるから、せめて触ることくらいは。
「だから土曜日産まれはヤベェ奴なんだって!俺、これから仕事なんだけど?」
「…」
仕事だからなんだと言うのだ。普段からカオムーを休んでも大丈夫だと言っていたでは無いか。ロムはダーオを大切に扱いたい心と、今すぐ暴きたい心との間で葛藤する。ロムは抗議の視線をダーオに向けるが、ダーオは毅然とロムの欲求を撥ね退けた。
「あのねぇ、Nong!俺だって社会人なの!オーナーがくたばったら俺があの店引き継ぐ事になったから真面目にやる事に決めたの!」
つい一か月前までは連日身の回りがごたごたしていたダーオだったが、見兼ねたオーナーがダーオに詰め寄ったのは記憶に新しい。
『オマエは適当に生きてるからダメなんだ!こんなんじゃ俺が死んでも安心してお前に店を任せられん!』
オーナーから寝耳に水の未来予想図を聞かされたダーオは驚いていたし、ダーオ以上に驚いていたのはジョジョとガンだった。特にジョジョなんかは「おい爺さん、コイツに任せたら一か月で店を潰すぜ!」と揶揄った。ガンは金魚の糞よろしく「そうだよ、客より遅く出勤して来るんだもん」と同意する。あの時、ロムは何と言っていたか…。
「…あの爺様はあと10年くらい余裕で生きるだろ」
二人だけの砂浜で、海水に濡れた二人は見つめ合う。
突然の後継者指名をされた日と同じセリフを吐くロムにダーオは呆れた笑いを浮かべた。
「お前、オーナーの年齢知らないだろ!結構年くってるんだぞ…ったく…」
ダーオの切り損ねられた長い前髪が海水に濡れて滴る雫が瑞々しい。前髪をかき上げたダーオの視線がどこか妖艶で、ロムはつい見とれてしまうのだ。ダーオはロムの視線にこそばゆさを感じながら、自身もまたロムの体温から離れがたくもあった。ダーオの体の内側に疼く熱は消せそうにない。
「…仕方がないやつ。あと一回だけ、な」
そう言ってダーオはロムの唇に小鳥の啄む様なキスをする。ダーオからのキスは塩っ辛い海の味がした。とっぷりと暮れてしまった夜の始まりに浮かぶ三日月は白かった。
すっくと立ちあがるダーオの横で、ロムはやっと手に入れたダーオの心を何度も噛み締める。かつては絶対に手に入らないと諦めていた。手の届かない星を見上げる様にダーオを眺めるだけで良いと何度も己に言い聞かせて来た。途方もない時間を過ごしたロムは待つ事なんて慣れてしまった。
…まさかお互いの唇を許し合える、こんな日が来るなんて。
ロムはかつての様に暴走せぬよう、なんとか理性でその先の一線を越えないように堪えることに必死だ。
「…なぁロム?カオムー迄、送ってってくれるんだろ?」
ダーオは悪戯な表情でロムに手を差し伸べる。その手を取ったロムは立ち上がると、ダーオの腰に手をまわしてつい再三のキスを与えてしまった。これが夢では無いか、何度だってロムは確かめたい。呆れた笑いをするダーオの表情は、二人の距離があまりに近くてロムには見ることが出来なかったけれど、きっと今のダーオはロムの想像通りの顔をしている。人たらしの笑顔を浮かべて唇を離すダーオは、ロムのおでこに自身のおでこをくっつける。けれどロムはダーオの唇をつい深追いしてしまうのだ。一線は越えない。けれどせめて体温を分けて欲しい。
「…ほら、おしまい。家に寄って着替えてから行こうぜ。こんな濡れたままでカオムーになんか行ったら後継者の権利を剥奪されちまうからな」
ダーオはロムの抱擁から逃れると、歩きながら伸びをしてだらだらと実家に向かう。その後ろをついてゆくロムはダーオの手を咄嗟に握ると、二人は手を繋いで暮れてしまった夜の入り口を歩き始めた。
「…今夜も仕事が終わったら家まで送ってやる」
「忠犬だねぇNongは。…俺を家に送ったらお前はいつもみたいに律義にHeavnlyに帰る気だろ」
「!」
「なんだよ、その顔。誘ってンのに」
「…誘っ…て、そんな…」
ロムはかつてダーオに与えた苦痛と暴力を反省するあまり、二人の関係はキスのその先の進展を見せないでいる。
「段階踏みたいとか考えてんのか?最初は手を繋いでデート、次はキス、三カ月くらいしてセックス、ってか?」
「…」
「お前なぁ、ゴーカンしといて純情ぶんなって。キスだって既にしちゃってるだろ。めちゃくちゃ触ってくるしさ」
「俺はただお前を大切にしたいって…思…」
「俺を大切にしたいってんならマニュアルぶった恋愛持ち込むな、この元ドーテイが。それに大切にするの定義が微妙にズレてんぞ、アホ」
「そっ…」
今夜のダーオはいつになく辛辣だ。少しの間の後、ダーオはロムから視線を外してこう言った。
「…わかんない?俺が、今日お前とシたいってハッキリ言わなきゃさ…」
照れた表情のダーオを前にロムは目眩がする。
「…あ…歯ブラシ取りに帰ります…」
「ははッ…分かれば宜しい」
繋がれた手は離れそうもない。二人の濡れた足跡が島唯一の環状道路に残される。秘密の砂浜からすぐそこのダーオの実家に接続する道にその足跡は続くけれど、誰もこの足跡を目撃する事も無いのだろう。きっと温い夜風に晒されてすぐに蒸発してしまう。こんな僻地にまで足を運ぶ人間など誰も居ない。
風に攫われたハイビスカスが波に乗り、遠い地平線の先にいるダーオの父の元へと運ばれてゆく。
ヘブン島は今日も静かにこの地に生きる祝福された子らを慈しむ。
潮騒を子守歌に育つヘブンの申し子達よ、幸せたれと願いを込めて。
あとがきも同時更新しております。
そちらももしよろしければどうぞ^^
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「RMITD」が同人書籍になりました!
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なんぞ?と興味を持って頂きました方は是非ともこちらを試しに読んでみてくださいませ^^
第1話公開中です。
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【Pixiv公開:Bizarre Dormitory】
novel/series/9060315