8 牙狼
伊沢と江崎を乗せたベンツは、その教会の敷地内に音もなく吸い込まれていった。
あの運命の日、禍々しき術式が執り行われていた、あの教会だ。
しかし、今はその狂気の片鱗すら見せることなく、静かにそこにあった。
「お久しぶりです、伊沢さん」
寺垣は、笑みを浮かべてベンツを下りた伊沢を出迎えた。
「――おお!? 寺垣殿。いつ日本へ?」
意外な出迎えに、驚きと喜びを隠しきれず、伊沢はそう訊き返した。
「昨晩に。少々厄介なことが起きましてね、日本に引きずり戻されたというわけですよ」
寺垣は、むしろ楽しんでいるような口調でそう言った。
「厄介なこと?」
「ええ。急にお呼びだてしたのは、そのことについて力をお貸し願えないかと思いまして。――ああ、話は私の部屋で」
わかりましたと答える伊沢を自室に招き入れ、二人は本革のソファに向き合うようにして座っていた。
伊沢を送って来た江崎は、別室で待機している。
「それで、厄介なこととは?」
二人の間にあるテーブルには、淹れたてのコーヒーが置かれていた。
馥郁たる香りが部屋を満たしていく。
寺垣が淹れたものである。寺垣は、伊沢を招いたときだけ、自分でコーヒーを淹れるのだ。
伊沢は、寺垣の視線をそらすことなく、正面から男の眼を見つめ返していた。老人とは到底思えぬ雰囲気が、伊沢の全身から漂っている。また、寺垣も常人よりは体格がいいのに、伊沢は、その寺垣よりも肩幅が広く、がっしりとしていた。
「実験体が、二日前の夜、信者たちを皆殺しにして逃亡してしまったのです」
寺垣が平然と言う。
それを聞いて、伊沢の獅子の如き顔が、ピクリと動いた。
「実験体が?」
「はい。以前にお話ししたと思いますが、汎用型を目指して開発していた『騎士』型の実験体です。――それを、あなた方に捕らえていただきたいのです」
「無論、我等に断る理由などありませんからな。寺垣殿の命令とあらば、すぐにでも行動を開始いたしますが」
伊沢の率いる牙狼連合は、一〇年ほど前までは牙狼会と名のり、別の暴力団組織の傘下の弱小組織にしか過ぎなかった。
構成員も、当時は百名にも満たず、何らかの抗争に巻き込まれて消滅するのを待つだけであった。
苦悩の毎日を過ごす伊沢らの前に、寺垣が現れたとき、彼等は生まれ変わったのだ。
寺垣は、伊沢に力を与えてやろうと言った。
力?
そう訊き返す伊沢に、寺垣は、あの悪魔のような微笑を浮かべて、そうだ、誰にも決して負けることのないすばらしい力だ、そう言って、伊沢に手を差し伸べたのだ。
組織の生き残りを賭けていた伊沢にとって、寺垣の誘惑は拒めないものがあった。そう感じさせるものを、寺垣は持っていたのだ。
そして、牙狼会は『ノウド』の誘いを受け、悪魔の如き力を手に入れた。
それが、魔装鎧である。やがて、構成員のほとんど全てが魔装鎧を着装できるようになり、地上の全ての兵器に打ち勝つ力を手に入れた牙狼会は徐々に勢力を伸ばし、やがて牙狼連合と名を変え、次々に他の組織をその傘下におさめていった。
これが、『ノウド』と牙狼連合とのつながりである。
「では、お願いします。もし、一〇五号――逃亡した実験体のナンバーですが、こいつが組織に戻り再手術を受けることを拒否した際は、殺してもらっても結構です」
寺垣は、逃亡した少年の写真を伊沢に差し出しつつ、そう告げた。
「よろしいのですか?」
「はい」
「わかりました。では、早速一〇五号の居所を探させましょう。――しかし、これだけなら電話だけで話も済みましょうに」
「いえ、実は、もう一つあるのです」
そう言うと、寺垣はキザな仕種で指をぱちんと鳴らした。こんな仕種が似合う男などそういないであろう、そう思われる仕種であった。と、寺垣の背後の壁が左右に割れ、巨大な液晶モニターが現れる。
同時に、天井のシャンデリアが消えた。そして、その液晶モニターに一体の邪悪な影が映し出される。
「おお!」
それを見た途端、伊沢が珍しく興奮して腰を浮かし、感嘆の声を上げる。眼が輝き、身体が、声が震えていた。
「気に入っていただけましたかな?」
寺垣がその映像を背に、足を組んで伊沢とは対照的に冷ややかに告げる。
「あなた用に開発した鎧です。魔装鎧『銀獅子』――獣王系の鎧です」
その名の通り、スクリーンには白銀の装甲を持つ、獅子頭の魔神が映し出されていた。
「いかがです? 手術を、受けていかれますか?」
鎧の美しさに心を奪われた伊沢の麻痺した脳髄に、寺垣の冷たい声が染み渡る。それは、そう、悪魔の囁きにも似ていた。
津田由紀は、その日、彼女がマネージャーをしている早坂京子が妙に上機嫌なのを見て、少し不思議に思った。
二日前のあの雨の夜、京子は一つの大きな岐点に立たされて、その選択に迷っていた。
自分の身体を売ってでもより大きな仕事への足掛けを得るか、それを蹴るか。
もし後者を選べば、生意気な娘としてこの業界から追放され、路頭に迷うかも知れない。だからといって、一度抱かれてしまえば、相手の増長を招くことにもなりかねない。いや、必ずそうなるだろう。
そのことで迷っていた筈の京子が、その日、撮影所に姿を現したとき、実に生き生きとした笑顔を浮かべていたのである。それに、足どりが軽やかであった。
いったい、何があったのかしら。
由紀は、その理由を京子に聞いてみることにした。
マネージャーとして、知っておかねばならないことだと思ったからである。
京子はそのとき、撮影所に設けられた楽屋で、スタイリストさんに手伝ってもらって化粧をしていた。
「――あ、おはよう、由紀」
京子が、鏡に向かったまま、部屋に入ってきた由紀を見てそう言った。
「おはよう。――ねぇ、京子ちゃん?」
「ん――?」
口紅を塗りながら返事をする。
「今日はどうしたの? いやに機嫌がいいじゃない?」
と、由紀が京子の顔を覗き込むようにして訊く。
「そう? やっぱり、わかるかなぁ」
照れ隠しに、へへへと笑う。
「ねぇ、何があったの?」
と小さな声で言い、京子の脇を肘でこづく。
スタイリストのお姉さんも、微笑を浮かべて、二人の会話を興味深そうに聞いている。二人の仲の良さは、このプロダクションでは有名なのである。実際、京子も由紀のことを姉のように慕っていた。
「あのね、あの話、断っちゃった」
ぺろっと舌を出して、京子がおどけて言う。
「え? こ、断ったって、京子ちゃん、あなた……」
「考えてみたらさ、馬鹿馬鹿しいじゃない。どうして売れるために、あんな脂爺いに抱かれなくちゃいけないのよ。――ね、そうでしょ?」
京子が、あまりにもあっさりと言ってのけたので、由紀はすぐに反応できず、しばし茫然となった。
「そ、そりゃ、まあ、そうだけど…。――ねぇ、何があったのよ、いったい…?」
「ま、いろいろとね」
京子は微笑んで、あの雨の晩に出会った少年のことを、由紀に話して聞かせた。
「へえ、そんなことがあったんだ」
「そ。――あの子見てるとね、何だか、こんなことで悩んでいるのが馬鹿みたいに思えてきたのよね」
「だから断ったと」
溜息まじりに、由紀が肩をすくめる。
「やれやれ。社長、怒ってたでしょ」
「へへっ、まあね」
かわいく舌を出す京子。
「でもね、これでいいんだ。この世界にいられなくなったって、何とかなるわよ」
「あらま、大した変わりようね。その、順弥君だっけ? 京子ちゃんを覚らせるなんて、大した子ね」
「なにそれ? 覚るだなんて、お婆ちゃんみたいよ」
京子はそう言って、クスクス笑った。
つられて、由紀も笑う。
「――ねぇ、私、順弥君に会ってみたいな」
「え?」
「だって、京子ちゃんをここまで変わらせたんだもの、会ってみたくもなるわよ」
「私はいいけど?」
「――じゃあ、決まりね」
京子は、鏡の前でにっこりと笑った。