第七話 上田原の戦い 中編
何人を討ち取ったのか。途中より、源四郎は数えるのを止めた。右手に握る太刀の刃は白く赤く染まっている。脂の膜と血がこびり付いていた。
一歩ほど間合いの中へと踏みこんできた不注意者の首筋へ向け腕を鋭く伸ばし、すぐさまに引く。皮膚とわずかにだが肉を絶つ鋼の感触が伝わってくる。
相対していた敵は青ざめた形相でうずくまり、首筋より噴き出す血を手で押さえこもうとしている。だが、ひとたび裂けた傷口が塞がるはずもない。
わずかの後に苦悶の表情を浮かべ目を大きく見開いたまま、骸となり果てていく。ぐらりと身体を揺らすとともに地面へ前のめりに倒れこんでいった。
素早く三歩下がる。深く息を吸いこみ、吐く。乱れている息を整える。
太刀をぶるりと振り下ろし、いくらかの血と脂を地に浴びせる。刃は既にいくらか欠けていた。
なるほどこれは……。以前兄者に教えられた通りであった。
太刀よりは槍の方が鎧武者相手の戦場ではものの役に立つということか。今の相手にしても数合ほど太刀をまじえた後は、斬ることなどまるで考えなくなっていた。ただ突きのみを狙い、そして倒せた。
ただ、場所によることも分かった。林の中では槍より太刀の方が扱いやすい。
顔をわずかに上げる。今しがた討ったばかりの者の首を掻き切るべく右足を踏み出す。次の一歩を、左足を前へ出すとほぼ同時に肩を強く叩かれていた。
「昌景様! 何をなさろうとしておられるのです」
「あ、ああ。首を獲らねばなるまい」
「なんと! あれは、虎昌様のお言葉はまことだったのですね」
久坂小十郎という飯富家に仕える郎党が、耳元で意味の分からぬことをわめいていた。
「小十郎。そなたは何を言っているのだ?」
「十日ばかり前におっしゃられていたのです。源四郎はこの兄より余程に豪気な男よ、と。とはいえ具体的には語っていただけませなんだ。ゆえに、その。眉唾話かと踏んでおりました」
……あれか。真田幸隆殿へ兄者が家宝の太刀を譲られた一件。
兄者に「あれは兄者の勘違い」と口にすれば太刀に未練が湧いてしまうかもと心配し、そのまま誤解されたままにしていた。だがまさか、このように飛び火していようとは。
「声を張り上げずとも聞こえている」
「これは失礼を。ですが、豪胆なのも時によりけりでございます。全体の状況を考えてみてくだされい。負け戦とまでは申しませんが、押されております。余程名のある大将首でなければ首など捨てておかれませ。重き首などこれより何をするにしても邪魔となるだけ。死ねば意味など無くなるが道理」
「なるほど、そういうものか」
「いえ……。ああ、つまりは! なるほど、その心配をなされておられましたか!」
またもやなんのことやらさっぱり理解出来ない。
「なんとお優しきご配慮! ですが、そのご懸念は無用でございます。我ら郎党にしても足軽にしても倒した敵の数や特徴などは、それぞれの頭がしっかりと記しておりますれば。名乗りをあげた相手であればもちろん名も。ゆえに、後々の恩賞の差配において虎昌様や昌景様の前で揉める様な失態はいたしませぬ」
「今、倒した相手はあめのみやまさとしと名乗っていた」
「聞かぬ名ですな。天気の雨に神社の宮でしょうか。率いていた手勢の数や戦いぶりより察すれば足軽の組頭といったあたり。されど具足はなかなかに立派でございまするな」
「勝ち戦であれば、また違ってはまいるのですが」
郎党河野彦助が源四郎の側近くへ寄って来る。
「なにしろ若様が初めて討ち取られた相手ですからな。手柄首を持ち帰りたいというそのお気持ち、この彦助にもよう分かります。が、今は! 今は何としてもこらえてくだされ! 耐えがたきを耐えてくだされ! お頼み申しあげまする!」
片膝をついて身体を屈めている彦助の肩がわずかに震えていた。
そこまで、というべきか。そもそも源四郎には涙声で身体を震わせるほどの、敵の首への執着心は全くない。ただ、討ったからには首を獲らねばなるまい、と漠然に感じていただけである。
それよりも彦助の言いように引っかかっている点が他にあった。こちらの方が余程に気になっている。
「彦助よ、何を言っている。おのれは少なくとも五人は倒」
続きを声とすることを拒否されていた。源四郎の周囲にいる誰もが、ふるりふるりと小刻みに首を左右へ振っている。小十郎も彦助も、他の郎党たちも。
「最初はそんなものです。周りが見えず、自身さえも見えず。人は急所を外せばそう簡単には倒れませぬ。ましてや死なぬ為にこそ鎧具足で身をおおっておりますれば。若様は三人に手傷を負わせ、一人を討ち取られました」
源四郎は自らを失笑するより他はない。少なめにみて五人と言ったというのに。
「随分と頼りない将で済まぬな」
「何をおっしゃられる! 感嘆しておりますぞ。さすがは勇名も高き飯富虎昌様の弟殿である、と」
「お前は?」
見た覚えのない顔であった。
「っと、これは粗忽なことを。拙者、多田満頼様に陣借りしております浪人香川元秋。つまりは、はぐれです」
「はぐれ、か。堂々とよくもまあ」
属していた隊を見失ってしまった、という本来ならば恥ずべき事情。それを自らの口で、問われるより先に包み隠すことなく言い切っている。にも関わらず、いっそすがすがしく、おまけにどこかしらこっけいでもあった。
源四郎も周りの郎党たちも言い出した本人すらも、くすりと自然に笑みをこぼしていた。
「若様。香川殿の申されようはもっともでございますぞ。傷を負わせた敵は配下の者の手柄として譲られるという気宇の大きさ。なかなかに出来ることではありませぬ。我ら飯富家に仕える者は幸せ者でございます。加えて、手勢を率いて迂回しての横入りの手並み。初めての……あ、いや。二度目の戦とは思えません。小十郎の言い様ではありませんが、様々な面で豪胆過ぎまする」
いや、譲ったわけではないのだ。と心情を明かすべきか、ほんのつかの間悩む。心の臓が二回ほど鳴り終えるほどの時間の後、答えを出していた。
誉められているのだ、わざわざ否定するのも野暮というものであろう。きっとそうに違いない。
それはともかくとして。
彦助にしても他の郎党たちにしても、昨年の信濃は佐久でのあれはやはり初陣と思っていなかったのではないか、という疑問が源四郎の脳裏へふとよぎる。
いや、あの行軍があったればこそいくらかは落ち着けている、と言えないこともない。
もっとも今はそのようなことなど全てが瑣末であった。とらわれている時ではない。
頭を働かせ素早く状況を整理する。
小十郎はつい先ほど武田は押されつつあると述べていたが、ありていに言えば違う。
負けつつあるを通り越して、ほぼ負けている。ただ、完全に負けているわけではない。
何しろ、武田家の誇る二人の宿老が二人とも討ち死にしているのであった。板垣信方様と甘利虎泰様は既にこの世にいない。
その他にも重臣級で初鹿根伝右衛門殿や才間信綱殿も既に死している。その他にも名のある将を何人失ったものやら。恐らくは両手の指では数が足りないのではないだろうか。
依田川を越えて村上家の軍勢へ攻撃をしかけたはずの武田勢は押されに押されていた。今では逆に依田川を村上の将兵が続々と渡ってきている。
「さてさて、昌景様」
「なんだ、小十郎」
「昌景様の見事なる采配により、この辺りの敵は消えております。今のうちに、我らも動かねばなりませぬ」
「そうだな。まずは兄者率いる飯富の本隊と合流しよう。この百にも満たぬ人数では正面より数で押しこまれてはどうにもならぬ」
「それがようございます」
「ところで、我らは今何人いる?」
意外なことに、彦助よりすぐに応えが返ってきた。さすがは父盛昌の代より戦場を駆けていた郎党。物慣れた古兵である。
「郎党二十四、槍足軽三十六、弓足軽二十三。若様を加えれば八十四でございます」
「そうか、四人ほど命を落としたか」
「わずかに四人、です。昌景様、戦であります。この場に限れば、五十八人を討ち取っております。大勝利でありますぞ」
「そうか……」
小十郎の言いたいことが、あえて口に出していない言葉が、充分に伝わってきていた。
いなくなった者たちの名を聞いたとしても顔が思い浮かぶ程度のおのれなどよりも、小十郎や彦助たちの方が死んだ者たちとは余程親しく接していたに違いない。
それが分かるだけに、小勢といえども将である自分が気落ちなど、許されざる贅沢なのであろう。
そもそも、この雑木林における横入りにしても結果として上手くいっただけである。
わずかにでも進出するのが遅れていれば、文字通りの遭遇戦となっていたに違いない。
源四郎の率いている隊は、数こそ百に満たない小勢。だが、郎党の占める人数が常の編成の三倍以上も含まれている。元をたどれば徴用された百姓足軽とは異なり、郎党は全員が武士である。武器の扱いも、武具も防具も足軽とはものが違う。
ゆえに、この地においても最終的には勝ったであろうことは疑いないものの。
不意打ちの形となっていなければ、配下の手勢の死者の数は四人どころで済んだはずもない。
顔を上げる。
やや前方左側には雑木林の切れ目が見える。そこから歩数にしておよそ三百歩ほどの距離(約180メートル)に月に星の大旗が、飯富家の旗印がひるがえっているはずだ。
そこでは今なお戦闘が続いている。見えずとも、時折風に乗って林の中にまで届いてくる音がそれを肯定している。急がねばならない。
「ところで香川殿」
「それがしは弓を得手としております」
なるほど言われてみれば背負っている弓はなかなかに凝った装飾がほどこしてある。反面、甲冑や兜はところどころがほつれていた。
「分かった。それでは皆に策を伝える。まずは林の端境まで弓手を押し出し、矢をはなつ。とはいえ、飯富家の軍勢に一矢たりとも当てるわけにはいかぬ。よって、敵勢をめがけては水平撃ちのみでいく。遠山康治」
「ハッ」
弓足軽を率いている郎党の声が素早くあがる。
「弧を描く見越し撃ちは厳として禁じる。移動する間にそこを徹底させておくこと」
「昌景様、お任せあれ」
「香川殿」
「委細承知。遠山殿の指示に従います」
こちらが問いたいことを先回りしてくる。この短い間で既に三度目。打てば響くかのようで心地よくすら感じられる。
反面、何故こういう才気走った男がはぐれとなってしまったのか、源四郎には理解が追いつかない。
いや、予想だにしないことが起きてしまうのが負けかけているということなのであろうか。軍中の方々で混乱が生じているとしても不思議はない。
「残りの者は」
「喉も枯れよと威嚇の声を張り上げますか?」
「小十郎の言も悪くはないのだが、今回はむしろ逆としよう。余の者の全ては林の中ほどに、凹の形で潜んでおく。正面は二段に構えた槍足軽。これはおのれが率いる。左の郎党は久坂小十郎、右は河野彦助が指揮を執れ」
「若様。槍足軽はそれがしが」
「いや、ならぬ。勝ち戦ならば彦助に任せたであろう。だが、戦は武田に不利ではなかろうかと足軽たちも感じているに違いない。なればこそ、将たるおのれが正面にいなければならぬ。この隊で一番上位の将がともに泥にまみれているありさまを足軽にこそ見せねばならぬ」
皆がじっと聞き入っている。双方ともに数を減じているとはいえ、武田八千と村上六千が戦をしている中においては、百以下など小勢には違いない。
だが源四郎は、その小勢の、自らと浪人一人を含めれば八十五人の命の進退を預かっていた。
「斜め後方より弓矢の攻撃を受けたならば、兄者の本隊と戦っている村上勢の一部は反転して我らに向かってこよう。だが弓勢が三十にも満たないと知れば、どうだ? 多くても五十は割くまい」
「なるほど。声があがらず姿も見えぬであれば、弓手しかおらぬと敵は踏む。となれば……四十もこちらへ来れば多い方でしょうな」
「小十郎の言う通り。康治よ、気張る必要は全くない。とは言え、あまりに早く退いてもならぬ。敵に騎馬が含んであるなら八十間(約40メートル)で林の、槍足軽が潜んでいるよりも後方を目指して駆けよ。騎馬がいなくとも六十間で必ず退くのだ」
「承知いたしました」
「敵が林の中へと入って来た後は、まずは正面に伏せている槍足軽の出番。陽をさえぎるもののない明るい野から、やや薄暗き林の中へ入ったばかり。目の慣れぬうちに叩き、突く。そうすれば足が止まろう。その後に太刀でもって左右より襲いかかれ。その機については小十郎と彦助に任せる。逃げる敵を林の外にまで追う必要はない。踏み止まろうとする将兵を殺せ。策としては以上だが、何か具申があれば言ってくれ」
「若様、一兵たりとも逃がしなど。後ろをこの彦助が立派に塞いでみせましょうぞ」
「昌景様」
「なんだ、小十郎」
「ようもまあ落ち着いていられまするなあ。この負……押されつつある状況で多数に合流することよりも小数のままで敵を削ることを優先されるとは。虎昌様も肝の図太きお方ではございますが、昌景様も優るとも劣らないのではありますまいか」
胸中で苦笑が湧き上がる。
そもそも落ち着くも落ち着かないもない。源四郎にとっては実際の戦そのものが初めてなのである。ゆえに比べるべき過去の経験を有していない。よって焦る理由はともかく、根拠が、実感がない。
戦とはこういうものなのであろう、と。ただ割り切るより他に手立てが思いつかないだけである。
「おかしなことを言うものよ。戦において将として求められる当たり前のことを、当たり前として行っているのみ」
「ううむ、小十郎殿の言われるとおり冷静にして沈着、そして豪気。さしずめ我らは号して豪胆昌景隊、ですかな」
康治がわけの分からないことをつぶやいている。おお、それは良き名じゃなどと他の者たちがざわつき始めている。
元は自分のまいた種とは言え、この件について色々と面倒くさくなり始めている。聞かなかったことに決めた。
「これは……」
「なんだ、香川殿」
「陣借りする家をそれがしは間違えたやもしれませぬな」
「よもや多田殿をくさしておるのか?」
「いえいえ、まさか。こちらの方が面白しという意味です」
「ふむ、誉められたと受け取っておこう。他の者も具申はないとみた。急ぎ、だが粛々と口を閉ざして移動を始めるとしよう」
兄者よ、これで良いのでしょうか?
源四郎はこの場においては誰にも弱音を明かせない。ちらりとでも見せるわけにもいかない。
策が誤っていれば、死ぬのであろう。
その覚悟だけは否が応にも定まる。
上田原の地において武田は、未だ完全には村上に負けていない。板垣隊、甘利隊の各二千と本隊四千の連携を著しく欠いていたことが不幸中の幸いとなっている。