第三話 引き出物
「いやあ、めでたい」
「まこと、めでたきことです」
「どれ、ここは一つ源五郎殿の為に舞おう」
「おお、それでは私が鼓を打ちましょうぞ」
「源太郎兄者。少し酒を召され過ぎなのでは」
「源四郎よ。元服を済ませたからといって兄の酒量に口を出すなど、さては増長しておるな!」
「昌景殿、さような遠慮は当家においては無用というもの」
「兄者がすみませぬ、幸隆殿」
「幸隆殿よ! 我が弟など源四郎で充分ですぞ。何が昌景でございます、だ!」
「兄者、それは言いがかりもいいところ。ひど過ぎまする」
源四郎の文句など耳には届いていないかのように、兄者は既に舞い始めていた。
「にんげんん」ポン! 「ごじゅうねんん」ポン! 「げぇてんのぅ」ポポン!
舞うにしてもその演目はどうなのか、と苦笑いを浮かべてしまう。
敦盛は、時の流れの儚さが主題。つまりは、死。お子誕生という祝いの席に相応しいのだろうか?
もっとも、座はたいそう盛り上がりを見せている。真田家の郎党にしても我が家の郎党にしてもやんややんやの喝采であった。……何でも良いのか、おまえたち?
とその時。「失礼いたします」という声とともに障子戸がするりと開く。
「うちををぅ」ポポポン! 「源太郎、いかがした」
「はい、父上。母上より伝言を言付かって参りました」
「くらぶればあ」
「飯富様」
呼びかけられた兄者の脚がいくらかもつれつつ止まる。
この場に飯富姓は二人いるのだが、源四郎のことではないと部屋にいる全ての者が承知していた。
「おお、これはこれは源太郎殿ではないか。そなたも飲む……にはまだ歳が幼いな」
「源太郎。飯富家ご当主の舞いを止めるなど無粋というものぞ」
「済みませぬ。母上は先ほど飯富様よりいただきました熊胆を煎じて飲んだところ、早速にも血のめぐりが随分と良うなったそうです。されど、産褥の床から離れられぬ身ゆえ、直々にてのお礼を申せぬ失礼をお許しくださいませ。とのことです」
「その様なこと、わざわざ礼など不要よ。両家の仲ではないか! それにしても……未だ幼い身なれど、まことにしっかりとした物言い。ううむ、源太郎という名はやはり賢き男の代名詞ということであろうか!」
その通り! さすがは我が殿! いよっ源太郎様! という声が源四郎の耳へと伝わってくる。ううむ、皆飲み過ぎではあるまいか。
「源太郎兄者よ。いい加減にしなされ」
「これ、源太郎。そなたに酒席はまだ早い。下がっておれ」
「はい父上。これにて源太郎は失礼させていただきます」
おめでたい席でのことではある。だが、飯富家の郎党を六人ばかり引き連れて昼にもならぬうちから訪れ、今は既に陽がかげりを帯び始めている。
ここが血肉を分けた身内の家屋敷ならばともかく、知己を得てわずか三月ばかりの家。さすがに長居し過ぎなのではなかろうか、と源四郎としては気にせざるを得ない。
とはいえ、百日にも満たない日々において既に両手の指では数え足りぬほどにお互いの屋敷を訪っている。よって今更かしこまるのも他人行儀な話といえないこともない。
きっと。源四郎は思う。
兄者は真田家の人々を気心の知れた身内のように感じているのであろうな、と。
もっとも自らにしても兄のことをとやかく言えた義理でもない。
真田幸隆殿の幼い息子たちには随分と懐かれていた。請われるがままに源家物語を詠ってみたり、槍さばきを披露していたりもしている。
源四郎兄と呼ばれまとわりつかれるのも満更ではない。まるで実の弟たちが出来たかのような、そんなふわっふわとしたなんとも言いがたい暖かな心持ちを抱いてもいる。
飯富家は甲斐の地にて四百年以上も続いている家なのだが、祖父友昌、父盛昌の代において戦死、病死により一門を相次いで失ってしまった過去がある。
減りにも減って、現在は兄源太郎虎昌と弟である自分、源四郎昌景しか成人がいない。
ようやく這うように歩き始めた兄者の嫡男次郎三郎と義姉上様をも含めてすら、わずか四人しか係累のいない家なのであった。
義姉上の実家を訪なっても気安く過ごせるはずもない。何せ、義姉上の亡父は武田家宿老板垣信方様の兄であられたお方。つまり義姉上は板垣信方様の姪であり、必然板垣屋敷が里となる。
元服するまではさほど意識することなく用事があれば板垣家の門を叩いていた。だがしかし、飯富昌景と名乗りを改めた今ではそういうわけにもいかない。
別に兄者にしろおのれにしろ板垣様とそりが合う合わぬといった話ではない。大変威厳に満ちあふれた手本となるべきお方である。とはいえ武田家家中において、はるかに上役の、それも筆頭宿老様の屋敷で肩の力を抜いてくつろげるはずもなしということ。
兄者はお寂しかったのだろう。
源四郎が知る限りにおいて、真田幸隆殿と知り合うまで最も兄者と気心が知れていた仲なのは教来石景政殿――昨年、お館様の命により絶家となっていた馬場家を再興され同時に名も改められた馬場信房殿――であった。
だが、その馬場殿。一昨年より武田家が版図に組み入れた旧高遠家は高遠城の城代となられており、それ以来当然ながら古府中にはほぼ滞在していない。
たまに甲斐へと戻られるのだが、当然それは用事があってのこと。どちらかの屋敷において兄者と酔いつぶれるまで飲むほどの時間はないようなのだ。
兄者の気持ちは分かる。この家は居心地が良い。風通しが良い、とでも言うのであろうか。肩肘張らずに時を過ごせる。
と、兄者による敦盛の舞が終わっていた。
「幸隆殿! 兄者に続きそれがしも一指し舞わせていただきます」
「おお、それはうれしきこと!」
すっくと立ち上がって足を一歩踏み出す。
「あ。高砂や。この浦舟に帆を上げてぇ」ポン!「この浦舟に帆を上げてぇえ」ポポン!「月もろともに出で汐のぉお」ポンポンポン!
源五郎殿よ、いずれそなたとも酒を酌み交わそうぞ。もっとも、早くともあと十五、六年は先の話となろうがな。
生まれたばかりである真田家三男坊の長寿とこの先の幸多かれを願って、詠い舞い踊る。
飯富家と真田家は不思議な縁で結ばれていた。
まずは、おのれの元服に際しての持ち馬を求め兄者とともに真田屋敷を訪れたことがその始り。
飯富郷の牧場から一頭を選んでも、市に出張っている馬商人から購っても良かったのだ。
しかしながらそれでは今日ただ今のような、親しむ知己とまではなってはいなかったに違いない。
いやまあ、兄者と幸隆殿は大変にウマが合われている。よって、いずれは強い縁となったのかもしれない。けれども、少なくとも真田家が甲斐古府中に居を構えて半年も経たない内に、ではなかったことは確かであろう。
天文十六年(1547年)の初春。昨年の初冬に元服し、名乗りを改めていた源四郎は兄源太郎虎昌とともに真田家を訪れている。真田家当主幸隆殿の三男誕生を祝うために。
なお、両家はなんと言うべきか、通名が重なりに重なっている。
真田家当主幸隆殿の通名は次郎三郎で、嫡男が源太郎。
飯富家当主である兄虎昌の通名は源太郎で、嫡男が次郎三郎。
両家の正妻の名が――とはいえ両家ともに妾などいないのだが――結衣。
真田家の次男は徳次郎といい、飯富兄弟にとって徳次郎という名は亡き父盛昌の通名でもある。
ここまでかぶさってしまえば、不思議というより他はなく、源四郎にしても縁を感じざるを得ない。
そこに、つい三日ほど前に真田家へ新たな男児が生まれたのであった。
ちなみに、真田幸隆殿の三男が源五郎と名付けられたのには源四郎も少々関わっている。なんでも当初の心づもりでは源四郎と名付ける予定であったそうだ。
ところが、ふた月ばかり前の頃。
両家それぞれの身内人が相席しての夕餉の席において飛び交う名が名であった。混沌というより他に言い表しようがなくなってしまっていた。
その有様を見て、真田幸隆殿は案じたそうだ。さすがにこれ以上同じ名が重複するのはいかがななものか、と。
そして、こう言われた。
「当家は飯富家とは今後とも仲睦まじく交流を深めていきたいのですが。何せ、今ですら名の重なりが多く、もしも男児であった場合に源四郎としてしまえば源四郎殿と同名となってしまいます。そこで一つずらして、源四郎殿には新たな弟のように目をかけていただきたいという願いも込めて、源五郎と名付けることと決めました」と。
それを聞いた時に、どうせなら源四郎で良かったのだがといくらか残念な気持ちになったものである。何せ、おのれ一人だけ名が重なっていないのだ。寂しいというものではないだろうか。
なお、その想いについては後日真田幸隆殿へ吐露する機会があった。その結果、この年の暮れに産まれた真田家にとっての四番目の男子は源三郎と名付けられる。
六郎、七郎は真田家においては縁起が悪いそうで、かといって源四郎と名付けてしまえば三男源五郎のみ、名が重ならない身となってしまう。それは哀れ。されども源八郎では間が開きすぎていてとかなんとか。
「君の恵みぞぉ、ありがたきぃい」ポン! 「君の恵みぞ。ありがたき」ポンポンポン!
昌景様、おみごと! と下座で飲んでいる両家の郎党たちより声がかかる。
「失礼つかまつりました」
「結構な舞でございました」
幸隆殿に会釈を返しつつ、高砂を無事に舞い詠い終えて席へと戻る。
「源四郎よ。腰の入った良き舞であった!」
断言出来る。兄者はほんの寸刻もおのれの舞など見てはいない。もっとも、源四郎にしても兄の舞へはほぼ目を向けていない。
別に仲が悪いわけではない。兄弟喧嘩をしているわけでもない。
ただ単に見飽きているのであった。双方ともに他所で舞う時の為の練習相手となっている身ゆえに。声の調子を聞くともなしに聞いているだけで、しくじっているか否かはすぐにそれと知れる。
「さてと、いくらか長居をし過ぎてしもうた」
ようやく気付かれたか、兄者。
「さようですな。皆、帰るとするぞ」
下座で飲み食いしている飯富家の郎党たちへそう声をかける。
「っと、これはうっかりしておった。当家よりの、引き出物を忘れておったとは」
酔い過ぎであろう、兄者。とうの昔に真田源五郎殿の誕生祝いは渡してある。
どうしたものかと戸惑っていると真田幸隆殿も同様の様子であった。目と目が合う。すみませぬ、と目礼で返す。
「酔っているわけではない。いや、酔ってはいるが正気よ。次郎三郎殿、ちと別室にて話をしたいのだがよろしいか?」
「ではこちらへ、源太郎殿」
……兄者が何を以って引き出物と言っているのかよくは分からぬ。だが、まあ何かお考えがあるのだろう。
そう思っていると「源四郎、お前も相席せよ」と告げられた。
「さてさて、先だってはせがれ源五郎の為に良き品々をいただきましたばかりですが」
つい最前までとは異なり、酒の臭いの全くしない奥の書院に三人が座している。
「せっかくの源五郎殿の祝いの席だというに、弟どのらのお姿が見えぬのう」
「それは……頼綱は諏訪上原城城代板垣様のもとで、隆永は伊那郡は高遠城城代馬場様のもとへ出仕しておりますから」
「そこよ、次郎三郎殿。いや、幸隆殿」
何を言い出すのやら、源四郎にはさっぱり先が見えてこない。
お館様にしても、武田家家中の手前がある。真田家が誰の眼にも判るほどの功を上げなければ、仕えたばかりの一族を一つ所に置いておけるはずもない。
「信濃小県は真田荘へ返り咲くまで、いくら時がかかるかは分からぬ。それはお館様の采配次第。それに帰還がかなえばかなえばで、古府中にどなたかは真田のお身内を留め置かねばなるまい。だが、せめてそれまではご一族打ち揃って、この屋敷でお暮らしたかろうと思うてな」
先ほどまでのふわりとしていた空気が一転していた。
「……何を。それがしに言わせたいのでしょうか」
「あ、いや。謀の類ではない。たとえば我が家など、この源四郎とただ二人きりの兄弟。他には息子次郎三郎と嫁しかおらぬ。今まで幸隆殿と知り合うて後、こう親しく言葉を交わさせていただくうちに気付いたのだ。身内とともに暮らせておる喜びを。実にありがたい」
「それはこちらの方こそです。知り人もおらぬ古府中の地において、にぎやかに暮らせているはひとえに虎昌殿、昌景殿と昵懇ゆえ」
「そこで、な。話は戻る。実は、源四郎が良き思案をしておりましてな」
え? 源四郎は戸惑いを覚える。おのれが何を?
「この屋敷には真田のご兄弟が欠けておる。さりとて、も一つ欠けておる。海野家のご息女のお姿が見えぬ。一族郎党引き連れて武田へ仕官されたはず。いったいどこにおられる?」
「……古府中にはおりませぬ。どこにいるかは語れませぬ。海野は我が真田の本家筋にあたります。それを話すは義にも義理にもそむくこと。真田の一族郎党は一人も余すことなく当地へ連れ参りました。されど、当家はあくまでも海野の分家でございます。ご本家の方をそこに含むなどと、一言も申したことなど無きことにて」
「で、ありましょうな。そこでご提案をしたい。連れて来てはもらえぬか?」
「さて、それは……虎昌殿とそれがしは親しく知己を得ている間柄、などと思っていたのは当方のみの誤解であった、と。そういうことでしょうか?」
「いや、幸隆殿。いや、それがしは源太郎として、次郎三郎殿への友誼からの、心よりの提案であります」
「そういうことでしたら。まずは聞きましょう」
ああ、あれか。源四郎はようやく腑に落ちる。確かにあれが実現すれば。
「海野家はご当主棟綱殿、ご嫡男幸義殿のご兄弟も含めて全ての男子は亡くなっておりますな」
「その通り」
「幸義殿には一女をもうけられておりますな」
「その通り」
「このままでは、将来真田家が小県の旧領へ復帰出来たとしても、海野家の再興はまずかないますまい。違いますかな?」
「その通り」
「そこで、です。過日のこと、ここにおります源四郎が実に良い案をそれがしに示してくれました」
「ほう」
「誰も困らない。武田のお館様も、真田殿も、海野家も、信濃小県の領民も。問題があるとすれば、海野の姫君の心持ち、それ次第。案というのは」
「あ、いや」
幸隆殿が手のひらを兄者へと向け、言葉を押し留めている。
「……源太郎殿の、ではなく源四郎殿の案、分かり申した。されど、しばしお待ちくだされ」
兄者の言いたいことは理解出来る。何せ、自らが言い出したことなのだ。しかしながら、おのれがこの場に座っている意味が分からないままな源四郎である。
「ふむ。なるほど、確かにありがたき引き出物」
「分かっていただけましたか!」
幸隆殿が姿勢を直していた。まずは兄者へ次いでおのれへと視線を向けた後、深々と一礼をしていった。
「飯富兵部少輔虎昌殿。武田のお館様へ真田弾正忠幸隆、言上したき議これ有り、と取り次いでいただけまするか。もっとも、ご本家の姫様は未だ御年六歳でございます。察するにお館様のご兄弟では年が離れすぎておりましょう。さりとて、ご嫡男太郎様は当然ながら外れますし、四郎様はいずれ諏訪家を再興なされる身でありましょう。となれば、姫様と同年の次郎様か四歳の三郎様が海野へ入り婿という形ですな。実際の婚儀は元服なされた後としても、海野家の再興は真田が旧領へ復帰するよりも余程に早うかないますな」
そう言い終えた幸隆殿の眼はわずかににじんでいた。
「気付きませんでした。姫様のお父上と祖父君を討たれたのは、武田のご先代信虎殿と村上義清。信虎様を放逐されたのがご当代晴信様。その晴信様のお子であれば、姫様も否応はございますまい」
「見事なるご分別! 早速、明日にでも躑躅ヶ崎館へそれがし参上し、お館様へ取り次ぎます!」
「源太郎殿、よろしくお願いいたしまする!」
「受けたまわりましたぞ、次郎三郎殿!」
良きことである。源四郎はほっとしていた。この案が成れば、いや成らぬ理由もないが、この古府中の真田屋敷において幸隆殿のご舎弟お二人も暮らすことが出来るだろう。
「ところで……源四郎殿がこの素晴らしき案を源太郎殿へ伝えられた、という事情は承知しましたが、何ゆえにこの席に?」
そう、それ。そこがさっぱり分からない。おのれがこの場にあえて同席している意味が不明なままである。
「ああ、そのことですか。海野家ご息女の件とは直接には関わりなきことにて。源四郎よ」
「ハッ、何でしょう」
「真田幸隆殿へ、お詫びを申し上げるのだ」
「は?」
口をぽかりと空けたのがまずかったのだろうか。気が付いた時には、畳の上で正座していたはずが、ごろりと転がり天井を見上げていた。頬が熱を帯びている。
「立て、源四郎! いや、座れ!」
ぐらりと揺れる頭を振りながら、痛む頬を手で押さえながら、身体を揺らしながら。もといた位置へ座り直す。
さっぱり事情が飲み込めないという顔をした幸隆殿が目に映る。おのれにしても同様で、まったく事態が把握出来ていない。
「この愚か者が! いったいいつになれば気が付くのかとこの兄は黙っておったというに! 申し訳ない、次郎三郎殿。この源太郎に免じて、そしてこたびの源四郎の思案に免じて、どうかお許しくだされい」
がばりと兄者が畳へ手を付いている。「源四郎、何をぼけっとしておる」という声が飛んでくる。
だが、わけが分からない。分からないまま、頭を下げるなど願い下げというもの。
「兄者よ。何をお詫びすると言」
最後まで口には出来なかった。源四郎は再び張り倒されていた。
「分からぬか! 分からぬならば言って聞かせる! よいか、お前が元服のさいにこの真田幸隆殿より購った馬はな! 幸隆殿ご自身の乗り馬であったのだぞ! 当時、そうと察せられなんだこの兄も愚か。それは認めよう。されど、いつまで経っても気が付かぬとは! まことに情けない!」
なんという失態! これは我がことながらまず過ぎる。顔から血の気がすぅと引いていく。
腹を切りたいとまでは思わないものの、ただ今すぐにでも甲斐を離れおのれのことを誰も知らない地へ出奔したくなるほどの恥ずかしさ。大失態であった。
「ああ、そのことですか。それにしても源太郎殿はよくお気づきになりましたな。よければ仔細を聞かせてもらえますか」
「全く以って申し訳ない。あれは五度目にこの真田屋敷を訪れた時のこと。馬小屋を目にしまして、ふと違和感を。七度目に門をくぐった時にようやく気付きを得ました。源四郎の馬が、この屋敷で飼うておるどの馬よりも馬格に優れている、と。当然、そのような馬は当主の乗り馬であったことでしょう」
「七度目、ですか。すると今年に入ってすぐの、つい先だっての話となりますな。何故、今日まで?」
「それがしが気付いたのが七度目。ならば、せめて同じ回数、弟がこの屋敷をおとずれるまでは待つべきだ、と。その後、兄弟揃って詫びを入れよう、と。ところが、本日もこの愚弟は全く気付いた気配がない。実にもうしわけない」
「幸隆殿! まことに済みませぬ」
源四郎は頭をこれ以上は下がらぬほどに下げ、畳に手を付いて詫びを入れる。
「いやいや、最も良き馬を見定められたその目利き。お若いのに大したものでありました。それにあの折は元服祝いということで相場の倍もいただきましたので、手元金が豊かとは言いかねる我が家としては随分と助かった次第。充分に元は取れておりますよ。ささ、源太郎殿も源四郎殿も頭をお上げくだされ。ささ」
「ありがたきこと! この借りはいつかお返しする所存にて!」
「兄者の申す通りにて!」
「借り、ですか。なんのかんのと申しても、しょせんはたかが馬一頭のこと。本日の海野家再興の為の引き出物を加味すれば、こちらの方が余程に借りているような気もしますが」
「おお! 次郎三郎殿のお心の広さよ!」
「幸隆殿、感謝いたします!」
「まあ……まあ、借りと源太郎殿は言い張られているのですから、ここは借りということにしておきます」
そう言ってにやりと笑う真田幸隆殿の顔が眼に入る。ふと、気にはなったものの今はそれどころの心境ではない。なんとか助かったと思うばかりである。
「飲みなおす、というのも無粋でしょうな。今日は散々飲んでいますので。お茶をお持ちしましょう」
幸隆殿は立ち上がると書院から出て行った。「誰かおらぬか」という声が廊下より書院へと伝わってくる。
横目にちらりと映る兄者はわずかに小首を傾げて思案顔である。だが、やがて頭の隅からも追いやったようで、幸隆殿の言をそれほど気にしていない様子であった。
「ふう、どうなることかと。この兄は気が気ではなかったぞ!」
「兄者よ、それがしまだまだ精進が足らぬようで。今後もよろしくお願いいたします!」
「任せろ。ただ二人きりの兄弟ではないか!」
「あ、兄者!」
頬を二発張られた後でのお茶。それは源四郎の心身へとても沁みいるものであった。