二話 現実世界① 枕
五百銅貨ペリもの大金を手に入れたファンは、少しだけ贅沢をしてみようかと使い道を模索していた。
「よし、娼館にでも行ってみるか!」
その日暮らしで精一杯の彼には、勿論女性とお付き合いする余裕もなく、両親が亡くなっているために、お相手を探して来てくれることなどもない。
ファンの足は、ふらふらと色街の方向へと向かっていた。
まだ昼過ぎにも関わらず、様々な店舗前には人が溢れかえっており、色街特有の甘い香りが漂う。匂いを嗅いだだけでファンの頭はクラクラとしていた。
治安は当然良くはない。ファンは五百銅貨ペリの入った袋を服の中に隠し、見た目腹の出た中年太りのよう。
キョロキョロと不審者の如く、店舗を見て回る。
「どうだい、そこのお兄さん! いい娘揃ってるよ!!」
軽薄な口調でファンに声を掛けてきた、ネズミに似た容姿の男。閉じると下唇まで飛び出した二本の前歯が見え、糸のような細い目を開くことなく笑顔を向けてきた。
ひとまず見るだけだと、心に決めて店舗へ近づく。
格子状になった店舗の壁の向こうには、色目を使って通りを眺める女性達が何人か座っており、その前に男達がギラギラとした目付きで女性を物色していた。
ファンも格子壁の側に寄ってくる女性達を一通り見たが、確かに粒ぞろいではあるものの、どうもピンと来なかった。
別の店舗を、そう思い格子の中を見ながら移動しようとした時、女性達の隙間から一人の女性の姿に目を止めた。
ファンは、脳天に雷が落ちるくらいの衝撃を受けた。
それは、白い肌の肩を出しつつ、しなだれながら、明後日の方向に紫煙を燻らせている女性。
自分と似た空色の艶やかなストレートの長い髪、煙管を咥えるプクッと厚みのある唇、少し垂れ下がった目が優しそうな雰囲気を醸し出している絶世の美女。年の頃としては自分と変わらないくらいか。
踏み出した足を止めファンの視線は彼女に釘付けになる。一目惚れというやつか、ファンの心臓は二十八年生きてきた中で、一番心臓の鼓動が激しくなる。
「ちょ、ちょっといいか? あの娘は……」
真っ赤な顔をして、先ほど呼び込みをしていたネズミ顔の男の袖を強く引っ張る。ネズミ顔は男は、転けそうになり思わず強めにファンの腕を振りほどくとムスッと険しい表情でファンの指差す娘を見る。
「あー……あの娘ですかい」
ちょっと呆れ気味に溜め息を吐き、ネズミ顔の男はファンへ値段を耳打ちする。
「ひ、一晩、五十銀貨ペリ!?」
「あの娘は、この店の……いや、この色街で頂点と言っていいよ」
銅貨でなく、銀貨。ファンの手持ちは五百銅貨ペリ。銀貨に換算すると五銀貨ペリ。その十倍の五十銀貨ペリ(=五百万円相当)と、法外な値段にファンは茫然自失となる。
色街の女性達には身請けという制度がある。要は客が店から娘自身を買い取る制度だ。一目惚れしたファンは、あわよくば……そう考えていた。
ところが蓋を開くと一晩の相手すら無理。身請けなど、更に法外な値段が課せられるに決まっている。ファンは僅か数分で失恋し、とぼとぼと歩き出す。もう他の店舗に足を踏み入れる気分ではなかった。
その時──何をするわけでもなく、色街をあとにするファンに何かがぶつかる。一瞬よろめいくファンは、失恋でボーッとしていた視界がクリアになる。
「だ、大丈夫?」
目の前の地面には、尻餅をついた少女いた──。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
少女に手を差し伸べたファンは、その手を掴んだ少女を引き起こすと、少女は自分が着ていた真っ黒なフード付きのローブに付いた土を払う。
「怪我はない?」
そう尋ねると少女は頷き、ゆっくり顔をファンへと向ける。大きな眼に黒い瞳、それはまるで深淵のような瞳に吸い込まれそうなほど黒い。可愛らしい顔立ちをしているが、少し栄養が足りず痩せ細っているようにも見えた。
少女は、急にキョロキョロと辺りを見回すと「あーーっ!!」と大きな声を上げて、地面に落ちていた枕を拾い上げた。付いた土埃を払いながら、少女の黒い瞳は潤みを帯び始める。
「うう、う……うわぁーーん!! 売り物に土が……汚れちゃったーっ! うう……お母さんに怒られるぅー!」
まだ色街近くということもあり人目も多く、通り過ぎる人が何事かとファンと少女を見てすれ違う。
「だ、大丈夫、大丈夫。ちょっと土が付いただけだよ! お母さんもきっと怒らないから」
「無理ーーっ! 絶対お母さんに怒られるぅ! ご飯貰えなくなっちゃうぅ!!」
そんな馬鹿なと思いつつも、ボロボロ溢れる涙を拭う少女の腕は確かに細いく、気の毒になってきたファンは、大した値段ではないだろうと、思わず「その枕、買ってあげる」と言ってしまった。
少女は涙で濡れた顔を黒いローブの袖で拭くと、晴れやかな笑顔になっていく。
「で、いくら?」
「五百銅貨」
ファンは何かの聞き間違いかと、耳の穴をほじり、改めて値段を聞いてみた。
「いくらだって?」
「だから、五百銅貨ペリ」
たかだか枕である。一見変わった枕なのかと少女の腕に抱かれた枕をまじまじと見るがどこも変哲のない、只の枕。とても五百銅貨ペリの価値があるようには思えない。
「買って……くれないの?」
再び少女の瞳が潤み始める。困ったファンは背後に視線を感じて周囲を見ると、いつの間にか辺りには足を止めファン達を見ている人達がちらほらと。
「うう……さっき買うって言ったのに……」
「わあーーっ、待った、待った」
ファンは脳内で考えを高速回転させる。五百銅貨ペリで枕を買うか、逃げ出すか。しかし逃げればこの少女が母親からひどい目に遭う。人にも見られている。逃げ出せば住み辛くなってしまう。かといって、自分の生活のこともある。
これは人助けだ、騙された訳じゃない。そう何度も繰り返し自分に言い聞かせた。
悩みに悩んだ挙げ句、ファンは服の中から袋を取り出し少女へ渡した。そして手持ちの五銅貨ペリも。併せて五百銅貨ペリ。
「ありがとー、お兄さん!! あ、枕汚れちゃったから、これオマケ」
少女はそう言うと枕を渡し、ファンの手に何か握らせると、そのまま少女は駆けていった。ファンが手を開くとそこには五銅貨ペリが。
「……あぁーーっ!! や、やられたっ!!」
枕を四百九十五銅貨ペリで購入したことになるのだが、彼女は枕を五百銅貨ペリで売らないと母親からひどい目に遭うはず。
つまり、別に五百銅貨ペリでなくても良かったのだ。
こうしてファンが大事に抱えていた五百銅貨ペリの袋は、枕へと代わってしまい、家路へと向かうのであった。
家屋と家屋の間の路地から、ニヤリとほくそ笑む少女に気づかずに……。
◇◇◇
ゴルゴダの街の隅にファン・セリュウスの家はあった。小さな二階建ての一軒家。両親が唯一ファンに遺してくれた物だ。
小さくてもファンにとって大事な自分だけの、お城。どれだけ困窮しても売ることはなかった。
「今日は疲れた……」
天辺から底辺まで一気に突き落とされたファンの精神的なダメージは酷く、ヘトヘトになっていた。
疲れ果て、睡魔がファンを襲う。丁度、新しい枕もある。二階にある自室には、窓際に横付けされたベッドと一人用の椅子が一つと丸いテーブルが一つあるのみ。
ファンは枕をポンと普段使っていた枕の横に投げ捨て、その上にうつ伏せのまま顔を乗せる。
着の身着のまま、ファンは微睡みの中へと潜って行くのであった。