十七話 現実世界④ 得るもの、失うもの
セリはファンの悲鳴で目を覚ます。眠い目を擦りながら体を起こすと、ファンが頭を抱えて錯乱している姿があった。
「どうしたんだい? 怖い夢でも見たのかい?」
慰めてやろうとファンの頭を胸に抱きしめ抱える。ファンの悲鳴の原因は、夢の中で、またもやお預けというか眠ってしまった不覚のためである。そこに目の前に格好のエサがぶら下がったのだ、ファンが逃すはずはない。しかし、それも一瞬でファンはセリに突き飛ばされてベッドから落ちる。
「一体なんなんだい、この臭いは!?」
プンと酸っぱい臭いがファンから立ちこめて、セリは顔を歪ませる。
「いててて……なんだよ、いきなり」
先ほどまで、また眠ってしまったのかと夢の中の出来事を後悔して頭を抱えていたものの、すっかり忘れてしまった、ファン。打ち付けたは後頭部を押さえながらセリを見ると指で鼻を摘まんでいた。
「ああ……これか。これは匂い蜘蛛の巣の匂いだよ」
「匂い蜘蛛? 一体いつどこでそんなもの付けて来たんだい?」
妙にセリと会話が噛み合わない。ファンの記憶では、確かに昨日南の森へ入った時、匂い蜘蛛の巣に引っ掛かった。だからこそ現実でも昨日の晩はお預けになるも、隣でセリが添い寝してくれた。
けれども今のセリには、匂い蜘蛛の記憶がないらしい。ワケがわからずファンは、セリに急かされて着替えを始めた。
「ちょっと、ファン! 何やってんのさ! 装備丸々一式忘れているよ」
セリが着ていたのは白いネグリジェ。昨日、部屋にやって来た時は只の寝衣であったはず。するとセリはスカートを履く前に革製のベルトを自分の太股の中頃に装着する。
装備一式と言われて部屋を見ると、ベッドと壁とのスペースに置かれたショートソード、バックラー、胸当てを見つける。
「そ、そうか。少しわかりかけてきた」
セリと匂い蜘蛛の話で噛み合わない理由に、ファンはうっすらと気付く。それは匂い蜘蛛の出来事は採集ギルドに所属しているときであり、探索ギルドに所属した以上南の森へ行く必要はないことに。
つまりは、セリの記憶にはファンが採集ギルドに所属していた事や昨日南の森で起こった出来事が無いのであった。
ファンは枕を見つめる。
この枕は、得るものがあれば失う事もあるのだと再確認して少し悪寒を覚えた。ザップの件もある──いずれ大切なものを失うのではと思っていた。
そして正に今、この現実世界にファンが採集ギルドに所属していた事も、採集ギルドに所属してから出会った人達のファンに関する記憶も、覚えている者はファンのみになってしまったということを。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「ほら、早くしないとルクスやアミラが待っているよ」
やはり自分は探索者として過ごしてきたのだと理解したファン。目の前にあるキノコ入りのスープにパンとこの世界では一般的な質素な朝食ではあるが、折角セリが作ってくれたものだからと、急がず焦らず味わう。
急かしてみたものの、焦り一つ見えないファンにセリは、諦めた。一口自分の料理を食べる毎にしっかりと味わっているファンを見て、嬉しくない訳はない。
「ごちそうさま」
食べ終えた食器を片付けて、荷物を詰め込んだリュックを背負った二人は家を出た。空は、どんよりとした雲に覆われており、今にも雨が降りそうであった。
「セリ、荷物持とうか?」
「大丈夫だよ、これくらい。ファンの方が重いものが入っているのだからさ」
リュックの中身は主に食器と毛布、雨風を防ぐ屋根にもなるシート、そして着替えである。ファンのリュックにはそこに更に食糧と薪が詰められていた。
「待たせたね、ファンがのんびりしていたもんだからさ」
ファンに先行して、セリは探索ギルド前にいる二人の女性に声をかけて駆け寄っていく。
一人はこの世界でも珍しい銀髪の少女で、それがすぐにアミラなのだとわかった。
以前肩までだった髪は腰のあたりまで伸びており軽くウェーブがかかっている。両手を腰にあてプンスコと頬を膨らませ怒っていても、花のような愛らしさを感じる。頬とは逆に膨らみのない胸当てを花柄のワンピースの上から着け、手には以前無かった杖のようなものを持っていった。
元々目鼻立ちは整っているのでセリとは違った気品ある美人になる可能性を秘めていたが、初めて会ってから十二年。今は恐らく十六、七歳のはず、けれども背丈は百四十あるかどうかというくらいであり、あどけなさが抜けきっていないとも言えた。
そうなるともう一人は、自然とルクスという事になる。
以前は二十一歳ということは、現在三十三歳。赤い髪は以前より少しカットしてベリーショートになっていた。
服の上から着ていた胸当ても、現在は下着のような物の上からつけており、肌が多く見える。腹筋は割れ、体型も以前と比べればガッシリとしており大人の色香よりも剣士としての逞しさが滲み出している。鍛え上げてきた成果か、見た目は歳に比べて若々しく保っていた。
「もう、おっそ~い! たまには時間通りに来なさいよね!」
アミラが頬を膨らませファンを見上げて怒り出す。しかし全く堪えていないのか、平均男性より背丈の低いファンをもってしても、アミラはもっと小さく、思わず頭を撫でてしまう。
「大きくなったなぁ」
「ちょ……やめなさいよ! そ、そりゃちょっとは大きくなったけど……あたしをそんな目で見てたの!?」
顔を赤く染めるも思わず後退りして、自分の身を守るように腕で胸を隠す。アミラは、背丈ではなく、自分の細やかな胸に向かって言われたのだと思ったようであった。
慌てたのはファン。隣にいたセリから足を踏まれるは、ルクスからは往来で剣を抜きファンの首筋へと当てられると散々であった。誤解だと、何度も何度も頭を下げて許しを請い、ようやくセリとルクスには勘弁してもらえた。
ただ、アミラの怒りはなかなか収まらなかった。
謝れど謝れど、なかなか目を合わせてもらえずに、とうとうルクスに泣きついた。
「あー……放っておいていいぞ。子供扱いされた事に怒っているのだろう。やっとファンに女性として見られたと勘違いしたからな」
「女性として? あーなるほど」
ファンはポンッと手を打ち鳴らし、アミラに近づく。ルクスは放っておけと言っていたのに、ファンはその辺りの空気が読めずにいた。
「アミラ、大丈夫。アミラは素晴らしい女性だよ。少し背丈が低くくても気にすることないさ。きっといい人と出会えるよ」
「本当? 現れなかったら、セリと別れて一緒になってくれる?」
「へ? いやぁ、それは無理かなぁ。俺はセリに惚れているし、それに俺なんかより──」
「もういい!! このバカファン!!」
真っ赤な顔をしたアミラはファンの脛を思いっきり蹴ると、先にギルドの中へと入っていってしまった。何故、蹴られたのか理解できずにファンは脛を擦りながら、その場で座ってセリとルクスを見上げる。
「先行ってるぞ。それとセリ、アミラが悪かったな」
「いいよ、気にしていないさ。ほら、ファン、行くよ」
結局何もわからずファンは呆けていると、セリもルクスもギルドに入ってしまい一人取り残されたのに気づき慌てて入っていくのであった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「それにしても、今日のファン。何か臭うわね?」
「あー、実は……」
ファンは昨日匂い蜘蛛の巣に引っ掛かった事を話す。鼻を摘まみながらファンから少し距離を取るアミラに、ファンはちょっと寂しく感じるのであった。
「それで? 今日もダンステン洞窟に行くの?」
アミラは鼻を摘まみながらファンに向かって尋ねた。しかし、肝心のファンは自分に尋ねてきたのだと思っておらず、ギルド内をキョロキョロと見回していた。
「ちょっと! 聞いているの!?」
「えっ!? お、俺? 何で俺に聞くんだよ」
「はぁ? なに言ってるのよ、あなたがリーダーだからでしょうが!」
空白の十二年の間に、ファンはいつの間にかリーダーにされていた。ようやくその事に気づいたファンは上手く誤魔化そうと話題を考える。
「え、えーっと、ダンステン洞窟って?」
「ちょっと、本当に大丈夫なの? ダンステン洞窟は、このゴルゴダの街の西にある一番近いダンジョンよ。しかし、毎度毎度攻略されたダンジョンに潜るって、どういうつもりなのかしら。まぁ、別にファンの決めた事だからいいのだけど……」
アミラの説明で、どうやら自分達は、この十二年、近場の同じダンジョンに潜り続けていたらしい。しかも、攻略済み。ファンは、別のダンジョンへ、とも考えたのだが、ファン自身ダンジョンに潜るのは初めてとなる。
結局、ファンはダンステン洞窟へ向かうことに決めた。
近場で攻略済みなら初ダンジョンとしては、危険はないだろうと思ったからだった。それに胸当ての少し上に付けた探索者である証のブローチ。数字は十のままで未だに一つも上がっていないというのも不安要素であったためである。
「ん? なんだ、これ? 手配書?」
自分が行うとボロが出そうでダンジョンに潜る申請は、ルクスに任せる。その間、ファンはギルド内を見て回っていて、複数の紙に描かれた似顔絵を眺めていた。
「……これって」
一枚の手配書の似顔絵の前で足を止めたファンは、そこに描かれている顔に見覚えがあった。
「こいつ、どこかで──あっ、そうか。見覚えがあるはずだ」
似顔絵には、鼻から頬にかけて傷痕のある男が書かれている。夢の中でギルドに自分達と入れ違いで入った男。ファンは以前どこかで見覚えがあると思っていたが、街中にも張られてある手配書で見た男だったからだと記憶が繋がった。
「何々……罪状、殺人、強盗、誘拐? 随分と悪党だな」
男の名前はバルス。詳細は書いていないが、罪状だけ見ても死刑は免れないほど。ファンは気をつけておこうと記憶に留めるのであった。




