十一話 現実世界③ 手のひら返し
「──ン ──ファン、起きんなし」
「ん、んん~っ! ふわぁ……よく寝た」
ごしごしと瞼を擦り、一つ背伸びをしたファンは、その瞼を開くとポカーンと口を開いて固まってしまった。
目の前に自分の顔を覗き込むように女性の顔がある。ふわりと空色の髪の毛が優しくファンの頬に触れ、これが現実であると教えてくれた。
「ほら、ファン。いつまで寝ているんだい。朝ご飯出来たよ」
「もしかして……セリ……?」
「何寝惚けているんだろね、他に誰が居るって言うんだい?」
ベッドから体を起こしたファンは、その女性がセリだとは初め気づけなかった。大人びた色気を醸し出していた十七の頃とも、初めて出会い一目惚れした頃の妖艶な雰囲気もない。そこには、凛とした立ち姿ではあるものの、肌を出すような服装ではなく地味な色の服装で、見覚えのあるエプロンを着けていた。
しかし、セリの容姿は端麗のままであり、地味な服装の中には隠しきれない曲線美が描かれている。現実に戻って来たことは理解したファンであったが問題は今のセリとの関係性。ただの同居人か、それとも……。
「セリ。その、起きるからさ、め、目覚めのキスとか……して欲しいなぁ、なんて」
「はあぁっ!?」
キッと目付きを鋭くするセリにファンは、一瞬たじろぐ。もし、結婚していたなら、それくらいはしてくれるかと思っていた。
「はぁぁ……。全く、昨夜あれだけ激しかったのに。もう新婚って年じゃないんだからさ……」
愚痴をぶつぶつ溢しながらもセリは、顔を近付けファンと唇を合わせる。本来、喜ぶところであったファンであったが、セリの一言に今はそれどころではなくなっていた。
(昨夜、激しくって……覚えてねぇえええっ!)
「全く。ほら、朝ご飯が冷めちまうよって、ちょっと、ファン!?」
惜しむかのようにくっ付いていた唇が離れていくと、ファンはセリに思いっきり抱きつく。ファンはとても重要なことに気づいてしまった。
それは夢の中ではセリと初体験を済ませたものの、現実ではまだなのであるということに。昨夜と言われても覚えのない架空のような話である。辛うじて夫婦であることを認識したファンは暴走していた。
「もう! まだ、明るいだろ! 仕事もあるんだし、夜になったら、ね」
宥めるように段々と優しくなる声にと共にセリの体から引き離される。その後、セリは部屋から出ていってしまった。
はぁ……と大きな溜め息を吐くと、ファンは部屋の隅に隠してあるお金を確認しに行く。銀貨が四十九枚。セリを身請けしてから全く減っていない。
「はぁ、なんだよ。嫁を手に入れてもお預けかぁ」
ファンの頭の中は、夜のことで一杯で考えを切り替える。着替えを終えたあと、ファンはベッドに腰掛け枕を見つめる。
「どう考えても、枕のせい、だよなぁ」
大金を手に入れた、綺麗な嫁も手に入れた。いつもの自分なら満足しているはず。けれども、何か物足りないと欲が出てきた。そして何かを忘れている気がして。
着替えを終えたファンは、ひとまず考える事を止めてセリの待つ一階へと足早に降りていく。
「おっ、やっと降りてきたね。ほら、朝食食べて仕事行ってきな」
椅子に座ったファンの前にセリは朝食の皿を並べる。それは、野菜と戻した干し肉の甘酢あんかけ。一般的な家庭料理であるが、独り身になってファンは久しく食べていない料理であった。
母親がよく作ってくれたなと思いつつ、一口口に入れると、やや酸味の抑えた優しい味に母親を思い出す。それは、まさしく母親の作ったものと同じ味。
ファンは勢いよく食べ出しておかわりまで要求する。満腹になったファンの姿を見て、セリは満足気に微笑んだ。
「それじゃ仕事行ってくる」
一息ついて、ファンは準備をして玄関で、洗い物をしていたセリに声をかける。
「頑張って、ファン」
送り出す為に玄関までやって来たセリは、ファンの頬にキスをすると少し照れ臭そうに顔を赤らめた。
「ふふ。新婚の頃を思い出しちまったからね」
「これから毎日お願いします!」
ファンが思い描いていた夫婦生活の一場面に、浮き足だったファンは家を出ると、地に足がつかないまま何度も振り返りセリに手を振っていた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
採集ギルドに向かいつつ、しばらくすると街の通りの真ん中で忘れていたものを思い出して、空に向かって叫ぶ。
「しまった……。俺の夢は探索ギルドで活躍することだった。登録すらしてねぇー!」
セリとの事があったとはいえ、この時まで、すっかり忘れてしまっていた。
「あ。いやしかし、現実では登録すら出来ないぞ。どうする……またあの枕に頼るか? いや、それよりもまずは今晩だ! ふふふっ」
突然、ニヤけて笑い出すファンを通りを歩いていた人達は、奇妙な物を見るような目で遠巻きに離れていく。浮かれ、表情がだらしなく緩んだファンは、急いで仕事を終わらせようと逸る気持ちを抑えきれずに、採集ギルドの建物の扉を勢いよく開いた。
「よぉ、ファン! 仕事か?」
「今度、オレにもハジョウ草の在処教えてくれよ」
今までは素っ気ない態度だった扱いをしてきたギルド仲間が、不思議と顔を見せたファンの側へと集まってくる。中には、馴れ馴れしく肩まで組もうとする者までいた。
「ほらぁ、ファンさんが困っているでしょ。それで、ファンさん、今日の仕事は?」
目もろくに合わせて来なかった受付の女性まで態度を急変しており、ファンは驚き戸惑う。人は自然とツイている者へと集まっていく。賭博でツイていない人生の始まりは消え、セリという綺麗な女性を妻としたファンにあやかろうとするのは無理もない。
普通なら、なんて調子のいい連中だろうと思うだろう。けれども今までのファンの人生において、これ程慕われることなど一度もなく、悪くない気分であった。
「なぁ、いつ奥さんと別れるんだ。別れたら教えてくれ」
冗談にしても失礼な事を言い出す奴もいる。それでも気分が良かったファンは「たとえ万が一、絶対ないけど別れてもお前には教えてやらん」と、冗談で返す余裕を見せた。
「仕事はいつものやつで頼む」
「はい、ドミグラ草ですね。それと、ファンさん。此処だけの話ですが……」
受付の女性はいつものように背負籠を渡すと耳元で「またハジョウ草見つけたら、持ってきてください」と囁く。どうやら前回の分は既に売れたようで、随分と美味しい思いをしたようだった。




