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第六話 真田六文銭旗

 き、気まずい。おまけに空気が重い。

 源四郎は無言のままで座している。兄者にしても同様だ。

 真田幸隆殿も、ご舎弟の頼綱殿も、隆永殿も。皆が皆、口を閉ざして押し黙ったきりであった。

 聞こえてくるのは、自らの心の臓がどくんどくんと跳ねている鼓動。時折、そこに誰かが生唾をごくりと飲み下す音も加わる。


 っと、大事なものを忘れていた。屋敷の庭の鹿威し(ししおどし)。かこんかこんと、と実に良い響き。心が癒される。

 駄目だ。現実から目をそらしてはならない。こういう時は頭の中で馬を数えると良いと聞く。甲斐駒が一頭、甲斐駒が二頭、甲斐駒が三頭……。


 こんなことならば!

 自らが行けばよかった、と後悔を覚える。別におのれが取りに戻ったとしても、事態がどうにかなるわけではない。ではないものの、少なくとも両家の屋敷を往復している間はこのひたすらに重苦しいだけの場にいなくても済む。

 しかしながら、その選択では兄者をただ一人で残しておくことになる。それはそれで心配この上ない。何が起きるか知れたものではない。

 殺気ではないが、殺気のいとこ程度の剣呑な気配が座敷には充満していた。



 とっとっとっと、という廊下を速足で歩く響きが新たに耳へと伝わってくる。

 ようやくか! 早く来てくれ! という思い。来るな! 来てはならぬ! という思い。

 自らの胸中は相反する矛盾であふれていた。


「ただいま飯富家屋敷より木箱が到着いたしました」


 飯富家の二人、真田家の三人。誰も応じる声をかけない。

 しん、としている。

 皆が皆、大人気ない。声を出したら負け、とでも思っているのであろうか。


 不意に。かこん、と鹿威しが跳ねて鳴った。障子戸越しに映る影がびくりと小さく跳ねている。気の毒になってきた。明らかに戸惑っている気配が座敷の中にまで伝わってくる。


「それがしが受け取ってまいりましょう」

 もうどうにでもなれ。そんな気持ちで口を開くと立ち上がる。真田家屋敷の入り口まで荷を受け取るべく歩を進めていった。




「これは……」

「兄上、いったいどうしたものでしょう」

「幸隆殿にはご納得いただけたかな。この虎昌がその印は絶対にならぬ、と言ったその意味を」

「なるほど、先ほどは少々言葉が過ぎたようです。これならば当然のことでありましょう。謝らせていただきたい」

「いや、承知していただけたのであれば、それだけでよろしい。お互い、その件は水に流すとしましょう」

「では、そういうことで」


 ほっと、源四郎は胸を撫で下ろす。まずは一段落。

 だが、これっぽっちも微塵も問題そのものは解決していない。


 目線を上げる。

 座敷の奥側のふすま戸に貼り付けてあるのは三列に二つずつの丸星が並んだ旗。壁にかかるは二列に三つずつ配置された丸星の旗。

 前者は、幸隆殿が言うには新しく真田家の家紋として用いるつもりの真田六文銭旗さなだのろくもんせんき。後者は、兄者とともに作り上げた飯富六星旗(おぶのむつぼしき)


 細かく見れば、それぞれの意匠は異なる。

 真田家の丸星は中に四角をうがっている。飯富家の丸星は文字通り丸である。

 ……逆に言えば、その程度の差でしか見つからない。実に些細な違いとしか言いようがない。

 

 まずいどころの話ではない。意匠がかぶりにかぶっている。両家ともに用いればとか、星の数を増減してみては、などという妥協案はありえない。

 そして、そのことをこの座敷にいる五人全てが理解している。それだけに、譲る、というわけにもいかない。


 武田家家中における序列を考えれば、頭ごなしに真田家の新旗を葬り去ることは可能に違いない。

 だがしかし、そのようなことを良しとされる兄者ではない。これまでの両家の友誼を考えずとも、兄者の矜持がそれを許さないであろう。



「困りましたな」

 幸隆殿の末の弟である隆永殿がそうぽつりとつぶやいた。


 そんなことは分かっている。いちいち口に出すな。

 と、出かかっていた声をごくりと飲みこむ。言っても空気が悪くなるばかり。

 どうすれば最も良いのかなど、見当もつかない。ただ、このまま座っているだけで問題が解決するはずもなし。

 どころか、隆永殿の不用意な一言で再び場の気配が重苦しくなってきつつあった。

 ええい、ままよ!

 昇仙峡(甲斐の国では誰もが知る渓谷)から飛び降りるほどの気概を振るい、声を発する。


「黙っているだけでは何も解決しますまい。まずは、それぞれの旗の由来から聞き比べてみる、というのはいかがでしょう」

「源四郎、それを耳にしたとて何になる?」

「兄者、それはこの源四郎とて承知しております。されども、このままではらちがあきますまい」

「それもそうですな、昌景殿の言にも一理ありましょう。源之助よ」


 それにしても不思議な縁、と思わざるを得ない。幸隆殿の弟頼綱殿の通名は飯富兄弟の既に亡くなっている叔父の通名でもあった。


「兄上よ……」

 いったいどうしたというのであろう。幸隆殿より名指しされた頼綱殿は困惑顔である。

「かまわぬ。ここで変に糊塗しても致しかたあるまい。正直に申せばよい」


「それでは。今より半年ばかり前のことです。この地、甲斐は古府中において我らは芝居小屋に行き、地獄の糸、という演目を目にしたのです。そこに出てきた三途の川の渡し賃六文銭から発想を得た次第」


 ふっ、これは!

 もはや笑止というより他に言葉がない。思わず笑みがこぼれそうになる。横目でちらりと確認したところ、兄者の口元もわずかにだがゆるんでいた。

 どう考えても、飯富家の理の方が優っている。


「なるほど、それはそれは。源四郎よ、当家の方の由来を語ってさしあげろ」

 兄者の声には変な抑揚が付いていた。恐らくは笑いをぐっと我慢しているのだろう。

 おう、と思わず吼えそうになる。だがしかし、ここは殊勝な表情こそが肝心。おごってはならない。ぐっと腹に力を入れてこらえた。


「まずは、兄虎昌の差料(さしりょう)をごらんくだされ」

 真田三兄弟の視線が兄者の腰の太刀へそそがれているのを確認して後、言を続ける。

「皆様方には既にご承知のことを改めて申すのも、いささかこそばゆく感じるのですが。あの太刀には六星宗政(むつほしむねまさ)という銘が付いております。我が飯富家ではこの名刀を家宝として扱う所存にて、その証として六星旗の着想へといたった次第」


 うんうんと力強く兄者がうなずいている。一方で幸隆殿を始め二人の弟殿の、真田家の面々の顔色はいささか青い。

 芝居の演目と家宝の太刀。

 どちらが武家として相応しいかなど明白である。そこら辺の青洟(あおばな)を垂らしている童にでも分かる道理。

 勝利を確信した。というより、負けようがない。


「むう。だが……」

「なんですかな?」


 なんという自信に溢れた頼もしき声色。兄者、いいぞ。ここは一気に押しきるべき。

 押せ押せな兄者はあえて言葉を短くしているようである。

 無言で圧をかけている。容赦なく攻め立てていた。

 例えるならば、真田家の城は我が飯富家の攻撃によって大手門は落ち、堀も埋められ、二の丸も陥落。もはや本丸のみが残されているようなもの。


「されども……」

「ご納得いただけないと? これは困りましたな」

 兄者の声が耳に心地よく響く。まるで名人の奏でる琴の音色のようである。

 あとは以下にして散り際を飾らせるか、といった段階であろう。


「あ、いや。そもそも、何故飯富家においては紋を変えようとなさったのでありましょう?」


 それは幸隆殿の苦し紛れの、ただ時を稼ぐだけの一言だったかもしれない。だが、兄者にしても源四郎にしてもそこを突かれるととても苦しい。

 何せ、理由が理由である。


 戦場(いくさば)で目立ちたいから。……これは非常にまずい。

 下総(しもうさ)の千葉家と戦場で間違われ、しかもそのことが原因で勝ちをおさめたことがあるから。これも論外。我が飯富勢がこうむった恥辱を語ることになる。墓場まで持っていくほどの屈辱を他家の者に知らせるなど、許されることではない。当然、駄目。


 ちらりちらりと横から視線を感じる。

「それについても弟昌景の口より語らせましょう。どうもそれがしは口下手なもので」


 は? という喉まで出かかる声を飲みこむ。

 丸投げされていた!

 どうやら兄者は考えることを放棄したようである。

 待ってくだされい、兄者! その心の叫びは胸中で虚しくこだましていく。


 ……いや、そうではない。兄者はそのような卑しい心根(こころね)のお方ではない。

 そうか、なるほど。当主ゆえか。うかつな一言はこの場においては容易に致命傷となろう。そう言えば幸隆殿にしても自らの口では語っておられぬ。

 考えろ、源四郎。ここを切り抜けさえすれば、先は明るい。何かないか。もっともらしく聞こえる理由は……。

 あ、あった!


「ときに、頼綱殿は当家の家紋をご存知でしょうか?」

「それはもちろんのこと。月に星ですな」

「さよう、幸隆殿も隆永殿も当然ご承知のことでしょう。いや、この特徴的な紋を知らない武家の者がこの日ノ本の国にいましょうか? 隆永殿はいかが思われますか?」

「おらぬでしょう」

「何故?」

「それはそうでしょう。かの有名な源家物語の名場面に登場しているではないですか。月に星は」

「我らはなるほど坂東平氏。なれど、なれども! 義によりて源氏の頭領頼朝殿へこそ馳走いたそうと集う者なり! これひとえに天下の安寧の為なり! ですな」

「そう、それですよ。昌景殿」


 我が策の第一段階は上手く運んでいる。

 うむ、ご舎弟のうちで隆永殿に的を絞ったのは正解のようだ。


「つまり、月に星紋は平氏の紋でございましょう。ひるがえって、我が飯富家は甲斐源氏源清光公の流れをくむまごうことなき源氏でございます」

「それは分かりますが、今更何故に?」

「そこです。我が家は武田家に仕える家です。これまでの武田家は甲斐の国より外へ出張るとしても、せいぜいが隣接している隣国の郡くらいでございました。信濃の諏訪しかり佐久しかり。ですが、ご当代晴信様はまことに英明なお方。今後、信濃の他地域はもとより越後に上野(こうずけ)、飛騨や美濃にまで領地が拡がるやもしれません。真田のお家が古府中に一族郎党引き連れて居を構えておられる理由もその辺にあるのではありませんか?」

「まさに、まさに! いやあ昌景殿はお若いというのに良く見えておられますな!」


 ぽんと膝を打ち鳴らしている隆永殿の有様を目にして、にやりと笑いたくなる。が、ここはこらえなければならない。

 ぐいぐいと、まるで笛吹川へ釣り餌もつけずに糸を垂らしただけで魚が喰らいついてきているかのようである。望んでいる以上に自らで転んでくれていた。急いで、だが慎重に最後の詰めへ取りかかる。


「その時のことを案じているわけです。主である武田家の家紋四つ菱よりも著名であるかもしれない家紋を付けている家臣の家というのは……果たしていかがなものか、と」

「なんと、素晴らしいお考え! この隆永、飯富家の熱い忠節に感服いたしました!」


 我が策、成れり!

 見事に釣り上げた。既にして魚は水辺より離れ岸辺の岩場でびくんびくんと跳ねている。

 幸隆殿のお顔の色など、もはや土気色。苦悶の表情を浮かべている。


「どうやら、我が飯富家の心情をご理解いただけたようですな。さて、飯富家の当主として改めてお尋ねいたす。幸隆殿におかれては両家の言い分、果たしてどちらを是とされましょうや」


 決まった。兄者は自らの口ではなく、あえて幸隆殿に語らせようとしている。なんというお優しさよ。

 頼綱殿も隆永殿も、もはや諦めているかのようにうつろな目つきをしていた。


 かこん、と鹿威しが跳ねて鳴る。幸隆殿は無言のまま下を向いている。更にもう一度、鹿威しの音が座敷へ響く。うつむいていた顔が上がっていった。

 ほう、なるほど。覚悟を決めて散ると決めたかのようなその表情。さすがは家を背負っている当主。立派なものである。


「当家は海野家の分家筋。今より七年ほど昔に信濃より追われるまでは、海野一門として遇されておりました。紋にしても本家同様に九曜紋を用いておりました。されど、昨年の春に事情が変わりをみたのです。現在は武田次郎様こと晴信様のご次男が海野次郎様となられております。海野家の姫様と婚姻されご当主であられます。となりますれば、海野家は必然武田一門ということです。では、真田家も武田一門に列しているのでしょうか? 否、です」


 意外にしつこい。無駄な悪あがきをするものよ、と思わざるを得ない。


「お舘様のご一門衆である海野家と同じ家紋を用いる。これいかに。真田は増長しておるのではないか? と申す者が出てくるやも知れません。そうなる前に、武田のお舘様よりその辺りのことをそれとなく告げられる前に。真田は自ら家紋を変更することで、改めて武田家への忠義を目に見える形で示そうと考えた次第」


 詭弁では! そう叫びたくなる。

 何せ、幸隆殿の口上を驚きの表情で聞いていたのは兄者だけではない。頼綱殿も隆永殿もまるで今初めて耳にしたかのようなご様子。目を見開き、口をあんぐりと空けているのである。

 そもそも、幸隆殿ご自身の眼が泳いでおられる。


 あ、いや。口からでまかせとまでは申しませんが。と口を開きかけた時であった。


「感服いたしました! まことにお見事なる心構え! この虎昌。飯富家の当主として幸隆殿の心意気が五臓六腑に染み渡っております!」


 ま、待つのだ兄者よ! と許されるものならば叫びたい。だが兄者は飯富家の当主。その当主が当主の名でもって口にしていることを、他家の者たちがいる前で否定するなど出来るはずもない。


「分かり申した! 当家の、飯富六星旗は無かったことといたしましょうぞ!」


 ……終わった。圧倒的に攻め立てていたはずなのに、恐らくは苦し紛れであろう一本の流れ矢が全てを変えてしまった。


「兄者よ」

 そう呼びかけはしたものの、次の言葉が出て来ない。がくりとうなだれて、兄者の腰の太刀六星宗正を見るともなしに眺める。つかの間、兄者と目と目が合う。

 すると、わずかにだが兄者の肩がぴくりと震えていた。


「これは……うむ。源四郎の申す通りでしょうな」


 何を言っているのだろう。おのれは何も言っていない。


「飯富六星旗は六星宗正があってこそ。つまり飯富六星旗が消えた以上、六星宗正はそれがしの差料としては分不相応」

 

 何をしているのだろう、兄者は。目の前で起きていることに理解が追いつかない。

 早くも鞘ごと太刀を腰より抜いている。

「この太刀は。六星を新たなる家紋と成されり真田家のご当主にこそ相応しいものと存ずる!」


 その後「そういうわけにはまいりませぬ」「いや、これは受け取っていただかねば」という言い合いが源四郎の耳を素通りしていく。結局押しつけるかのようにして、真田幸隆殿へ太刀を兄者が渡していた。




 二月の、飯富家屋敷の庭の一隅で赤々と燃える炎。

 二つの影が揺れている。一度も戦場で掲げられることなく飯富家の新しい旗は火にくべられていく。布のきれはしが炎をまとって宙を舞う。


「源四郎よ。そなた、我が弟ながら豪気よのう。まさか、あの場で太刀を譲り渡そうなどと目で語るとは……。この兄も思わず怯んでしもうたわい」

「兄者よ……」

「なにも言うな、今は。飯富六星旗の最期をこそ二人で見送ろうぞ」


 その時であった。ばしんという音が耳へ届く。木戸ががらりと開いている。やや遠いが誰がいるのかはすぐに声で知れた。

「者ども出あえそうらえい! 飯富家に付け火など命知らずな賊じゃ!」

 薙刀を握った義姉上が仁王立ちしている。郎党どもが外廊下より地に飛び降りている。抜き放たれた太刀が月の光できらりと光っている。「観念せい! この痴れ者どもが!」「おとなしくお縄につけ!」




 ……またこれか、と涙目になる。だがしかし、大声を張り上げる気力が湧かない。じりじりとにじり寄ってくる郎党たちを無視し、ぼそりとつぶやく。

「兄者、いずれ四十五回目の話し合いをしなければなりませぬ」

「また晩酌の酒をしばらく禁じられるのか。つらいのう」

 そっちの心配が先に来るとは。なんだか気が抜ける。


 そういえば。義姉上よりお叱りを受けることは吉兆かもしれない。何せ一回目の話し合い時もこのような状況となっていたから。

 とにもかくにもあの後はお舘様より過大な恩賞をいただけた。

 いや、凶兆なのか?

 結局のところ、風林火山旗も六星旗も幻と消えた。


「源四郎よ。何を思い悩むことがある。出直せば良いだけのこと。下手な考え休むに似たりぞ」

「ですな、兄者」


 息を吸いこむ。うおおおと吼える。このばか者どもがあ、と叫びながら源四郎は駆ける。


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