2. はずむ歌
「おはようございます、兄様」
いつもより少し急いで支度をしダイニングへ行くと、すでにアル兄様が食後の珈琲を飲んでいた。
「おはよう寝坊助。またマリーに起こされたんだろ。」
「違います。ちょうど起きるところだったんです。」
宰相補佐である一番目の兄アルベルトは、ちょっと意地悪だけれど優しくて温かい人だ。
幼い頃から神童と呼ばれ、革命時も十六歳という若さで参謀の一角を担ったというから驚きだ。
昨夜もかなり遅くに帰宅したようで、今日は少し休んでから登城するよう指示されたのだろう。
洗練されたその振る舞いとクールな眼差しは、城へ行けば多くの女性陣を惹きつけるとか。
父様譲りの濃紺の髪と母様譲りのエメラルドの瞳。そして何より甘いマスク。確かにかっこいい。
「祭祀の準備も大詰めだろ?周りの邪魔するなよ?お前のことだから躓いて花瓶割ったとかさー。」
……黙っていれば。
「失礼なっ!高価な花瓶は持たないように気をつけてますから!」
「お嬢様、そこではないのでは……」
「だよなぁ。ますます心配だよ、お兄様は」
わざとらしく額に手を置き首を振るアル兄様は、とっっっても楽しそうだ。
「いつもいつも、そうやって意地悪言って!ちょっと、マリーもそんな呆れた顔しないでよ!」
「まぁまぁ。お嬢様、おはようございます。坊っちゃま、珈琲のお代わりを。」
「……っ!おはよう、ジャン。」
「ゴホン。あぁ、もらおう。」
タイミングよく兄妹喧嘩を止めるのは、執事であるジャンの仕事だ。
ロマンスグレーに上品な口髭。子供の頃から変わらぬ彼の風貌に、人間ではないのではと長いこと疑っていたのはここだけの秘密。
そしてこの屋敷で一番偉いのはもちろん父様だが、一番怒らせてはいけないのはジャンだ。
子どもの頃、屋敷に迷い込んだ野良猫を追いかけて家中を泥だらけにした時は……
いや、思い出すのはやめよう。
うっかりジャンの静かに怒った顔を思い出して顔が引きつったままアル兄様を見ると、どこ吹く風でカップを優雅に置いていた。
こうやっていつもの毎日を過ごせば、起き抜けのあの鬱々とした気持ちは薄れていく。
「父様とレオ兄様は?」
「父上は早朝に一度着替えに来て、すぐに出掛けたよ。レオは夜勤明けのはずだが……鍛錬馬鹿だから、すぐには帰ってこないだろ。」
革命時、参謀としての活躍が目覚しかった父様は当代の宰相に任命され日々忙しくされている。
一緒に食事を取れることの方が珍しいくらいだ。
実は、父様のことは少し苦手。
あまり話をしないということもあるけれど、父様の眼は何でも見透かしているようで怖い。
あのラピスラズリの瞳に見定められると、自分が「厄介者」であるということを痛感させられる。
二番目の兄レオナルドは、騎士として最強の強さを誇った母方の祖父の才を受け継いだのか、幼少時より武芸に秀でていた。
今では騎士団の副長を任されており、三度の飯より鍛錬が好き。訓練の度に部下たちは泣くことになるらしい。
「お前が一番のんびりだよ、寝坊助。」
「むっ。いつもより早く起きてます。だいたい父様や兄様たちが寝なさすぎなんです。」
「まぁ、それは言えてるな。俺やレオはともかく、父上も盟主も、もはや人外の域だしなぁ。」
そう呟いて笑うアル兄様の顔に、ふと面影が見えて、また少し心が疼く。
今日はよくお母様のことを思い出す。
もうすぐだと、予感がしているからだろうか。
予感、と言えば。思い出して口元が緩んだ。
『うふふ。だってフィオは大丈夫だって思ったの。私の予感は当たるのよ?』
そう言って、横たえた消え入りそうな細い体で楽しそうに笑った人。
冷徹な参謀、血の通わぬ宰相と名高いお父様が唯一愛している人。
兄様たちを掌で転がしてしまう人。
誰からも愛される人。
そして何より、何者かもわからない私をランドルフの家に迎え入れた人。
そっと顔を上げればダイニングの大きな窓から差し込む薄い光を浴びて、今日も絵姿のお母様は微笑んでいる。
「お嬢様、早く召し上がりませんと。」
マリーに促されて視線をテーブルに戻すと、ほんの少しの間に朝食の支度が整っていた。
「わぁ今日も美味しそう。ありがとう。いただきまーす!」
「食べ過ぎて太るなよ? 祭祀の衣装が着られないなんて、いい笑い者だよな〜」
「もう!私そんなに太ってませんから!!」
「お嬢様、本日のスープはカボチャのポタージュでございます。」
「やったー!」
「現金なやつ。」
曇りのないフォークを手にサラダを食べる私の目の前には呆れ顔のアル兄様、側には笑いを噛み殺しながらスープを給仕するマリーと目尻に皺を寄せたジャンがいる。
ーーーあぁ、何て、残酷で、幸福な、日々なのだろう。