十話 夢幻世界② 新しい家族
色街を出るとファンは足を止める。身請けは購入ではなく娼館からの解放料。あとはどうするかは、セリの自由なのである。
「あー、えーっと、そ、それじゃ元気でな」
ぎこちなく別れの挨拶をしてファンは、くるりと踵を返して右手右足を出して機械仕掛けのような動きで立ち去ろうとした。
しかし、セリがファンの袖を掴んで離さない。
「ま、待ちなよ。わっちは、殆んど外の世界を知らないってのに放り出す気かい? そ、その無責任過ぎないかい?」
そう言ってファンの袖を決して離さず、俯き加減のセリは、バックに色街のきらびやかな灯りを背負ってなのか、顔が赤く染まっているように見えた。
「そ、その……じゃあ一先ず俺の家に来る?」
「いいよ。わっちは、あんたについていくって──」
「どうかした?」
言葉を詰まらせたセリに不思議そうな顔をするファン。セリは、何より先にファンに聞いておかなければならない事を思い出した。
「そういや、あんたの名前……まだ聞いてなかったよ」
「あ……そうか。そうだった。俺はファン。ファン・セリュウス」
「そうかい。うーん、どう呼べばいいのかね? ファン? 旦那様? ご主人様?」
「別にセリの呼びやすいのでいいよ」
何気ないやり取りであった。本当に些細な。今後何かと不便だからと名前を聞いたつもりであった。しかし、ファンは自分で決めろと言う。それは、今まで選択するということすら許されなかったセリにとっては衝撃的な一言であった。
この人は、初めて自分を人として扱ってくれた。それが何よりも嬉しかった。
「じゃあ、ファンで良いかい?」
「もちろん」
セリは優しい笑顔を浮かべると、袖から手を離して隣に寄り添い腕を絡める。密着されて照れるファンを見て、意地悪くセリは更に体を預けた。
結局のところ、男女の機微に関してはセリの方が一枚上手なのである。喜んでいいのか照れ臭いような複雑な表情をするファンに対して、セリは自然と愛おしくなっていった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
ファンの家の前に到着した二人。完全に朝日は昇り空は澄み渡る青空となっていた。ファンの背後にいるセリの表情は固く緊張しているようで何度も深呼吸を繰り返す。
「どうしたの、セリ。さっきも話したけど大丈夫だって」
「し、しかしね。わっちは、こういうの初めてで……どう挨拶したらいいのか」
セリの緊張の理由は、ファンの両親との挨拶にあった。まだ成人したての少年が、いきなり高額をはたいて女性を、しかも自分のような娼婦だった者を連れてきたとあっては、驚くだろう。
「大丈夫。俺がついているから」
娼館で出会った時とは逆にファンは手を伸ばしセリの手を掴むと、玄関扉をノックする。
「はい、はーい。どちら様ですかー?」
「母さん、俺だよ」
「ファン!?」
扉が勢いよく開かれると現れた母親は、ファンの後ろにいる女性を見て固まる。一秒、二秒、三秒……まだ、動かない。
「母さん?」
ファンの声に反応すると、母親は慌てて父親を呼びに行く。
「お父さん、大変!! ファンが……ファンが、お嫁さんを連れてきた!!」
まだ一言も話をしていないのに暴走気味の母親を止めようと伸ばしたファンの手が虚しく空を切る。家の奥へ母親は消えて行くと、残された二人は互いに顔を見合せ苦笑いを浮かべるしかなかった。
取り敢えず家の中に入った二人が玄関先で立っていると二階から両親が慌てて出てくる。
「ちょ、ちょっと、お父さん、どいて!!」
「か、母さんこそ、どいてくれ!」
お互いに譲らず、人一人通れるくらいしかない狭い階段を両親は顔を突き合わせて、一緒に降りてくると、ファン達の元に駆け寄り、セリの姿を前から後ろからと隅々まで見て回る。
「おお、凄く綺麗な人だな」
「本当。年は……ファンよりちょっと上かしら?」
「取り敢えず落ち着いて、二人とも」
ファンの声にハッと反応した二人は、セリにいきなり失礼な事をしたと謝り、家の奥へと連れていき椅子に座らせた。
まずはファンが事情を説明した。セリの姿格好から薄々感じてはいた両親であったが、娼婦であったことよりもファンが十銀貨ペリもの大金を支払ったことに驚きを隠せなかった。
「どうしたのよ、そんな大金……もしかして……」
母親は顔が蒼白になる。慌ててファンは、大金を手に入れた経緯を話すために、一度自室に金を取りに戻った。
ファンが居ない間、両親は黙ったままセリを見ていた。緊張のあまり、セリは内心恐縮していたが、それを表に出さないように背筋を伸ばして、なるべく気丈に振る舞う。それは、少しでもファンに相応しくあろうとしてか。テーブルの下のセリの脚は、小刻みに震えていた。
しかし、それは両親にバレているようで、ファンが戻ってきた瞬間、ホッと顔が緩んだセリを見て二人は思わず口元に手をあて笑いを堪える。
「どうかしたの、父さん、母さん」
「え、えぇ……別に」
「くっ……な、何でもないぞ、ファン」
ファンは一瞬首を傾げたが、すぐに気を取り直してテーブルの上に銀貨を並べ一連の賭博の話を始めた。
“白黒”は、公認賭博。選択は二択のため本来は少額で遊び感覚で行われるのが、一般的な感覚。両親は、賭博に大事なお金を使用したことよりも、減りはしたが四十九枚ある銀貨に驚いていた。
「それで、これ……」
ファンは父親に二銀貨ペリを差し出す。父親が自分のために用意してくれた二百銅貨ペリ分。それを返却するつもりで。
しかし、父親は受け取らずファンに突き返す。
「これは、ファンにやったものだ。受け取るつもりはない。それにこれからはファン一人じゃないんだ。何かと入り用になるだろ」
内心では父親ならそう言うか、もしくは怒られるかと覚悟していたファンは、父親に向けて深々と頭を下げる。お礼は言わない。既に受け取った時に一度言っているために。
ファンは続けてセリを紹介する。自己紹介しようとセリは立ち上がり、一言「セリです」と挨拶する。しかし、癖になった言葉遣いを隠そうとしているのは見え見えで、隣のファンから肘でつつかれると、一つ咳払いをして改めて言い直した。
「わっちは、セリ……です。未熟な身ではありますが、お義父様、お義母様には……」
「ちょ、ちょっと待った。セリさんだっけ? 堅い、堅い」
「お父さんの言う通りね。セリさん。私達は、もう家族なんですから。私も娘が出来て嬉しいわぁ」
既に浮かれ気味の両親は、深々と頭を下げようとしたセリを止める。
「それで、式を挙げるのかい? ちょっと遠くにいる親戚にも連絡しなければいけないから時間が欲しいのだが」
「あの……結婚は……特に予定は」
セリの答えにあからさまにガッカリするファン。セリは、ファンの誤解を解こうと理由を説明し始めた。
「わっちは、幼い頃から色々あって子供を授かることが出来ないからね。それに、わっちは元娼婦だから、ファンには相応しくないよ」
セリは自分の過去を両親に隠さず話す。黙って聞いていた両親であったが、母親はキッと目付きを鋭くする。
「セリさん!」
「は、はいっ!」
セリは急に名前を呼ばれて改めて姿勢を正す。しばらく黙ったままの母親からは、威圧感が発せられていた。
「顔をあげなさい。セリさん、いいかしら? 謙遜するのはいいわ。けれども自分を必要以上に卑しめるのはやめなさい」
母親は、凛とした態度でセリと向かい合う。セリは自分を卑しめるつもりは、さらさら無かった。何せ、今までは、それが日常で当然の事であったために。母親の言葉がセリの胸に突き刺さった。
「まぁまぁ、母さん。セリさんの気持ちも汲んであげないと。卑しめるというよりは後ろめたい気持ちなんだろう。それでどうだい、セリさん。俺の方から提案があるのだが、ファンが二十歳になるか立派になるまでに、他に女性が現れなければ、嫁になってやってくれないか?」
「父さん!!」
「まぁ、聞けファン。そしてそれまではファンの側にいて支えてやってくれ。四年も男を支えられたら大したものだし、ファンが立派になればそれはセリさんのお陰だ。誰も文句を言う人は居ないさ」
元々両親には反対するつもりも理由もない。けれどもセリ本人が納得しないのならば、体のいい後付け理由で、それを自分で乗り越えて気持ちに決着をつせさせよう、父親はそう考えていた。
ファンも母親も、そしてセリ本人も父親の考えはすぐに理解しセリは大きく頭を下げた。
「あ、ありがとう……ござい……ます」
小さく震え俯くセリの肩を優しくファンは抱き寄せて慰める。セリはファンを精一杯支えよう、そう心の中で誓うのだった。
「それじゃ、そろそろ朝ご飯にでもしましょうか」
「あ……お義母様。わっちも手伝うよ……います」
クスッと母親は笑うとセリを連れて台所へと向かう。その後ろ姿はまさに母娘のようであった。
「ふわっ……ぁ」
「どうした、ファン? 眠いのか?」
「気が張っていたせいかも。ちょっと朝ご飯が出来るまで、一眠りしてくるよ」
ファンは、そう父親に伝えると自室へ入り、倒れるようにベッドへ飛び込んだ。




