第十九話 源四郎、花嫁を迎える 後編
急いでもうけられた座へどかりと腰を降ろしたお舘様が寿福尼様へ、というよりもこの祝言の場に集っている皆へ語りかけている。
「わしもいささか興味があってな。他の者ならばいざ知らす、伯母上(武田信縄の娘寿福尼のこと。信縄の孫である武田晴信からみれば伯母にあたる)の孫ゆえ、強くも言い出せず。亡くなった虎泰(佐奈と甘利信康の父)に頼んでも頑として首を縦に振らず。何度言っても素顔を頭巾に隠したままであった」
「晴信殿よ……」
寿福尼様が何かを言いたそうに口を開いては閉じるを繰り返していた。
「伯母上、お待ちを。備中(横田備中守高松)は裏表のない気持ちの良い男。ゆえ、ついつい思うたことを口にしたまでのこと。なあ、そうであろう」
「は、はあ。さようで、まことに以ってその通りというより他はなく。失言、済みませぬ」
頭をかきかきしながら、寿福尼様へ、次いで我が妻の方に向けて深々と身体を傾けられていく。
「そういうことではないというに……」
どういうことであろうか。源四郎は困ったかのような表情を浮かべている寿福尼様の言葉の意味を図りかねていた。すると「ええい、もはや仕方もない」とつぶやかれた後に、ぱんぱんぱん、と三度ほど手を打たれていた。
その拍手に応じるようにして、何やら騒がしき気配が伝わってくる。物音のする方へ、庭の方へと目を向けてみれば、紅白の幕がするりするりと上がっていく途中であった。
「あれは!」とか「まさか!」という叫び声がそこら中より発せられている。そこへ、かんかんかん、かんかんかん、と拍子木が鳴り響く。
広間中のそこかしこで起こっていたざわめきは一転し、しんと静まり返る。
舞台の上では狼の面を被った芝居が始まっていた。「見たことがあるぞ」「あれは。狼娘であろう」という小さなささやき声の連なりが源四郎の耳へも届けられる。
なるほどこれが古府中で流行っている芝居か、と興味を抱きつつも複雑な心持ちにならざるを得ない。何しろ、第二幕の終いにはおのれは死んでしまうらしいのだから。
ところが、であった。演目の内容が大いに変わっていた。実は夫も狼が化けていたそうで、夫婦となった二人は末永く暮らしてめでたしめでたしな大団円(全てがめでたく収まる結末)で幕を閉じていく。
これならば、文句はない。なんだ、やれば出来るではないか。
最初からこういう筋書きであれば、いらぬ気苦労をしなくても済んだ。源四郎を元にしたと思われる夫狼は死なないし、女房狼も狼の中では見目麗しいという設定へと変じていた。多少無理やりという気がしないでもないが。
「それにしても」
舞台がはけた後、そう声を発したお舘様が我が女房殿をしげしげと、興味深そうな光を帯びた目で眺められていた。
「これほどの器量とは、まことに驚いた。まさに今の芝居のようではないか。いわば、長年かけて壮大な一つの演目を見せられていたようなものか。のう、信康」
「ハッ。嫁ぐ相手は自らで決めたいと。そう昔から言い張っていまして。いささか強情な姉でございます」
「そういうことであったのか。それで狼娘、いや頭巾の姫と化けていたわけなのだな。挙句の果てが熊喰らい信忠という二つ名を古府中中に馳せた、と。いやはや面白し!」
お舘様がご機嫌な様子で杯から酒をぐいっとあおっている。なるほどのう、という大勢のざわめきも伝わる。
さなか、寿福尼様の不機嫌そうな声が響く。
「晴信殿よ。いや、あえてこう言いましょう。これ晴信、伯母の趣向を台無しにしおってからに!」
活気に満ちていた喧噪が瞬時に収まる。お舘様が小首をかしげていた。
「はて、伯母上よ。意味が分かりかねまする」
「せっかくに頼んでいた狂言回し(物事の進行役)が。横田殿がただの痴れ者(ばか者)になってしもうたではないか。済まぬな、横田殿」
「いえいえ、寿福尼様より仰せつかったせっかくの大役なれど。演じきるには、拙者、少々未熟な役者に過ぎたようでございます。あれだけで出番を失い、実は心よりほっとしております」
「なんと! つまりはこの祝言の場において、もう一芝居組んであったと。それをわしがさえぎってしまっていたのか」
そう叫んだきり、お舘様はすっくと立ち上がっている。どうやら、明らかにお舘様の先走りが招いた勇み足のようであった。
どうなってしまうことかと源四郎はやきもきしている。と同時に、ことをどう収束なされるのか。いわば、お舘様のご器量の見せ場でもある。期待せざるを得ないというもの。
そこへ「あ、すぅみませぇぇぬぅ」とひどく調子外れな声が響く。
なるほど。感心してしまう。こう成されるのか。狂言役を自ら身振り手振りをまじえて演じられるとは。さすがは、我らのお舘様! というべきであろう。
そこから先は大いに盛り上がっていった。誰が持ち出したのか、ぶおおとほら貝が鳴り響く。
歓声を浴びながら広間の真ん中では即興の詩を詠んで舞い始めている兄者の姿が見える。扇を右手に、左手には杯を持ちながら兄者の相方のように馬場様も舞われていた。
やんやの喝采の後、どんどこと太鼓が轟き渡る。相撲を始めているのはご家老の横田様と近習の内藤殿。一組でお終いではないようで、次から次へと取り組みが行われていた。
もっとも途中より誰が勝ち、そして負けたかなど、源四郎はほとんど覚えてなどいない。
なにしろ次から次へと酒を飲む、いや喉へ流しこむ羽目となっていた。杯が乾く間もないほどである。
いつの間にか、相撲の勝者と敗者が揃って金屏風の前に座る二人へ祝いの口上を述べてくださる、という流れになっていた。杯を酌み交わしお礼の言葉を述べ終える前に、どおんどおんとその都度誰かが畳の上に転がっているありさまが視界の端へ映りこむ。
列が途絶えるどころか溜まっていくばかりとなっていく。
実に、幸せなひと時を過ごしていた。
なにやら耳元がわさわさとこそばゆく、心地良くもある。はっとする。いつの間にやら寝ていたらしい。
ふと目を開けてみれば、源四郎が長年住み慣れた部屋の中であった。それも布団の上。良い匂いがただよってくる。思わず鼻をひくつかせた先には佐奈姫様が、ではなく佐奈がすぐ側へちょこんと座っていた。手には団扇を持っている。どうやら、酔い覚ましのつもりで扇いでくれていた様子。
「あれ? 皆は?」
「お目覚めでしょうか。随分と酒を過ごされてしまいましたね」
「あ、ああ」
いつの間にか、佐奈は白無垢から着替えている。色艶やかな椿をあしらった着物を身にまとっていた。
視線で察したのであろうか。
「いつまでも白無垢を着て過ごすわけにはいきませんから」
そう小さく消え入るかのようにささやいている。もっとも、源四郎は随分と時間をかけて眺めていた。頬がぽうと、瞬く間に赤く染まっていくのが目に映る。
そうであった。婚儀の披露の席が果てたならば、そういうことであった。つまりは床入り。
とはいえ、心の準備というものがある。少なくとも、源四郎にはまだ出来てはいない。何しろ祝言の席で少しばかりうつらうつらしていただけ、そのつもりであった。それなのに目が覚めてみれば、部屋でぐうぐうと酔いつぶれていたというみっともなさ。
「随分と賑やかな祝言の席であったなあ」
「はい、大勢の皆々様より祝っていただきとても良いひと時でした。けれども、お婆様にはもうしわけないことをしてしまいましたが」
顔色が赤くなったり白くなったりとめまぐるしく変わっていっていた。そのありようを見ているうちに心がいくらか落ち着きを取り戻す。
「ん? ほほう。というとあれはそなたも絡んでいたのか? 道理で横田様の放言に際して顔色一つも変えず」
「はい。当初は放っておいたのですが芝居の内容を事細かく耳にしたので。許せなくなってしまい」
「どういうことだ?」
「分かりませんか?」
「いや、このおのれもな。たかが芝居、そう思ってはいた。だが、何故夫だけが死んでしまうのだ、と。その点だけはどうにかして欲しくはあった」
「そうなのです!」
膝へ、着物越しにあたたかなものが触れている。手のひらが乗せられていた。
「わたくしも、他はともかくその展開には腹が立ってしまい。お婆様と一計を案じ五日ほど前に芝居小屋の主を屋敷に呼び出して」
「そういう裏があったのか。では横田様のお振る舞いも?」
「いえ、ご家老様についてはお婆様と母上が一切の段取りを付けておられました。祝言の座を大いに盛り上げてみせましょう、と。弟信康も一枚噛んでいたようですが、詳細は教えてもらえずで。ですから、もしもお舘様があの場に現れなかった場合については知らな。あ!」
膝がわずかに軽くなっていく。名残惜しさを感じてしまう。照れもあって、源四郎はつい軽口を叩こうと口を開きかける。けれども顔中を熟れた紅花のように真っ赤に染めている様子が目に入る。
ここは気付かぬ振りこそが正解……なのかどうかは自信が持てない。とはいえ、当の本人に聞くなど野暮過ぎる、というものであろう。それくらいは承知している。
「そういえば、集うていただいた皆々様にはお見送りもせずにいささか礼を失してしまったな」
結局、何事もなかった風を装うこととしたのが、あるべき返しがこない。わずかに間が空いている。失敗してしまったか、と思っていると声が再び耳へと達していた。
「え? 覚えていらっしゃらないのですか。身体は揺れ、呂律はあやしくはありましたが、昌景殿はきちりと義兄上様と義姉上様とともに、ご立派に振舞われておいででございました」
おお! と胸中で安堵する。もっとも全く覚えてなどいない。だが我ながら素晴らしき働き!
……今日という日はどうにも記憶が飛びに飛んでいる。いったいどうしたことなのであろうか。酒に何かが、ではないな。きっと気が張りすぎていたせいに違いない。
「明日にでも改めて礼をもうしあげなければな。兄者にも義姉上様にも。ところで」
「はい、なんでしょう」
「昌景殿など、随分な他人行儀。そうは思わないか」
「では、なんとお呼びすれば」
「そうさな。二人きりの時は源四郎とでも呼んでくれれば。それでかまわない」
「は……い。源四郎……様」
「さては、緊張しているな」
「いえ、はい」
とはいえ、源四郎にしても似たようなものである。喉は唾を飲む端から乾いていくばかり。心の臓は、手の温もりが膝から離れた後も一向に落ち着きを取り戻さない。どくんどくんと早鐘を打ち続けて止まない。
「こっちへ」と口にしたものの、声は見事なまでにかすれていた。「はい」と返事はすぐに返ってきたのだが、ぴくりとも動こうとはしていない。うつむいたきりである。
その様子をちらりと目に入れ、困惑を覚えてしまう。畳縁(畳の端)の模様を見るともなしに眺めてみる。当たり前だが、何も事態が改善するわけではない。
考えあぐねていた。次にかけるべき、気の利いた言葉がみつからない。もう一度膝へ触れてはくれないだろうか。何か良き手立てはないものか。
そこへ「源四郎様」と、それまでとは打って変わって強い音の響きが耳へ届く。まるで鎧を身にまとって試合うた後の、「わたしの出来る精一杯で問いました」と気を圧されたあの時のような。
思わず顔を上げる。頬は赤く染まったままであるものの、澄んだ瞳がまっすぐにこちらを見つめてくる。
気が付けば、ずいとふわりと自らの腕が伸びていた。手を掴みかき抱くように至近へ招きよせていく。鼻いっぱいに好ましい香りが拡がる。
「佐奈姫様よ。いや、そうではないな。佐奈よ」
「ようやく、ですね。名を呼んでいただけました」
衣と衣が触れていただけであったのだが、わずかに体重を預けられている。自然と寄り添うように肩を抱いていく。源四郎の腕の中でもぞもぞと、わずかに揺れて震えるかのように動いていた。身体のぬくもりが衣越しに伝わってくる。
「もっと」
「うむ」
更に力を入れて強く抱きしめる。存外に華奢だなあ、と思わずたじろぐ。ところが腕にはまるで自らの意思が伝わらないかのようであった。益々、力をこめて抱き寄せていた。
「苦しくは、ないのか?」
「苦しくなど。ようやっと、八年越しに想いがかなったのです」
わずかに開き、ささやくように息を声として後。閉じた唇。見上げてくる瞳。潤んでいる。
吸い込まれてしまいそうな光。わずかにためらう。いや、それも良い。見つめ返す。吐息が顔を撫でる。すぐに消える。唇。重ねていた。
「佐奈」
「源四郎様」
「照れくさいな」
「わたしも、です」
そう言ったきり目を伏せている。長いまつげがふるりと上下している。顎先へ指を伸ばす。再び向けられる瞳。いっそ、吸い込んでしまおう。いや、吸い込まれてしまおう。どちらにしても同じこと、か。
「もう一度、口吸いを」
「一度だけですか」
「何度でもしようぞ」
ゆっくりと身体を傾けていく。腰に回した腕へ重みが加わる。枕元では、長い髪がまるで花のように開き咲いていた。




