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第五話 飯富六星旗

「今日まで苦労をかけた。この源太郎虎昌。飯富家の当主として改めて礼を言わせてもらおう。まことに感謝しておる」

「頭をお上げくだされ。この源四郎も飯富家の身内人でございます。当然のことを成したまでのこと。それに兄者のお腰の太刀六星宗政(むつほしむねまさ)がきっかけでもあります」

「そうよな! 俺もこの太刀を購った甲斐があるというもの。くっくっく」

「兄者よ、何というだらしのない面構え。義姉上様へ見せられたものではありますまい。きっと愛想を尽かされましょう。わっはっは」

「なにおう。源四郎こそ、その顔はなんだ。ひどいものよ、目尻も口元もだらりとが下がりに下がっておる」

「ふっふっふ。遂に」

「遂に」

「定まりましたな!」



 時は天文十七年(1548年)の二月中旬、所は甲斐の国の首府である古府中の、飯富家屋敷の奥まった一室。

 ひどくゆるんだしまりのない表情を顔にべったりと貼り付けた二人が座している。とてもではないが余人には見せられたものではない。飯富虎昌と飯富昌景の兄弟である。



「およそ二年か。今、振り返ってみれば長うもあり短くもあった。さて、それでは」

「はい、兄者。ごらん下され!」


 源四郎は八つに折りたたんでいた生地をふわりふわりと拡げにかかる。

 畳一畳よりやや幅広の布が現れた。まるで好いた女子(おなご)がそこにいるかのように目を細めて眺める。


「くっくっく」

「わっはっは」


 生地の表面をそろりそろりと兄者が撫でている。惚れた女子にそっと優しく触れるかのように。

 心が、ざわりとざらつく。


「そ、その手付きはお止めくださいませ。これは飯富家の旗印。兄者一人のものではありません」

 そう言うやいなや布生地をさっと手元へ引き寄せて立ち上がる。部屋の壁際を目指して歩み、桟の上にしつらえてある槍置きの突起へ引っかけようとして……。

 諦める。

 自らの背の低さをすっかり忘れていたのであった。何せ十九歳となったのに腕を伸ばしても桟へすら微妙に手が届いていない。

 おのれの成長期はいつくるのだ! と誰に問いただせば良いのかすら分からない。

 仕方がないので妥協することにした。衣文(えもん)掛けへ布生地をかける。


「槍置きよりも、こちらの方が眺めるにはより良くありましょう」

「う、うむ。そうよな」

 あえて手伝おうともせず、しかも黙ってみてくれていた。兄者の、その気遣いが胸中へ染みる。


「コホン。それではこれより、最後の、第四十四回飯富家が戦場で目立つにはどうすべきなのか談合を始めるとしようではないか」


 それほどの回数を重ねていたとは。源四郎は内心で驚く。同時に、よくもまあ兄者は数えていたものであると、その意外な几帳面さに感心を覚える。


「とはいえ、な」

「はい。何を今更話し合うことなどありましょう。最後だと思えば、いささか寂しうはありますが」

「そうよのう。くっくっく」

「わっはっは」


 別に二人ともおかしな茸を食しているわけではない。だがしかし、どうにも表情がゆるんで仕方がない。


「それではお開きとするか。掲げられている旗印をめでながら兄弟水入らずで祝い酒を酌み交わすのもまた一興(いっきょう)というもの」

「っと、兄者。議すべきことが一つ残っておりました」

「何だそれは?」

「言上の文言です」

「なるほど。それはあらかじめ考えておいた方が良いだろう」

「おざなりにすべきではありません」

「ほほう、その自信に満ちた顔付き。さては既に思い浮かんでおるとみた」

「はい、閃きました」

「聞こう」


「それでは。地獄の沙汰も金次第! 心配せずとも我が飯富家が払うてやる! ゆえ、安心して死ねい!」

「源四郎、冴えておる! ただ……」

「ただ?」

「ちと、長うはないか?」


 なるほど、兄者の言いようはもっとものこと。そこに気が付かれるとは、さすがは戦慣れした武人。改めて尊敬の念を覚える。

 頭の中で想定してみれば、なるほど自らの足で立っているのであればまだしも、駆けている馬上より声を張り上げることも少なくはないだろう。

 叫んでいる途中、長い言上になればなるほど危険度は増していく。

 噛んでしまうなど……間違いなく、みっともない。避けるべきだ。


「武田の門番とは飯富家のことよ! 貴様らの現世(うつつよ)の未練ごと、見事に華麗に断ち斬ってくれよう!」

「兄者よ……」

「あ、いや。言うでない。この兄も分かっておる。長い、な」


「因果応報! 飯富家参上!」

「短いのは良い。だがそれはともかくとして、せっかくあしらえた旗の意図がぼやけてはしまわないか? きちっと伝わらぬ恐れがあろう」

「確かに。そこをおざなりにしてはいけませんね」


 改めて考えてみればなかなかに難しい。頭をひねる。が、早々に思い付くものでもない。と、そこへ。


「これはどうだ? 死にたい奴は前に出ろ! 武田の羅刹(らせつ)、飯富家推参!」

 おお! と、思わず感嘆の声を漏らす。

 短いにも関わらず、なかなかに熱い。なにより感心してしまうのは、前半だけでも後半だけでも意図がそれなりに通じること。しかも、二つを繋げればより良くなる。

「素晴らしいです、兄者! よろしいのでは」

「そう思うてくれるか!」

「これは……決まり、ましたね」


「さてさて、次の戦になんとか間に合うて、ほっとしたぞ。気張らねばならぬぞ、源四郎よ」

「敵にも味方にも、飯富家の勢威を見せつけてやりましょう」


 今日の昼過ぎにようやくあつらえ終わったばかりな、出来立てほやほやの旗印をじっと眺める。

 良い。実に良い。自らの才が恐ろしくなるほどに惚れ惚れする意匠。

 二列で三つを並べた六つの丸。

 名付けて、飯富六星旗(おぶのむつぼしき)

 簡潔にして、それでいて他家の旗とは見間違えようがない。近めではもちろんのこと、遠くからでも随分と目立つに違いない。

 しかも、今までの旗印とも繋がりがある。よって飯富家累代のご先祖様たちにも申し開きが立とうというもの。

 さらば、下総(しもうさ)千葉家よ! ……ではなかった。さらば、三日月に一つ星紋よ!


「ところで、源四郎。やはり難しいのか?」

「兄者、以前にも言いましたが無理というもの。諦めくだされ。全てを、飯富六星旗に一度で換えられるほどの(たくわ)えの余裕など。飯富家にはありません」


 これまでの談合の場において、二人でああでもないこうでもないと話し合った結果、しばらくは戦場でのみ用いる旗印として使用。武田家家中に知れ渡った頃に、裏家紋としておおっぴらに採用。五年程度を目処に、徐々に現在の家紋と入れ替えていく。

 そして十年後あたりまでには六星紋を表家紋に、月星紋を裏家紋へと変更する。

 そのように決まりをみていた。


「それはそうだが。旗一竿きりというのはいささか寂しうはないか」

 その何気ない一言は、源四郎の心の琴線をちくりと刺しつらぬく。

 黒い布地から丸を六つほど切り抜いて――きれいな正円とならずに何度も失敗を重ね――それを一枚一枚縫いこんでいった日々。

 慣れぬ針仕事における苦労を不意に思い出していた。目頭のあたりがかっと熱くなる。


「ならば! 兄者も針仕事をなさればよろしい!」

 腕を押し出すように前へかざし、手のひらをがばりと開く。

「見えますか? この赤い点々が! 分かりますか、これ全て! あの!」

 身体をひねり、掲げられている六つ星の旗へと目を向ける。

「飯富六星旗を作らんが為に負うた傷でございます!」


「お、おう。済まないことを言ってしもうた。詫びを入れさせてくれ」

「あ、いや。つい頭に血が昇ってしまいました。こちらこそ、兄者に対し荒い言葉遣い。お許しください」




 出来得るならば、兄者に言われるまでもなく一度に全てを換えたいのだ。

 だが、先立つモノが無ければいかんともしがたい。


 戦場で掲げるべき大旗。飯富六星旗こそ、ここに完成をみている。

 しかしながら郎党たちの鎧の背の旗差しへくくりつける小旗。足軽どもの陣笠。兄者とおのれが用いる太刀や小太刀、懐剣の鞘。馬の鞍。平時に着用する衣装など。紋はいたるところに付いている。


 現在はただ一つしか用意出来ていない六つ星の旗印。これすらも自らのお手製。

 染物屋へ頼めば費用がかかる。そんな余分の金など、今の飯富家には存在していないゆえに。


 これには昨年の出兵が大いに影響していた。

 何せ昨年夏の――源四郎の初陣でもあった――信濃は佐久での戦において飯富勢は何もしていない。身も蓋もない言い方をするならば、ただ歩いていただけである。

 当然ながら何も戦果をあげていない。戦ってすらいない。よって、飯富家は恩賞にあずかれていない。

 反面、大活躍を成した板垣勢と甘利勢に組み込まれていた諸家にはたんまりと褒美が下賜されていた。

 なにしろ四千で七千を叩きのめしている。しかも討ち取った者の数は二千を下らず、関東管領上杉家配下の主だった武将の首だけでも十四。更には信濃佐久地方と上野(こうずけ)を結ぶ唯一のまともな路である碓氷峠をも占領している。

 もはや、上杉家の脅威は信濃佐久郡より一掃されたといっても過言ではない。

 そのこと自体は武田家にとって大変喜ぶべきことであった。だがしかし、飯富家にとっては少々きつい。


 昨年の、雪が降り始めた頃に源四郎は疑問を抱いた。

 今年の米は豊作ではなかったものの平年並みの獲れ高。

 であるならば。何故、金がないのだろうか。絞める所は絞めに絞めているのに、と。

 飯富家の過去の帳簿をめくりにめくった末、原因を突き止められてはいる。


 武田家は少なくとも十年以上に渡って、毎年のように出兵をしていた。出兵のなかった年などこの二十年間でも二度しかない。こうなると、もはや合戦が年中行事に等しいといえよう。

 そして、一昨年までならば兄者率いる飯富勢は何かしらの手柄をあげていた。その恩賞が、飯富家の年度運営費へ当たり前のように組み込まれていたのであった。

 からくりが判明してしまえば、何だそうであったのか、としか言うより他はない。そして原因が分かったからといって対処の方策など思い浮かびようもない。


 入るべき金が入らずとも、出る金は出ていく。

 しかもである。慶事による出費が例年よりも余程にかさんでいた。


 武田家では家中の家々において、昨年の十二月からこの一、二月にかけて子が生まれに生まれていたのである。

 昨年の戦は夏に起きた。例年であれば、雪解けあたりから田植えの時期までに出兵していた。ところがその出陣がなかった。

 その結果……・

 我が家では暇を持て余していたのか兄者が太刀を衝動買いしている。

 親しく交友している真田家には四男源三郎殿が、飯富家寄騎衆の相木家には次男次右衛門殿が、源四郎の務めている武田家勘定方では同僚の多田満頼殿に嫡男新蔵殿が、昨年の暮れから一月にかけて生まれている。

 いまだ独り身としては、ため息をつくより他はない。

 他にすることがなかったのであろうか、と……。


 とはいえ、子が産まれた全ての武田家家中の家に飯富家として祝いの品を贈るわけでもない。それなり以上な付き合いがある家だけである。おまけに、引き出物の類ならば倉にたんまりとあるので改めて購入する必要はない。

 問題は……飯富家家中にも、つまりは我が家よりの扶持を受ける郎党の家々にも子が次々と生まれていた点にあった。


 飯富家には郎党に子が産まれた場合、祝いの品に加えていくらかの銭を渡す、というならわしがある。

 一人二人ならまだしも、せめて八人以下なら毎年のやりくりに含んではいるものの……昨年の暮れから今年の二月、ちょうど今時分にかけてなんと十二人もの出産祝いが続いてしまっていた。

 喜ばしくも恐ろしいことに、腹がぷっくりと膨らんでいる郎党の女房はあと四人ほど控えている。


 一軒一軒への額などさほどではない。けれども、ちりも積もればなんとやら。

 祝いの品なら飯富家の倉にはそれこそ転がっている。相手が武田家の直臣ならば家格や関係に応じて選びたい放題だ。

 されども、それらは使えない。

 何故なら、郎党へ祝いとして渡すには高価過ぎた。

 源四郎としては渡したいのだが、さすがに中堅どころの郎党の俸禄に換算して最も値の張らない物ですら一年分を超えようという品々とあっては……無理というものであった。

 たまたま今年に子を成していない郎党たちが不満の声をあげようというもの。


 二年ほど前に買いにも買ったそれらを、明国渡りの陶器などを売り払うわけにもいかない。

 物が物だけに目立つのだ。すぐにも飯富家より出た品だと知れてしまう。

「なんだ、飯富家は金殻の管理もろくに出来てはいないのか」と武田家家中において、いい笑い話の種となってしまうに違いない。

 おのれが嘲笑されるだけならば我慢も出来る。あの当時は頭がどうかしていたと深く反省しているし、実際に購入していたのは自らなのだから。

 けれども、兄者まで笑われてしまうことなど。それだけは到底我慢の出来ようはずもない。ゆえに売れない。

 そういった次第で、子が産まれた郎党の家への祝い金と引き出物の経費が積もりに積もっていくばかり。

 今の飯富家は、旗一枚を染める出費すら惜しまなければならないほどなのであった。




「兄者よ」

「なんだ?」

「次の出陣が待ち遠しくあります」

「ほほう、源四郎も一人前の口を叩くようになったもの。心強い! この飯富六星旗に恥じぬ働きをせねばな!」


 いや、そうではないのだが……。いや、そういうことでもあるのか。


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