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ダークナイト  作者: 神月裕二
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5 遭遇

 雨が降っていた。

 深夜である。

 街はすでに眠りについており、時折りタクシーが客を乗せてやって来て、走り去って行くが、その音もほとんど雨音にかき消されていた。

 いつしか雷は鳴り止んでいたが、雨足は依然として強く大地を叩きつけていた。

 その豪雨の中、一つの影が疾り抜ける。

 何かから逃げるような足どりだ。時々それが乱れてこけてしまいそうになるが、それでもその影は闇の中を走り続けた。

 何処を目指しているのか。

 恐らく自分が何処に向かって走っているのかさえ、その影はわかっていまい。

 ただ、逃げていたのだ。

 立ち止まれば、一瞬でおのれ自身を呑み尽くすあの恐るべき運命から。



「――ありがとう、ここから歩くわ」

 深夜。

 雨の通り。

 赤色のロードスターがS市中央公園の正面入り口で停車した。

 ドアを開けて、一人の女が傘を差して車を降り立つ。

 背が高く、髪の長い美しい女であった。年齢は二二、三歳といったところだろうか。抜群のプロポーションの持ち主である。

「本当にいいの、京子ちゃん? 女の一人歩きは危ないわよ、雨も降ってるし」

 眼鏡をかけた美女が、運転席から京子の顔を覗くようにしながら声をかける。

「大丈夫よ。こんな日に外を出歩く痴漢なんて、いやしないわよ」

「そりゃ、そうだけど…」

「じゃ、そーゆーことで。次の撮影は明後日よね、由紀」

「え、ええ」

「じゃ、おやすみなさい」

 京子は明るく笑って、ロードスターのドアを閉めた。

 それからしばらくの間、由紀が心配そうな表情かおを覗かせていたが、京子が笑顔で手を振ったので、仕方なく車を発車させた。

 飛沫を上げて車が走り去り、その姿が見えなくなると、京子は不意にその美貌を曇らせ、溜め息を一つついた。

「――たまには、ひとりで帰りたくなるときもあるわよ」

 そうごちると、京子は公園の闇の中へ歩き出した。

 街灯が寂しそうに淡い光を放ち、闇を退けようとがんばっている。

 早坂京子は、小さなプロダクションに所属し、モデルをやっていた。

 すでに何度か有名雑誌の表紙を飾り、近々、写真集を出すという話も出ているほどのモデルである。

「そりゃあね、売れるってのはいいことだけどさ」

 京子が、足許の水たまりの雨水をブーツの爪先で跳ね上げる。

「そのために、身体を売るってのは嫌よね」

 この日、彼女は撮影終了後に、所属するプロダクションの社長に呼ばれ、次のような話を聞かされたのである。

「より良い写真集を作るには、今以上に金と人が必要なんだ。――でね、スポンサーの社長さんが、君が言うことを聞いてくれれば、もっと金と人を出さんでもない、と。――わかるね、この意味が」

 わかりたくもなかった。

 いわゆる、枕営業というやつだ。

 京子はすでに処女ではない。

 しかし、いや、だからこそ余計に迷った。迷って、返事は今度の撮影のときまで待ってくれと言ってきた。

 とはいえ、それまでに結論は出せそうになかった。

 いや、もしかしたら答えはもう出ているのかも知れない。

 だからこその迷いである。

「あんな脂爺いに、どうして抱かれなくちゃいけないのさ」

 考えただけでも総毛立つ。

 モデルに人権はないのかと泣きたくもなる。

「あーあ…」

 京子は、この状況から逃げ出したくなる衝動を必死にこらえ、とぼとぼと公園を歩き出した。

 ほどなく、公園の出口が見えてきた。

 ライトに照らされて、ぼんやりと浮き上がっている。

 そして、道路をはさんで建つ三〇階建てのマンションの二〇階に、京子の部屋があった。

 こんな高級マンションに住めるのも、モデルをやっているおかげだ。

 だから、今辞めてしまえば、自分はきっと路頭に迷うだろう。

 うまくいけば、他のプロダクションが拾ってくれるかも知れない。

 しかし、そのスポンサーの社長が圧力をかけたら…。

 それが出来る立場に、彼はあるのだ。

 売れて欲しい。そのために、自分は青森の田舎から出て来たのだ。

 だから、売れるために身体を売るのは仕方のないことなのかも知れない。

 この世界で生き残るためには…。

 そのとき、京子の背後の茂みが、がさっと音を立てた。

 その音を聞いて、京子が、ビクッと身体を震わせる。

 一瞬で顔が蒼白になり、冷や汗が出た。

「…ち、痴漢さん、かな? それとも…」

 立ち尽くす京子の背後で再び茂みが鳴り、続いて水たまりに何かが倒れる音がした。

「――!?」

 反射的に振り向いていた。

 その京子の眼の前に、一人の少年が俯せになって倒れている。

 しかも裸だ。

 少年を抱き起こそうと駆け寄る。

 わりと筋肉質の身体に、いくつもの切り傷が走っている。血が流れているものもあった。

 その少年を見た瞬間、京子は、自分が異世界に足を踏み入れたことを実感した。

 この少年の存在は尋常ではない。

 自分は、今、この場にいてはいけなかったのだ。

 しかし、頭ではそう叫んでいるのに、身体は言うことを聞かなかった。

「き、君、大丈夫!?」

 少年を抱き起こし、その身体を見た瞬間、京子は、きゃっとかわいらしい悲鳴を上げていた。

 少年の逞しい胸から腹部にかけて刻まれた不可解な記号。

 赤黒い肉を覗かせる傷口を見たとき、京子はこみ上げてくる酸っぱいものを必死で呑み下していた。

 頬を叩き、意識を取り戻させようと、少年の身体を揺り動かす。

 しかし、呻き声を上げるだけで、少年が起きる気配はない。

 そのうちに京子は、少年の身体が熱っぽいことに気づいた。しかも震えている。

 京子は焦って額に手を当てた。

「…すごい熱だわ」

 どういう事情があるのかわからないが、傷だらけで、裸で雨の中にいたのなら、熱を出すのも当然だろう。

 このときすでに、京子はこの少年を自分の部屋に連れていくことに決めていた。

 このまま見捨てていくほど、落ちぶれてはいなかった。

 京子は着ていたコートを脱いで少年の身体をくるむと、苦心しながら雨の中少年を背に負った。

「まったく、これからどうなるんだろう…」

 また溜め息をついた。

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