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川蝉祭  作者: 真野櫻子
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2部  5章  (8)

 もう、自力で立つことのできない拓也の重みがずっしりとかかり、杳は芝の上にへたり込む。それから拓也を芝生にそっと寝かせた。拓也の顔に付いた血を、泥を、指先で擦ってきれいにしようとするが、一度固まった血は容易には落ちない。

 杳の目から涙がぽたぽたと滴り落ちる。

 拓也はぼんやりと目を開けた。

 目を開けたところでぼんやりとシルエットしか分からないけど、それでも杳のほうに向かって、

「相葉たちは俺を助けてくれたんだ……。あいつら……俺の巻き添えなんだ……」

 自分が意識を保っているうちに、ただそれだけを、繰り返し何度も言った。

 杳はそれへ、何度もうんうんと頷きながら、

「拓也……。わかったから……。芭蕉さんたちのことは大丈夫だから……。もうしゃべらないで……」

 杳は拓也の顔を撫でる。

 拓也と同様にもう立っていられず、芝生に横になっている相葉たちもそれを聞いていて思わず込み上げ、それぞれ、目頭を押さえたり鼻を啜ったりしている。

 ひとり、何の感情も持っていないかのような義彦が、

「救急車を呼ぼう。――杳、おまえもおいで」

 と指揮する。携帯が使えないこの島では、救急車を呼ぶのに、まず公衆電話を探さなければならない。

 ところが杳は、

「あたしはみんなといっしょにここにいます……」

 と言った。

「駄目だ。おまえは俺と一緒に来るんだ」

 義彦は先程から、今までの杳に対する紳士然とした言葉遣いがやや乱暴になっている(いや、むしろ、こちらのほうが義彦の地なのであるが)。

 杳はその義彦に小さな声で、怖々と――でもその意思ははっきりと、

「いや……」

 と、拒否の表明をした。

 義彦は声こそ荒げなかったものの、いつもの沈着に、明らかに怒りを滲ませて、

「ここはどうあっても聞き分けてもらう。あいつらが戻ってこないとは限らないんだ。おまえがここにいることは、かえってこいつらの足手まといになるんだよ。それがわからないのか? 動けない拓也に、まだおまえの楯をさせるつもりか? ――大体おまえがここにいてやれることなど一つもない」

「――み、みんなの、む、虫を払ってやったり……」

 杳は常よりもいっそう怖い義彦に、涙ぐみながらも――でも、一生懸命説得した、いや、してるつもりである。

 義彦は絶句した。

 なんというか。

 その子供のような言い様に……力が抜けるというか……骨抜きにされるというか……。

 いくら心の無い義彦と言えど。

 それで一瞬(ほう)けた。

 気を失ってる拓也以外の三人は、力が入らないのに思わず笑ってしまう。

「巽さんの……負け……だな……」相葉が言った。

「そうか、そうか……。虫を払ってくれんのか。ははは。いてて……。ショウビンちゃん……笑わせんじゃねーよ……。痛てえじゃねーか……。ててっ……」坂本が言う。

「大丈夫です巽さん……。ショウビンさんは……門に鍵かけて、大人しく……しててくれますよね……」これは宮本だ。

 そして、杳も義彦に「はい、あたし、大人しくしてます」と言った。

 義彦は「はぁ……」と溜め息をついて、自身の、身だしなみのいい黒髪を乱暴にかきむしる。それからしゃごんで、拓也の脇で正座している杳のほっぺを両手で挟むと、真顔になって、

「まったくおまえというヤツは……。いいか? くれぐれもここから動くな。――いいな?」

「――はい」

 義彦はもうそれ以上は何も言わず、門から出て行った。杳は内から門の鍵をかけてから、他の三人の様子を見に行く。

 痛いですか?

 何かして欲しいことはないですか?

 坂田と宮本は、いざ、ショウビン樣の杳にそんなふうに聞かれるとひどく恐縮して、大丈夫大丈夫、と言った。

 杳は相葉の側にしゃごんで同じことを聞いた。相葉はそれには、あぁ、と簡単に答えて、それから、

「俺は、あいつらのことを誤解してたのかもしンねえ……」

 と呟いた。それはいつものごとく耿司よりもさらに悪い目付きであったけれど、神妙というか殊勝というか、とにかく、しんみりと静まった口調である。

「俺は、あいつらが親父の会社のために、友達ヅラしてあんたをいいように利用する気なんだとばかり思って……。でも、どうやら条乃はそういう奴じゃないみたいだな……。たとえ親兄弟のためでも――惚れてる女のためでも――普通、あんなふうに身体を張れないぜ。一歩間違えば頭を叩き割られてるんだからよ……」

 確かにそのとおりだ。拓也、ほんとに、なんて危ない真似をしたの……。

 その瞬間、杳の目に涙がぼあんと一杯に溜まる。

「それにあいつは、あのクソどもが狙ってる奴のことも、ひと言も言わなかった……」

 それは収のことらしかった。

 拓也が収と知り合ったのは最近のことだ。この島に来たばかりの自分よりも、さらに付き合いが短いぐらいなのである。そういう人のことも、自分の古くからの友達と同じように扱う。拓也にとっては、その人がどうというより、人を売るような真似は自分のプライドが許さないのだろう。

 不器用で――そして、なんて正しい人――。

 そう思ったら、杳はさらに泣けてきた。

 拓也ならきっと、あたしが本当に新型インフルだったとしても、態度を変えたりしなかったんだろうな……。

「ショウビンさん、俺らのことはいいから――。野郎ののそばに付いててやんなよ……」

 杳は相葉の無愛想な言葉に頷いて、立ち上がった。

 杳が傍らに膝をついて覗き込んでも、拓也はぴくりとも動かなかった。

 瞬く星明かりが拓也の顔を照らす。試合後のボクサーのように、至るところが黒ずんで腫れ上がった目鼻。杳はつらくて、思わず目を逸らしてしまった。

 しばらくして、拓也が小さく呻き声を上げた。杳はビクンと飛びあがる。

「拓也……痛いの……?」

 と、もう一度、拓也の顔を覗き込んだ。もう、見ているのがつらいなんて言ってられない。

「…………」

 拓也はそれぎりもう声が出ない。

 杳の目から涙が零れる。

「ごめ……んなさい……」

 杳は拓也の頬に手をやった。

「あたしのせいだね……」

 杳はもう片方の手で、棒切れのように転がってる拓也の手をそっと握った。

 杳の目から涙がぽろぽろ零れ落ちる。

「拓也、死なないで……。お願い……死なないで……」

 拓也は何も答えない。しかし、時々指が少し動いたり、弱々しい力で杳の手を握り返したりする。それが杳が唯一感じることのできる、拓也の生命の手応えであった。

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