3 覚醒
「こ、こんな…」
その少し前、手術台に一番近かった一人の医師が狼狽した声を上げた。
今、自分が眼にしているものが信じられないという風に、首を振る。
有り得ない。
あってはならない。
それなのに。
「た、大変です!? 一〇五号が、眼を開いています!」
ようやく声を搾り出せた。
「な、何だと!?」
眼鏡の男の顔色が薄明の下でもわかるほど、真っ青に変化した。
こけつまろびつ手術台に駆け寄って、少年の顔を覗き込む。
その男の言う通りだった。
少年が眼を開いていた。まだぼんやりとしているが、それでも瞳の奥に輝くのは知性の光だ。
その瞳を見た瞬間、眼鏡の男は「手術」の失敗を悟った。
「…ここは、何処だ?」
急速に覚醒へと向かい、少年が呟くように言う。
そして起き上がろうと四肢に力を入れた。
起き上がれない。
少年が頭部をめぐらせて、自分の右手首を見た。
そこに、己れの身体を手術台に縛りつける鋼鉄製の枷があった。
「何だ…これは?」
少年は、自分の頭の左右に立つ白衣の男たちに向かって言った。眼が、彼等の顔を睨みつけていた。そこには、はっきりとした意志があった。
「貴様等、何者だ…?」
「ヒィ…」
眼鏡の男は、思わず退いてしまった。
完全に若者の眼光に気圧されてしまっていたのだ。
恐怖さえも感じていた。
彼は眼鏡のガラス越しに見た。少年の四肢が小刻みに震えているのを。
腕や足の太さが倍近くにまでふくれ上がっていた。血管が浮き上がっている。
凄まじい力が少年の体内から湧出しているのだ。
何をするつもりだ。まさか、あの鋼鉄製の枷を引きちぎるつもりか。馬鹿な。いくら何でもそれは無茶だ。ナンセンスだ。ほら見ろ、鋼が腕や脚、それに首に食い込んで、ああ、裂けて、血が出ているじゃないか。やめろ、それ以上やったら首がちぎれるぞ、死ぬんだぞ!?
オオオオオ!
少年が獣の叫びを放った。そのとき、眼鏡の男は見た。少年が天に向けて咆哮を上げながら、赤黒い気体を口から吐いているのを。
「まさか――」
男の背中を氷のように冷たいものが滑り落ちていく。
アレは、魔装鎧を鎧おうとする者が吐く悪魔の息だ。
馬鹿な!? 手術は中止された筈だ。
「た、大変です!? 魔装鎧召喚プログラムが、作動しています!?」
「な、何だと!?」
今まで少年の顔に気を取られていたので、誰もプログラムの作動に気づかなかったのだ。
確かに手術は中断され、召喚プログラムも停止された筈だ。それが、どういうわけか再び作動を始め、少年の身体に貼り付けられた符に悪魔の力を送り込み続けていたのだ。
見れば、確かに胸から腹にかけて赤黒く刻印された魔文字に朱色の紗がかかっていることに今さら気がつく。
再び、少年の咆哮が医師たちの耳をつんざく。
このときほど、広間に通じるスピーカーが壊れてしまっているのを恨んだことはなかった。
助けが呼べないのだ。この炎と煙では中の様子など知れよう筈もない。
それに、広間の方でも混乱が生じていよう。つまり、ここは、我々だけで何とかしなければならないのだ。
「銃をとれ! 魔装鎧を装着するまでに何としても撃ち殺すんだ!」
少年の装着する『騎士』型の鎧は、汎用型を目指してプログラムされた、いわば試作型である。それだけに未知数が多く、ここでこの少年――一〇五号を世に放てば、『ノウド』の障害にもなりかねなかった。
男の命令一下、医師たちは白衣の胸もとを広げ、その内側から黒光りする凶器――ベレッタを取り出して構えた。医師たちは全員、かなりの戦闘訓練を積んでいるのか、見事な構えであった。すでに初弾は薬室内に送り込まれている。
そして、そのとき、異様な破壊音が医師たちの心に氷の槍の如く突き刺さり、眼に映った光景が、彼等に拳銃の引き金を絞らせていた。
大気を震わせ焦がす銃声が、その瞬間連続して生じた。
彼等の眼は、いくつもの銃弾を受けて跳ねる少年の身体と、そこから弾け飛ぶ肉片を見ていた。
しかし、それは現実に起こったものではなかった。弾丸は全て、少年の身体に穴を穿つ寸前にその螺旋運動を止め、エネルギーを失って、床にバラバラと転がり落ちたのである。
「…ああ…」
もはや彼等に生き残る道はなかった。何故なら、赤い呼気を口から吐く少年が、首や手足首に鋼鉄製の枷をまとわりつかせたまま、手術台から降りようとしていたのだった。
先ほどの異様な破壊音とは、少年が手術台と自分を拘束する枷を、力任せに引きちぎった音だったのだ。
ハアアアア…
少年の口から洩れる赤黒い気体が、身体を取り巻くように漂って離れない。
少年の精悍な顔が動いた。その表情を見ると、手足に枷がぶら下がっているのに初めて気づいたようである。
わずらわしそうに右手を動かして、左手首の枷を無造作にむしり取る。いとも簡単にちぎれたそれを、ひょいと放り投げる。
鉄の塊はサーバーやデスク上のコンピュータを容赦なくぶち抜き、火を噴かせた。それを見た医師たちが、半狂乱に陥る。
そんなことにお構いなく、少年は残りの枷を取り払い、その枷でさらに次々とコンピュータを破壊し、また、狼狽し困惑している医師たちの頭をざくろのように弾けさせた。
「がっ!」
少年が短く吠えたとき、その双眸が、らんと輝いた。
その瞬間、少年の背後に暗黒の穴――そう、まさに穴である!――が出現し、同時に炎が手術室を埋め尽くした。
何が原因で突如猛烈な炎が室内を埋め尽くしたのかわからない。もしかしたら、少年の背後に口を開けた暗黒の穴の所為かも知れぬ。
その凄まじい炎の中で、しかし、少年は炭と化して崩れ落ちることも、瞬時にして燃え尽きることもなかった。
少年は、いつの間にか暗黒の鎧に全身を包み込まれていた。
炎の舌にあぶられても、反射一つしない真の闇の鎧。それこそ、少年に与えられた悪魔の鎧――魔装鎧であった。
頭部を覆った悪鬼の如き兜、激しく燃えさかる炎を象った暗黒の鎧――まさしく悪魔の鎧。
ゆっくりと魔装鎧を身につけた少年が、ぶ厚い耐圧ガラスに向かって、炎の中を歩き出す。一歩踏み出すごとに、床が鎧の重量に耐えきれずに陥没していく。
少年が右拳を握りしめて引いた。
それに呼応するように地獄の業火が少年の周りで音を立てて渦巻いた。
再び咆哮。
拳が炎を巻いて、耐圧ガラスに疾ったとき、室内を埋め尽くしていた業火が、一気にガラスに向かって動いた。
まぎれもなく、少年は炎を操っていた。だが、そのことに少年は恐らく気づいてはいまい。
それはともかく、厚さ数センチもあるガラスは、いとも簡単に砕け散り、室外の新鮮な空気を吸って、炎は新たな息吹を上げたのである。
少年はゆっくりと炎の中から歩み出、眼下に広がる大広間を見下ろしていた。
兜から覗く少年の口は、今や邪悪な笑みに歪み、大きくめくれ上がっている。
そして、依然として赤黒い呼気が歯の隙間から洩れて漂っていた。