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第四話 源四郎の初陣

「金がない、金がないと、源四郎はちとうるさいのう。勘定奉行跡部勝輔(あとべかつすけ)殿の下で務めているゆえか。帳簿付けに長けるのも悪くはないが、武の鍛錬をおろそかにはしてはおるまいな」

「それは当然、日々身体を鍛えております」

「ならばよい。さてと」

「兄者、話はまだ済んでおりませぬ。金殻の管理は大事なことです。無ければ、身動きが取れなくなるのです。我が飯富家の者はもとより郎党にも家人にも、日々の暮らしというものがあります。ああ……せめて今年の春に、兄者が太刀を衝動買いしてさえいなければ」


 雨の音が屋敷内にこだましている。開け放たれたふすま戸の向こうには紫陽花が咲いていた。もうすぐ夏である。


「それは……。今年は珍しくも雪解けの時期に出兵がなかったゆえ。つい、な」

「お気持ちは分からなくもないですが」

「そうであろう。買い物は楽しいものよ」

「とはいえ、さすがに吹っかけられ過ぎたのではありませんか?」

「いや、この太刀は我が家に必要なのだ。源四郎は考え方が浅い。この、名刀六星宗政(むつほしむねまさ)ほどの業物(わざもの)が市で売られておったのだぞ。それを俺がたまたま見つけた。これ、すなわち天よりの配剤。もしも他の者が購ってしまい、それを見かけてしまった日には!」

「日には?」

「悔しうて夜も寝られぬこととなるかもしれない。つまりは、この兄の心が落ち着かなくなるかもしれない。ささいなことで声を荒げてしまうかもしれない。すると、郎党どもが皆萎縮してしまかもしれない。実に良くないことずくめであろう」


 なんという言い草。”かもしれない”の羅列はひどい。

 ものは言いよう、とはよく言ったものだ。と、苦笑を浮かべざるを得ない。


「まあ、過ぎたことを余りくどくどと言いたくはありません。ただ、覚えておいてください。このままでは今年の飯富家の収支は、ぎりぎりとんとんといったあたりとなります」

「なんだ、借財をこしらえてしまうわけではないのか。ならば良いではないか」

「……兄者に分かるように説明しますと、米にして三十石分ほどしか余剰が出そうにありません。よろしいですか、三百ではなく三十石です。本当に全く以って余裕がないのです」

「まさか、それほどにか。厳しいのう。こたびの戦においては励まねばならぬな!」


「原因は、兄者が腰に差しておられるその太刀」

「くどいのう。そうそう、あれはいかがした。お館様よりいただいた碁石金二十粒」

「一年も昔の銭など……もはや残ってなどおりません」

「なんと! 俺としてはそれほど使った覚えがないのだが。この太刀とあとはせいぜいが、鞍くらいだぞ。いったいどこへ消えたのだ?」


 まずい。藪をつついて蛇を出していた。

 源四郎の背中につぅと一筋の汗が流れていく。義姉上様と共謀して欲しい物を買いにも買っていたのである。あの当時はどうかしていた。

 今、振り返ってみれば。

 何故こんな物を? としか言いようのない明国渡りの陶器の壷や椀、香木の類が倉の中にごろごろと転がっている。

 唯一の利点として当面は、向こう五年十年は、祝い事の類の引き出物に頭を悩ますことだけはないだろうということ。他に使い道が……思い浮かばない。

 まったく、慣れぬあぶく銭などは持つものではない。


「えー、色々と物入りでございましたので。必要な費えに消えてしまいました。ほら、廊下の修繕や庭木の手入れなどにも意外とかかりましたし。それはそうと、兄者。その太刀を戦に持っていかれるのですか? もしも刃が欠けたりすれば、源四郎の胃に穴が空いてしまいそうなのですが」


「ふっ、まだまだ青いのう。戦場において家宝となる太刀を振り回すなど。まず、ありえぬ」


 どういうことだろう。言葉の意味を考えていると。


「よく斬れる太刀が不要と言っているのではない。考えてもみろ、敵にしても味方にしても、傷を負いたくなどないからこそ甲冑を着込んでおる。鎧兜に全身を包んだ自身を思うてもみよ。刃が通る箇所などそれほども無いであろう。分かるな」

「なるほど」

「もっとも、六星宗政ほどの名刀であれば斬れもしよう。だが、刃がこぼれてしまう可能性がある。なんという恐ろしきこと! 想像しただけでぶるりと肌に粟が生じてしまいそうだ。そもそも防具を着けた敵を倒すには斬るより突く方が理にかなっておる。つまりは、突きに特化した得物である槍こそが大事」


「であるならば、六星宗政は?」

「見栄えがしよう」

「そ、それだけですか?」

「太刀というのは戦場以外でものの役に立つのだ。考えてもみよ。一年のうちで鎧を着込んでいる日々などどれほど長くても半分以下。そして鎧を身に帯びていない相手なれば、突くよりも斬る方が倒しやすい」

「兄者、一つお教えいただきたいのですが。平時に太刀を振り回す機会とは?」

「あまいぞ、源四郎! もしも仮に躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)に賊が忍びこんでしまったとすればなんとする。見つけ次第、斬って捨てる必要があろう」

「はあ」

「要するに、必要なのだ」


 何が要するになのかは、さっぱり理解出来ない。


「さて、話は変わるが。こたびの出陣が源四郎にとっては初陣となる。覚悟の程は出来ておるのか?」

「ハッ。兄者の副将として恥ずかしくないよう、飯富勢の先頭に立って暴れまわる所存にて!」

「まだまだ、だな」


 ふぅとため息をつかれていた。やれやれといった様子でにやりとされる。思わずむっとしてしまう。


「試みに問うが、我が家は今回どれほどの兵を率いる?」

「今のところ、どれほど出すようにとのお館様よりの指示がまだ当家には届いておりません。よって正確な数字ではなく、ざっくりとで。我が家へ付けられている寄騎衆の三枝家や相木家を含めれば百二十騎に足軽五百ほどを見込んでいます」

「それくらいであろうな。よいか、俺も源四郎も一騎駆けの端武者や足軽ではない。それは分かるな」

「はい」


「つまりは、六百人からの者どもの命の進退が自らの采配にかかっておる。太刀を振り回して先頭で斬り結んでおれば、まわりのことなど二の次、三の次となってしまおう」

「なるほど」


「大事なのは、自らの手で敵の首をあげることではない。郎党や寄騎に手柄を獲らせるべく気を配らねばならぬ。飯富勢としての戦果を得られれば良いのだ。それが将たる者の務め」

「兄者、為になります。されども」

「何だ?」

「兄者は先頭で槍を振るわれておられるのでは?」

「俺は、良いのだ。見えておるからな、戦の気というものを肌で感じられる。ゆえ、率先垂範で率いる。なんのかんのと言っても、将が勇を常に配下へ見せている隊は強い。だからこそ、武田のお館様もそれだけの兵を預けてくれるわけよ。源四郎にも将来は兄と同じくらいにはなって欲しいが、いかんせんまだ早い」

「まずは、後方にて目を養えということですね」

「さよう。飯富勢のうち二十騎足軽五十を委ねるゆえ、戦場での呼吸を掴むのだ。早う一人前となってこの兄に楽をさせてくれよ」

「ハッ。励みます、兄者!」





 甲斐より発した武田勢は信濃の佐久郡へ侵攻していた。関東管領上杉家にそそのかされたあげくに、武田家へ叛旗を翻した佐久一帯の国人領主を打ち破るためである。

 飯富源四郎昌景は武田方の一人として出陣した。

 なお現在は、馬の背にまたがりひたすらに揺られ続けている。


「源四郎。あまり気を張り続けても意味はない。抜く時は抜いておかねば、もたぬぞ」

「ああ、兄者。これでも心を落ち着けているつもり。まだ硬くみえますか?」

「いささか。もっとも、初陣ゆえ気を急くなと申しても無理であろうがな」


 言われてみれば肩の辺りが張っていた。筋肉のこわばりをほぐす意味も込めて、馬上よりやや背を伸ばし前後左右へと眼を配る。

 およそ三千ばかりの軍勢の先鋒に飯富勢は位置している。人馬よりしたたり落ちる汗と土ぼこりと夏の暑さが合わさってか、かげろうがゆらりゆらりと方々で立ち上っていた。


 と、前に見える丘を縫うように折れ曲がっている道に一筋の砂塵が舞う。源四郎の緊張はいやが上にも高まっていくばかり。心の臓が鼓動を速める。


「止まあれい!」 という声が風に乗って流れ聞こえてきた。声のした方へと、後ろをかえり見れば、お館様の本隊より旗が振られている。全軍停止の合図であった。


「あれは」

 額に手を添えて前方へ眼を向けっぱなしであった兄者の声が届く。

「源四郎よ、どうやらこの先だ。丘を挟むようにして、佐久の土豪どもに加えて関東管領上杉の連合軍との戦じゃ」

「何故、それと知れるのですか?」

「うむ。ことここに至れば、口にしても良かろう。こたびの戦、板垣様と甘利様のそれぞれ二千が言わば釣り餌の役割を果たしている。この意味、分かるか?」


「なるほど。わざと退いて我ら武田本隊の前まで引っ張って来ている、と」

「そういうことよ。初陣にしてはよう見た。やるではないか、源四郎」


 誉められて頬に血がめぐったのか。緊張感が増したゆえに顔が朱に染まっているのか。源四郎には自身がどちらなのか不明であった。

 恐らくは……両方なのだろう。喉をごくりと鳴らして唾を飲みこむ。一度、二度。だが、一向に乾きがおさまらない。呼吸が荒さを増していく。

 突然、視界の隅にひょうたんがすっと現れる。飯富家の郎党の一人が気を利かせてくれたらしい。「すまぬ」と一言言い添えて三口ほど水を口に含む。(なつめ)でも入れてあるのだろうか、喉を通すとすきりとした。


「彦助は物慣れているのだな。冷えてはおらぬのに水が冷たく感じる」

「若様。それがし、飯富家の先代盛昌様の頃より戦に出ていますれば。ちょっとした工夫には事欠きませぬ」

「うむ、一杯の水。この源四郎にとっては大層な馳走であった。感謝する」

「誰でも、初めてというのはございます。二度、三度と次に繋げることこそが大事ですぞ。まずは、一度目で終わらないようにすることのみをお考えなされませ」

「なんだ、彦助。さては兄者から、俺が無茶をしないよう見張っておくようにと申しつかったのだな」

「あいや、ばれてしまいましたか」

「兄者の口上、そのままではないか。もそっと変えねば、な」


 ははは、と周囲で笑い声が起こる。その声が一つ耳へと届くたびに、源四郎の緊張がほぐれていく。


 ようやく周囲の景色が見えてくる。気がつけば、並んで馬を進めていたはずであった兄者の姿がいつの間にか消えていた。そういえば、本陣よりの伝令がさきほど召集を告げていたような。


 丘陵のふもとで足を止めてからどれほどの時が経っているのであろうか。行軍中は気にもならなかった蝉の声が耳へ響いてくる。

 と、そこへ。

 後方から、どわっという歓声がとどろきながら伝わってきた。

 身体ごと振り向く者、首だけをまわす者、前を向いたまま耳をそばだてている者。飯富勢の約六百人は、それぞれの人となりに応じて後ろの音が何を意味するのかを捉えようとしている。



 本陣より騎乗した使い番の者が、一人また一人と野を駆けていく。

 前へ後ろへ右へ左へ、武田勢およそ三千の中を駆けめぐる。

「お味方大勝利! お味方大勝利! 板垣様甘利様の両隊によって敵軍七千を完膚なきまでに破りしそうろう!」


 え? 両隊合わせて四千で七千相手に圧勝した……のか。

 え? 先行していた両隊がわざと退却して本隊の方へおびき寄せ、三方から挟み討つはずではなかった……のか。

 え? おのれの初陣って、もしかして終わった……のか。


 いやいや、そもそもこれは数に含めては駄目だろう。甲斐古府中から信濃は佐久まで、馬に揺られていただけなのだから。

 次の戦こそ、初陣。きっとそうに違いない。


「若様! 源四郎様!」

「な、なんだ彦助」

「初陣にての大勝利! まことにおめでとうございます!」

「あ、ああ」

 

 おめでとうございまする、という飯富家の郎党たちからの歓声を一身に浴びながら源四郎は思わざるを得なかった。

 これでいいのか、と。



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