2 起動
ようやく一つの紋様が完成した。
張りつめていた緊張の糸が、ふっと緩む。
それを一つ描き上げる頃には、メスを取っていた男も汗だくになっていた。ひとたび精神の高揚感が落ち着くと、全身を襲うのは凄まじいまでの疲労である。それほどまでに精神力、体力を使う作業なのだ。
そのため、その男が汗を拭ってもらおうと他の白衣の男に顔を向けたとき、眼鏡の男が冷たい声で無情にも告げた。
「何をしている。休むな、続けろ。時が移っては全てが無駄になる」
「は、はい…」
再び男はメスを取って、少年の身体を切り裂き始めた。
すると、その紋様の持つ妖しい効力なのか、やはりその男の精神状態が高揚し、一種のトランス状態になるらしい。
今や眼は恍惚な色をたたえ、口許が笑みに歪みだした。
少年の身体に刻み込まれた紋様から流れ出す血で、すでに手術台もぬるぬるになり、真紅に染まっていた。
左鎖骨の辺りから始まった奇怪な紋様は脇腹の辺りまで行くと、すぐに二行目に入った。
紋様は五センチ四方の正方形に入る大きさで、全ての紋様を刻み終えるまで、約三時間が経過していた。紋様は全部で五列――合計三〇個あった。
今や、少年の身体は出血多量で、死に至ろうとしていた。脈拍、血圧ともに危険なまでに低下し、心電図の描く波も小さなものとなっていた。
しかしなお、手術台の下にまで血溜まりが出来ていようとも、手術は続行された。
輸血すらなしに!
「魔装鎧作成プログラム、及び召喚プログラムの転送準備」
眼鏡の男の声が冷ややかに流れる。
彼らの言う魔装鎧とは、異次元の生物が寄り集まって形成された、この世界のあらゆる法則に当てはまることのない鎧のことである。
つまり、簡単に言えば、この世界の武器――剣、銃、ミサイル、核などといったあらゆる攻撃手段が、まるで役に立たないものとなってしまうのである。
そして、魔装鎧作成プログラムは、その名の通り、魔装鎧を作成するためのプログラムである。
このプログラムには、異次元空間に侵入し、そこに住む生物の肉体を、事前にプログラムされた鎧の構成――用途、強度、形、色などといった様々な要素通りに集める作業がインプットされている。
そして召喚プログラムが、そうやって形を為した鎧をこの地上に召喚し、被装着者の身体と融合させるのである。これによって、無敵の戦士が誕生するのである。この間に要する時間は、コンマ〇五秒以内だとされている。
そして、この場合の異次元とは、「魔界」と一般に理解される世界に他ならなかった。
今、その恐るべき戦士を誕生させるべく、身体に刻まれた紋様の一つひとつに、符が貼り付けられていく。そしてその符には無数のケーブルがつながり、そのラインは、部屋の隅に設置された巨大なサーバーに、いくつかの機械を通して最終的につながっていた。
「転送作業、始め」
その声に、端末の前に座っていた男が反応する。手がマウスを動かして、ノートPCで画面に表示されたボタンを押す。
サーバーに電気信号が伝わり、プログラムが起動される
その途端、少年の身体が跳ねた。それは、けいれんで収まる跳ね方ではなかった。
異常である。恐らく、手術台に拘束具で身体をつなぎ止めていなかったら、彼の身体は空中にまで跳ね上がっていただろう。
そう思えるほどの跳ね方だ。
「――!?」
これまで冷静に指示を出していた眼鏡の男も、これには驚いた。慌てて、手の空いている何名かに向かって、
「何をしている、早く押さえつけろ!」
と怒鳴ったほどである。
これを見ていた頭巾たちにも動揺が走っていた。
もはや呪文の詠唱などやっている余裕はなかった。広間が一瞬にして騒然となり、混乱に包み込まれる。
こんなことは初めてであった。
何かが起こる。いや、もう起こってしまったのかも知れない。
破滅だ。
終わりだ。
司祭は彼等に向かって「静まれ」と連呼しているが、いっこうに静まる気配はなく、それどころか騒ぎは拡大する一方であった。
「ぐわああああ!」
少年の口から咆哮が上がっていた。医師たちが懸命に少年の身体を押さえつけ、多量の鎮静剤を打ち込むが、まるで効き目はない。
「な、何が起こっているんだ…?」
「わかりません!? 麻酔は計算通り投与していますし、魔物の精神支配を回避するための抗魔剤の使用も問題ありません!」
「では、何だ!? 何が原因なんだ」
眼鏡が叫ぶように言う。
「何か別の要素を見落としていたのか、それとも『騎士』型のパワーを見誤っていたのか…」
「プログラムの転送作業を中止しろ!」
眼鏡の男が、少年の絶叫の中で叫んだ。
少年の身体をよってたかって押さえつけていた医師の一人が、自分の端末に飛びついた。プログラム転送作業開始の際、マウスをクリックした男だ。
その男がモニターを見たとき、プログラムの転送が八割近く終了していることがわかった。モニターの下辺に横の棒グラフで示されているのがそれだ。
もう少しなのに。もう少しで、全てが終わるというのに。
「早くしろ!」
ためらう男に、恐慌に陥りかけた眼鏡の絶叫が降りかかる。男の手がマウスに伸びた。そして転送作業を中断させようとマウスを動かした瞬間――まさにその刹那、天より一条の烈光が教会めがけて虚空を疾り抜けた!
その稲妻は教会の屋根に取り付けられた金属製の十字架に吸い込まれるように落ち、建物全てをその衝撃波で振動させた。
ガラスが次々に弾け飛んでいく。
そして、十字架はグラリと揺れて地面に真っ逆さまに突き刺さった。加えて、稲妻の凄まじい電気エネルギーが教会内部に張り巡らされた電気コードに流れ込み、それを燃え上がらせながら教会中を一瞬にして駆けめぐった。
火の手が、教会のあちこちから上がり始める。
「わあっ!?」
地下手術室にあるコンピュータが一斉に火を噴き、照明も弾けて消えた。コンピュータのすぐ側にいた男が、まともにモニターの破片と火の舌を顔面に受けて床に倒れた。
床でのたうちまわる男を二名の医師に外へ運び出させ、眼鏡のを男は残りの医師たちに消火作業にあたらせた。とはいえ、非常灯の薄暗い光の下である。作業がはかどる筈がない、しかも、他の医師たちもパニックに陥りつつあった。
そして、二つの恐慌の波はやがて激しくぶつかり合い、より大きなものへと拡大していく。
「おしまいだ!」
そんな叫びが、渦を巻く人の波の中から聞こえてくる。
「――警備隊! 何をしている、早く混乱を静めろ! 場合によっては傷つけても構わん!」
司祭が叫んだ。
人々が、石の扉を開けようと群がっている。が、ビクともしない。
閉鎖されたのだ。そう悟った人々は、今来た方向に踵を返し、司祭に向かって殺到した。
死にたくない! 司祭を殺してでも扉を開けさせてやる!
その波動が凄まじい濁流と化して地下大広間に渦巻いた。しかし、ある耳障りな音が人々の耳に届いたとき、彼等はピタリと足を止めた。
しん、と静まる。
炎が妖しく揺れる祭壇の脇に口を開けた、さらに地下へ続く階段から、がしゃがしゃと嫌な音を響かせて、その黒い影が現れた。
その影は、全身を青銅色のぶ厚い板金鎧で覆われ、悪鬼の如き兜をかぶった巨大な騎士であった。
魔装鎧『巨人』型――。
その名の示すとおり、まさに巨人であった。
身の丈は、四メートル近くはあろうかと思われた。
それが四体、階段からのっそりと現れて、司祭を守るように立ちはだかったのである。
腰には各々、巨大な剣を佩いていた。
「静まれい! 死にたくなければ――」
『巨人』型の口から、怒号が上がる。
そのとき、司祭の背後で爆発が起こった。
「何ぃ!?」
愕然と振り向く司祭の正面で、分厚い耐圧ガラスが粉々に弾け飛んだ。そして、彼の顔に向けて、真っ赤に燃える炎の舌が伸びたのである。
だが、炎が司祭の顔を焼くことはなかった。『巨人』型が見かけによらぬ素速さで動き、司祭の周囲に壁を造ったのである。
「な、何があった…」
司祭が茫然と呟く。
「手術室の中に、何かいます」
『巨人』型の一人が司祭に告げる。
警備隊の隊長のようだ。
司祭が「何!?」と巨人たちの造る壁の隙間から顔を覗かせて炎を見たとき、確かにその中にひとつの影を見出した。
何者だ? あの中で、いったい何が起こっているんだ?
「――出てきます。司祭様はお部屋にお戻り下さい。ここは我々が収拾します。――大竹、護衛につけ」
「は」
『巨人』型のうちの一体が、司祭の脇に立ち、残りの三体は腰の剣の柄に手をかけた。
「わ、わかった」
今や手術室は炎の渦中にあった。あらゆるものが焼けこげ、形を失っていく。
その中にあって、その影だけは違っていた。
そいつは、激しい炎に包まれながらも平然と立ち、そして今、ゆっくりと炎の中から力強い一歩を踏み出したのである。