第七話 上田原の戦い 前編
真田家との家紋争いに敗れた飯富家……というべきか兄者がものの見事に幸隆殿の口舌に丸めこまれてしまってより二十日あまり後、天文十七年(1548年)三月の初め。
源四郎は武田軍およそ八千のうちの一人として信濃へ出陣していた。
北信濃一帯を支配している村上義清より小県郡全域を奪い、可能ならば村上家の本拠地である葛尾城の攻略までをも視野に入れての行軍である。
もっとも、城攻めとなれば月日がかかる。田植えの時期までには甲斐の国へ戻られなければならない。よって小県郡の各城の奪取も葛尾城うんぬんにしても、あくまでも事の全てが余程に上手く運んだ場合の、いわば努力目標のようなもの。
お舘様の本当の狙いは村上義清に一戦を強いる為の侵攻であった。
なお、村上勢が葛尾城に篭ったままでもそれはそれで良しとされていた。
何故ならば村上家の本領は埴科郡や水内郡といった小県郡以北であり、しかも小県全域を領地に加えてまだ五年しか過ぎていない。
このような情勢でもしも小県の土豪たちを見捨てるようであれば、小県における村上の名声は地に堕ちるしかない。
目論見どおりに村上勢が葛尾城より小県へ出て来るというのであれば、迎え撃つ。
ところが村上義清の選択は武田方の立てた予想を大きく反していた。
小県郡へ武田勢が侵入するとほぼ時を同じくして、村上家の本拠地葛尾城に続々と兵が集まりつつあるという知らせがまず届く。その翌日には早くも千曲川を越えている、とも。
動きが早いことを除けば、いわば目論見通り。だがしかし。
東に位置する小県方面ではなく、佐久を目指して南へ行軍中という驚くべき情報を物見が伝えてきた。
緊急の軍議が開かれる。
その末席において源四郎は、お舘様の、武田晴信様の声を耳にする。「村上も野戦を求めるならば望むところよ」と。
実際問題として、村上勢の南下を放置したままで小県郡の各城の攻略にかまかけている場合ではない。
何故ならば、村上勢の南下を見過ごせば信濃佐久郡への侵入を許すことになる。小県を守れなければ村上ふがいなしの声があがるのと同様に、佐久を守れなければ武田は頼みにならずとなる。
こうして武田、村上両家の思惑は期せずして一致を見たのであった。
戦いの幕が開く。
小県より一度佐久へと戻った後に北上した武田側から見れば、千曲川の支流依田川を超えた先、上田原の地に村上勢およそ六千は布陣して待ち構えていた。
これに対し、武田軍は大きく分けて三隊でもって攻撃を開始する。左翼に板垣勢二千、右翼に甘利勢二千、中央に本隊四千。
昨年佐久の地でも関東管領上杉家相手に大勝をおさめた縁起の良い形であった。
まずは左右の板垣、甘利の両隊が川を超えて進む。なにしろ依田川の水はどうやら枯れているようで足首が浸る程度の水量しかない。攻める上では何の障害にもなっていなかった。村上義清もそれを承知しているようで、川岸には兵を配置していない。
飯富隊の副将を務める源四郎のもとへも先行している軍勢からの勝報が続々と伝わってきている。
いわく、板垣、甘利の両隊は渡河の後、敵の先鋒と戦闘を開始。
いわく、先鋒を撃破。
いわく、村上義清の本隊と戦闘を開始。
いわく、後退しつつある村上の本隊を追撃中。
それらの報せをただ聞いているだけの源四郎の焦燥は増していくばかりとなっていく。
何なのだこれは。また、なのか。そもそも、わざと退いて本隊とともに三方より押し包むはずなのではなかったのか。
去年の佐久での戦に引き続き、今回も歩いていただけで終わってしまうのか。
本隊四千の先鋒を担う飯富勢の中で、渡河の命が本陣よりもたらされるのを今か今かと待ちわびていた。もはや、じれつつすらある。
「兄者よ」
「それ以上は禁句ぞ、源四郎。お舘様の采配はもとより、板垣様甘利様に対しても不遜というもの。一度大きく叩いて後に退こうとされているのかもしれぬ」
「しかしながら。絶対に無いとまでは申しませんが。これでは」
と、その時であった。
おのれの身体が突然にぶるりと揺れ動く。いや、馬ごと、地がわずかに震えていた。轟音のする方へと眼を向けてみれば、信じがたい光景が飛び込んでくる。
つい先ほどまでは川とは名ばかりであった依田川が濁流と化していたのであった。ごおごおと荒々しく音を立てながら、泥の色をした水が木ぎれとともに勢いよく流れていく。
「村上め、上流で堰き止めておったのか」という兄者のつぶやきが聞こえてきた。ぎしりと歯と歯がこすれるきしみも耳へと伝わる。まるで苦虫を噛み潰したかのように顔をしかめている。
幸いなことに未だ土手の上に位置していた飯富勢はもとより後方の武田の本隊には、濁流による被害を一兵たりとて被ってはいない。
だがそれはたまたまの偶然による僥倖であった。飯富勢が川原に下りずにいたのは、土手の方が対岸の様子をまだしもうかがいやすいから、という理由でしかなかった。
「兄者! 板垣様と甘利様の隊が」
「分かっておる。我が方の策はもはや成らず。なれば、ただ今すぐにでも川を渡らねばなるまい。されどもこの濁流がおさまるまでは無理というもの」
「ですが」
「落ち着くのだ、源四郎。なあに、依田川の向こうにいる村上勢は約六千。対して板垣様、甘利様の両隊は合わせて四千。この程度の数の差であれば、我らが駆けつけるまで遅れをとられるお二方ではない」
それもそうかとやや安堵しかける。と、不意に、三月のまだ肌寒い風が肌をぞわりと撫でて去っていく。ぶるりと震える。
直後に悪寒が走る。風の冷たさが原因ではなかった。
「兄者、もしも村上勢の敗勢が全て擬態であったならば」
「なんだと!?」
「板垣様と甘利様が戦巧者でありましょうとも、相手は村上義清です」
ハッと兄者が目を見開いている。恐らくは、おのれと同じく真田幸隆殿の言を思い出しているに違いない。それは出陣前に真田家で開かれた宴席において耳にした話であった。
村上義清は強うございます。領内の統治も家臣の掌握も二流三流なのですが、戦の采配だけは頭抜けております。それのみで北信濃に覇をとなえたと言っても過言ではありません。
どれほどかと言うと、領地の接している越後の長尾為景を、関東管領上杉家の影響力を越後の地よりわずか四年あまりで一掃したあの猛将を向こうに回して、半分以下の手勢で一歩も引けをとらなかったのが村上義清という者なのです。
出来得るならば、村上と戦う前に中信濃の小笠原家を倒す方が余程に容易ではありますまいか。
我が真田、小県の故地へ一日でも早う返り咲きたいはやまやまなれど、村上は諏訪や関東管領上杉とはものが違います。油断してかかれば武田家といえども危うくございます。
このことを真田の寄騎親である板垣信方様には昨年の末にお伝えはしたのですが、考えておくと言われたきりで音沙汰はなく。こたびの出陣と相成りました。それがしの杞憂に終われば良いのですが……、と。
「俺も端とはいえ、武田の重臣の列に連なる者。村上が諏訪や上杉よりも強いであろうことは重々承知しているつもりではいたのだが。まだ甘くみていたのであろうか」
「兄者よ」
「昨年の戦だ。我ら武田は、上杉をひっかけて誘いこもうとしていた。ところがわざと退いてくるはずの板垣様、甘利様の両隊が後退せずにむしろ前進して戦果を拡大された。結果としては、類まれなる大勝利となりはしたものの……。戦の経緯は、村上方にも当然知られていると考えてしかるべきであった」
「いくらなんでも村上勢が崩れるのが早過ぎであった、ということでしょうか」
「ようみた。まさにそれよ。昨年と同様に敵の先鋒が崩れたとなれば……板垣様も甘利様も踏み止まられるはずもなし。追いに追われていたことであろう」
「とはいえ、お二方の耳にも当然依田川の異変は当然届いておりましょう。守りに徹すれば」
「最後の伝令をおぬしも聞いておったであろう。後退しつつある村上の本隊を追撃中、と」
悪しき想像が頭に浮かんでいた。ごくりと唾を飲みこむ。鼓動が早くなっていく。
「まさか、村上義清。我らの、当初の策を見切った上で鏡返しに用いているのでは!? 誘いこんでの、軍勢を薄く伸ばさせてからの挟撃」
さっと、兄者の顔より血の気が引いていった。
「源四郎と意見が一致してしもうたか。川を堰き止めて、他に策無しと考えるのはやはり都合が良すぎるということか。こうしてはおれん、源四郎!」
「ハッ」
「俺はご本陣へ、自ら駆ける。使い番に言伝しておっては時を失うばかり」
「承知。なれば、飯富勢は命令あり次第強行渡河の用意をして待機しておきます!」
「この兄の言いたいことがよう分かったのう! 頼もしきことよ」
馬の鐙を蹴り上げて早くも遠ざかっていく兄源太郎虎昌の背中を源四郎は見送る。視界より途絶えて後に、馬の手綱を動かす。
まずは飯富隊の寄騎である三枝虎吉殿と相木昌朝殿の陣へと駆けていく。次いで、飯富勢のうちでまとまった人数を率いている頭を呼び集め兄虎昌の指示を伝える。
一通りを済ませた後、再び土手に上がり依田川へと視線を再び向ける。
しばらくしてわずかに水量が衰え始めた頃、事態が更に変わりをみせ始めていく。
川向こうの土手に初めは一本ほど。やがて二つ、三つと増え、わずかの後には両手の指では数え切れぬほどの旗が掲げられていった。
それらは板垣家の地黒花菱紋ではなく、甘利家の花菱紋でもない。
……丸に上の字紋であった。見間違えようもなく、村上家の旗印であった。
何やらこちらに向けてを声を張り上げていた。だが、どうっという雄叫びが重なっており、意味を成す言葉としては伝わってこない。
やがて歓声がやや衰える。とともに村上の兵どもが何をわめいているのか、知れた。
「甲斐の山猿ども! よおっく聞けい! 板垣信方、甘利虎泰は討ち取った!」
ま、まさか。ありえぬ!
……けれども、それでは何故あの位置に村上の軍勢がいるのだ。
そこから推察せざるを得ない事実を前にして、身体がぐらりと馬上で揺れる。対岸よりの叫び声を耳にしたのであろう味方に動揺が走っていく。
「者ども、うろたえるでない! あれはざれ言よ! 村上の下劣なる策略よ!」
おのれ自身でまるで信じてもいない言葉を源四郎は吼えていた。