十二話 現実世界③ 匂い蜘蛛
背負籠を背負い、ギルドの建物を出たファンは、完全に浮かれて調子に乗っていた。人は、こういう時に限って慎重に行かなければ痛い目を見る。
ファンが向かったのは、もちろん、このゴルゴダの街から出て南方にある森の奥。今のところファンは、そこにしかハジョウ草を見つけていないので、当然と言えば当然であった。
一刻も早く家に帰りたいファンは、後先何も考えずに森へと向かった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
夕暮れ過ぎ、ギーッと扉の軋む音に、採集ギルドの女性は玄関に目をやった。
開いた扉の向こうにはファンが立っている。ハジョウ草を心待ちにしていた受付の女性は、パッと表情が明るくなるが、徐々にその顔を歪ませ始めた。
顔を歪ませたのは受付の女性だけではなく、ギルド内にいた全員。隣接している酒場で酔っ払いがその場で嘔吐し始める。ギルド内は軽くパニックを起こした。
原因はファンである。皆が、一斉に口と鼻を押さえて窓を全開に開放する。そしてファンを除くその場にいた全員が「臭ええぇぇぇーーっ!!」と叫ぶのだった。
男の汗の臭いがギルドの建物に充満する。酸っぱ臭い匂いに誰もが鼻を摘まむ。
ファンは浮かれすぎて、すっかり注意するのを忘れていたのである。匂い蜘蛛という虫の巣のことを。思いっきり顔に蜘蛛の巣に引っかかったファンは、最早歩く凶器であった。
勿論、すぐさま取り払い川の水で洗い流したが、三日三晩落ちないと言われる悪臭が容易なわけはない。
ファンは背負籠を受付に渡すと、受付の女性は籠から離れてと手振りで示す。ファンが離れてから女性は籠を手に取り中身を確認する。
大半がドミグラ草であったが、僅かに混ざる波状の草。これがハジョウ草かどうか匂いを嗅いでみなければならないのだが、今は口や鼻から手を離せない。仕方なく、先日見た記憶を辿り、形状だけでハジョウ草と判断した。
「んんっんんーん、んんー、んん」
何を言っているのかわからないが渡された袋を確認してみると三十銅貨ペリ(=三万円相当)入っている。ファンの見立てでも報酬はこれくらいだった為、納得して報酬を受けとると、足早にギルドを出ていく。周りの視線が早く出ていってくれと訴えるためであった。
「セリ、なんて言うだろう……?」
早く帰宅したいが、行きと違いファンの足取りは重く、通りをゆっくり歩いていた。もちろん、その間すれ違う人々は、強烈な悪臭に怪訝な表情をファンに向けて遠巻きに避けたり、逃げ出す人も。図らずとも、ツイていない頃と同じ状態であった。
「ただいま」と低く落ち込んだ声で玄関扉を開いた瞬間、セリが口を手で塞ぎ駆け寄って来ると、そのままファンを突飛ばし扉を閉めた。
「おい! 何で閉め出すんだよ!」
まさか閉め出しを食らうとは思っておらずファンは文句を垂れるが、玄関ではなく窓を少しだけ開いて顔を出したセリから「少し、そこにいなんし」と言われてしまう。
しばらくして戻って来たセリは窓から布と桶に入ったお湯をファンに渡す。
「これで洗うといいよ。そしたら入って」
ファンは、そんなに臭うのかと渋々桶を受けとると、その場で何度も布をお湯に浸けては顔を拭く。どれ程臭うのか、洗い終わった布を嗅ぐとファンは眩暈を起こした。
「こ、これはキツい。セリの言うことも当然か」
どれ程臭いが落ちたのかは自分ではわからない。けれども、既にお湯から立ち込める湯気ですら、臭くなっていた。
「洗ったよ、セリ」
「入っていいよ」
ファンが玄関扉を開くなりセリが顔を近づける。流石に三日三晩落ちないと言われる臭いだけあって、セリは顔を歪める。
「まだ、臭うねぇ。それでもさっきよりましかね」
「ん? この匂いは……」
ファンは家の中へ入ると甘い匂いが漂う。昔一度嗅いだことのある甘く魅惑的な匂い。
「昔、ファンに身請けされた時に持って来ていたお香だよ。まさか、十年以上経った今になって使うことになるとはね」
セリは煙管を咥えて紫煙を吹かしながら置いていたお香をファンへと見せる。
「そうか、娼館で嗅いだ匂いか。そういやセリは、また煙管使い出したんだな」
「何言ってんのさ。わっちはずっと使ってるよ。もう癖みたいなもんさね。それともファンは、嫌かい?」
「あ、いや。その煙管を吸う立ち姿がセリらしくて、それに様になっているというか、綺麗だ」
「もう、ファンたら……」
堂々として凛とした姿、そこに妖艶な雰囲気が合わさり今の地味な服装でも隠しきれない美しさをセリの煙管を咥える姿からファンは感じていた。
セリも満更ではない様子で、少し顔を赤らめながら艶かしく腰を振りながらファンの側へと寄ると瞳を潤ませながら顔を近づけてくる。桜色の唇は艶やかで吸い付きたくなり、ファンからも顔を寄せていく。
しかし、いい雰囲気だったのはそこまでで、セリは徐々に耐えきれなく顔を歪ませる。
「あー! ファン、ごめん! 頑張ってみたけど、やっぱり無理!! そ、そこにご飯作ってあるから食べなんし。あと、わっちは今日はファンのご両親が使っていた部屋で寝るから!!」
そう言うと、ファンを軽く突き飛ばしてセリは二階の奥にあるファンの両親が使用し、今は誰も使っていない部屋に閉じ籠ってしまった。
つまり、今夜はお預けである。
ファンは気づくとハラハラと涙を流して冷めかけのスープを口に含んでいた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
ファンは片付けを終えると自室へ入りベッドに腰を降ろす。ジッと例の枕を見つめたあと、「せめて夢の中で」と床に着く。
うつらうつらとし始めた頃、扉をノックする音に眠い目を擦りながら体を起こすファンは、夢の中か現実か混同して自分の手のひらを確認すると、ゴツゴツした自分の手に未だ現実にいることを実感する。この家には二人しかいない。つまり、ノックしたのはセリということだ。
扉を開くと、そこには枕を抱えたセリが立っていた。部屋へ入れると、ぼんやりランプの明かりに照らされた肢体は、ファンを興奮させるのに充分であった。
「どうした、こんな時間に」
「その……やっぱり、一人寝は寂しいからさ。と、隣で寝てもいいかい?」
ファンは心の中で天に向かって拳を突き上げる。期待と興奮が昂ったファンは、どうぞどうぞとベッドへ誘導するが、先にセリに釘を打たれてしまう。
「その、今夜は無しだよ。明日、明日なら少しは臭いが和らいでるはずさね」
「そ、そんなぁ……」
あからさまにガッカリしたファンを横目にセリはファンのベッドへ潜り込む。渋々ファンも隣に寝るが、やはり諦めきれずに催促する。
「……ダメ?」
「ダーメ!」
セリが背を向けると、ファンは後ろから抱きつく。
「こ、こら、ファン!」
「抱きしめるだけ。抱きしめるだけだから!」
困った顔をしながらもセリも満更でないようで、ファンのされるがままになる。ファンの思惑としては、その気にさせるつもり満々であった。しかしセリの抱き心地が良すぎてしまった。
まるで抱き枕を抱いているようで、徐々にファンは深い眠りに誘われてしまった。




