リョウのアルバイト
その女の子が初めてバイトに入ってきたとき、リョウは正直、自分に似た子が来たな、と思った。
地味なぺったりとした前髪。
猫背。
暗い目をしていて、プロでも何でもない単なる大学生バイトのリョウから見ても、とても接客業に向いているとは思えなかった。
可愛い子がいっぱい働いてるレストランがあるから、そこで一緒にバイトしようぜ。
リョウもすぐ彼女できると思うぜ。
大学で知り合った友人から軽いノリでそう誘われた時、リョウは深く考えもせずに頷いた。
親の仕送りだけで生活していけるはずもなかったので、いずれバイトは始めなければいけないと思っていた。
それに、せっかく晴れて大学生になったのだ。自分だって彼女を作って、大学生らしいこともやってみたかった。
都会の大学のきらびやかな雰囲気にすっかり呑まれて出遅れたリョウにとって、その誘いは渡りに船だった。
友人はさわやかなイケメンで、無口なリョウとも妙に馬が合った。二人でつるんでいればバイト先でもうまくやれそうな気がした。
だが誤算だったのは、別々に受けた面接で、友人は遅刻してきたうえにバイトに入れる日についてごちゃごちゃと条件を付けたせいであっさりと落とされ、いつでも入ります、と安請け合いしたリョウだけが受かってしまったことだった。
悪い。落ちちゃった。
さして悪びれもせず、そう言って片手で拝んできた友人に、リョウは文句を言う気にはなれなかった。
自分にも、友人を利用しようという打算があった。無責任なのはお互い様だ。
とはいえ、バイトを始めると、それはそれで困惑した。
普通はバイトをする店について、どんなところなのか最低限の下調べくらいはするものだろうが、全て友人任せにしていたリョウは、初日から慣れない蝶ネクタイを締めて、聞き慣れないメニューに四苦八苦した。
リョウと同じくホールに出ているバイトには、確かに友人の言った通り可愛い女の子が多かった。
だがそれと同じくらい、都会的で華やかな雰囲気の男子バイトも多かった。
店の雰囲気は悪くなく、休憩室では男女仲良く談笑して盛り上がることも多かったが、彼らの会話に、リョウはついていけなかった。
要するに、リョウは大学と同じく、ここでも浮いてしまったのだった。
それでもこの店のバイトを辞めなかったのは、別に仕事が好きだったからでも時給が良かったからでもない。
新しいバイトを探す気になれなかったからだ。
新しい人間関係をこれ以上作っても、自分にはどうしようもないだろうな、という予感がリョウにはあった。
大学の授業にはそれなりに真面目に出ていたので、ノートを目当てに声をかけてくる同級生たちはいた。リョウは彼らのことを便宜上、友人と呼ぶことにした。
バイトを始めるきっかけになった友人は、もうその頃にはすっかり大学に姿を見せなくなっていた。
まあ、俺にだって大学に何人かは友達がいるよ。
自分にそう言い聞かせるための保険。
ただでノートをコピーさせてやるのだ。それくらいにはなってもらっても文句は言うまい。
大学でもバイトでも、そんな風にリョウの生活は淡々と流れていった。
最初の面接で豪語してしまった通り、店長に組まれるがままに連日バイトに入っていたリョウは、入れ替わりに仕事を上がっていくランチタイムのパートのおばさま方に「たまには遊んだほうがいいよ、若いんだから」などとからかわれながら、黙々と働いた。
一年も同じ店で働いていると、バイトのメンバーは半分近くが入れ替わり、リョウも古株になった。
慣れなかった蝶ネクタイも、いつの間にか板についていた。
年がら年中バイトに入っている割に、仕事に熱意があるわけでもなかったし、金を貯めて何かをしようという具体的な目標もなかった。
バイトたちの中では頻繁に、あいつとあの子が付き合ってるってさ、とか、別れたってよ、などという噂が飛び交ったが、リョウには無縁の話だった。
それでも、毎日働けば仕事は自然と身に付く。一年もいれば、色々と不測の事態も起きて、トラブルの対処方法も分かってくる。
無遅刻無欠勤のリョウは店長からいつの間にか信頼を寄せられていたし、バイト仲間からも少なくとも仕事の面では一目置かれていた。
その子が入ってきたのは、そんな頃だった。
ミオ、というのがその子の名前だった。男女問わず、明るい連中はみんな彼女のことをすぐにミオちゃん、と呼び始めたが、リョウは八坂さん、と呼んだ。
誰に対しても、リョウは基本的に下の名前でなど呼びかけなかった。
だが、ミオは下の名前で呼ばれることに慣れていないようで、居心地の悪そうな顔をしていた。
口数も少なく、仕事の覚えも悪いミオは、しばらくすると孤立しがちになり、必然的にリョウが彼女の面倒を見ることが多くなった。
「八坂さん。これはこっちだから」
時折、リョウがそんな指摘をすると、ミオは大抵無言で頷くか、小さな声で、はい、と言った。
別にただそれだけの関係だったが、似たような地味な二人がぼそぼそと言葉を交わすのが面白かったらしい。ある日、リョウはバイトの後輩に言われた。
「リョウさん、最近ミオちゃんといい感じっすね」
からかうような笑顔だった。
リョウは曖昧に笑って、いや、別に、と答える。
だが、それがミオを意識し始めた最初の瞬間だった。
ある日、オーダーのミスから、リョウは客にねちねちとずいぶん長いこと嫌味を言われた。
ちょうど店長は不在で、ホールで一番の古株はリョウだった。
リョウはそういう客の相手をするのが苦手ではなかった。感情のあまり表に出ないリョウが精いっぱい申し訳なさそうな顔をして謝ると、じきに客は拍子抜けしたような顔をして矛を収める。
バイト仲間の中には、客に頭を下げることで自分の尊厳のようなものが損なわれると思っている者もいたが、リョウはそのあたりはあまり気にならなかった。
給料をもらっているのだ。頭くらいは下げる。
そう割り切っていた。
それにしても、その日の客はしつこかった。
普通の客の五倍以上の時間をかけて、ようやくその客が捨て台詞とともに帰っていった頃には、もう閉店時間になっていた。
残っている客は誰もいなかった。
ため息をついて蝶ネクタイを外しながら厨房へ戻ると、バイト仲間が総出で労ってくれた。
やっぱりクレーマーにはリョウさんしかいないっす、などと調子のいいことを言う後輩に苦笑いして首を振ると、手近のコップに水を注ぐ。
喉を鳴らして水を飲み干したところで、目に涙を溜めたミオが傍らに立っていることに気付いた。
オーダーをミスしたのは、ミオだった。
ほら、ミオちゃん、とほかの女子に背中を押され、ミオが言った。
「リョウさん、すみませんでした。私のせいで」
リョウさん、なんて初めて呼ばれたな。
リョウは驚く。ミオからはいつも名前どころか、あの、とか、すいません、などとしか呼ばれていなかったからだ。
「本当に、ありがとうございました」
ミオが深々と頭を下げる。
リョウは少し考えて、言った。
「八坂さんは、ホールに出るとき、背筋を伸ばしてみようか」
ミオが顔を上げる。リョウは穏やかな声で言った。
「そうすると、視界が広がるから。いろいろなものが見えるようになる。それで心に余裕ができる」
そう言ってから、リョウはぎこちなく笑う。
「大丈夫。俺なんて、もっとたくさんミスをして先輩たちに迷惑かけてきたから」
分かりました、というミオの返事は、いつもよりもずいぶん大きかった。
「リョウさん」
そう声をかけられて、リョウは振り向いた。
大学のキャンパス。履修の都合で一時間空いてしまった時間を人気のないベンチででも潰そうかと歩いているところだった。
そこにミオが立っていた。
「あれ」
リョウは首を傾げる。
「どうしたの。なんでここに」
「私も、ここの大学なんです」
ミオは言った。
「知りませんでしたか」
そう言ったミオの背筋が、気持ち伸びていた。
「ごめん。知らなかった」
リョウは正直に言った。
バイトしているレストランは別の駅だ。このあたりには有名無名を問わず大学がいくつもある。ミオもそのどこかの学生だろうと思っていた。
なんとなくそのまま二人で近くのベンチに腰を下ろす。
学部は、とか、家は、とかそんな話をしていると、ふと目の前を見覚えのある顔が通りがかった。
それは、リョウを今のバイトに誘った友人だった。
思わずリョウが呼び止めると、友人は振り返って、よう、と微笑んだ。
髪の毛が白に近い金色になっていた。耳のピアスの数もずいぶん増えている。
「もう大学には来ないのかと思ってたよ」
リョウの言葉に友人は笑う。
「そろそろ来ねえと留年しちゃうからな」
それから、リョウの隣に座るミオを見て、友人は目を細めて得意そうに言った。
「な。俺の言ったとおりだったろ」
「え」
「あの店でバイトして正解だったろ」
きょとんとするミオと、珍しく慌てるリョウを見て、友人は笑いながら、授業に遅れちまう、と言うと手を振って去っていった。
「リョウさん、ああいうお友達もいるんですね」
ミオがぽつりと言う。
「意外」
そう言って自分を見上げるミオの目がなんだかくすぐったくて、リョウは目を逸らした。