第十九話 源四郎、花嫁を迎える 前編
「今しばらくお待ちくだされ!」「酒が足らぬ。あと十樽、いや二十樽ほど持ってくるように使いを出すのだ!」
飯富家の家人や郎党たちの張り上げる声が屋敷の内のそこら中で響き渡っていた。
しばらくすると「先鋒が見えました!」「もうしばらくで、ご到着!」という一際大きな叫び声が聞こえてくる。
それにしても先鋒はないだろう、せめて先頭であろう。とは思うものの、郎党河野彦助の地声はこういう時には大変に役に立つ。
天文十八年(1549年)の暮れも間近。あと十日もすれば年が改まるという日の昼過ぎ。花嫁を乗せた籠行列は甘利家の門を出た後、古府中の街中をぐるりと練り歩いた末に飯富家の門前へと、何事もなく無事に到着し得たようであった。
源四郎は祝言の祝いの席よりすっくと立ち上がる。屋敷の入り口まで花嫁を迎えに行くという大事な役目をこなさなければならない。
木戸という木戸を取り外しているゆえか、広間には珍しくもからりと晴れ渡る冬空の日差しがさんさんと降り注いでいる。寒さはこれっぽっちも感じない。人々の熱気でむしろ暑いくらいであった。
とうとうと言うべきか、あっという間と言うべきか。源四郎は今日のこの日を迎えている。
婚儀においては花婿など添え物。いやいや、一応は主役であろう。遂におのれも女房持ちかあ。などと感慨にふけっていられる余裕はまるでない。
「いやあ、めでたい」「まことに」「気張りなされよ」などというはやし立てる声を受けながら広間の中央をさっそうと肩をそびやかしながら歩いていく。そのさなか「熊喰らい様のお出ましでござあある」などと、酔い過ぎとしか思えない叫びが背中越しに伝わってくる。
いくらなんでも酷い、とそう胸中で感じ、足を止めた。きびすを返し身体を反転させてみれば、こちらへ注がれている視線の過半はにやにやと笑みを浮かべているかのよう。
先ほどの熊喰らい発言の主である武田家ご家老の原虎胤様にしても、顔には酔いのかけらなどみじんも見受けられない。
なるほどこれは。度量を試されている、と。そういうわけか。
「望むところ! それがし、熊汁は大の好物にて!」
「ほう、言うではないか! さすがは虎昌殿の弟よ!」
ぽん、と膝を叩きつつ原殿がわっはっはと大笑い。ほぼ同時に、どわっという歓声が辺りへ満ち満ちていった。
軽く頭を下げ、再び広間を去るべく歩み始める。
おのれに注がれてくる視線のおよそ半分くらいは何かを期待しているようであった。残りは同情の色を帯びているかのようにも感じられる。考え過ぎだろうか。とはいえ、勝手に源四郎の胸中を察したかのように、うんうんとうなずきを返してくる者も少なくはない。
飯富家屋敷の主殿の広間には実に大勢の武田家家中の人々が集っていた。大入り満員といっても過言ではないほどに。
兄者の古くからの知己でもある馬場信房殿は城代の役を担っている信濃高遠城から馬を飛ばして駆けつけてくだされている。真田家の三兄弟の内では、隆永殿が早くも飲み過ぎて出来上がっている様子。顔が真っ赤となっていた。
飯富家寄騎衆の三枝虎吉殿や相木昌朝殿にはご迷惑をおかけしている。本日は客人として参じてくだされていた。にもかかわらず、郎党や家人たちだけでは人手が足りていないのを見かねてか、酒や膳の差配などを率先して執り行ってくださっている。大変にありがたいことであった。
源四郎の躑躅ヶ崎館における務め先である勘定方からは、上役である跡部勝輔様を頭に小者まで含めればなんと二十四人全員が集ってくれている。
事前に「よろしいのですか」と跡部様に確認したところ、「何を言う。旗奉行として大いに税収を上げてくれたではないか。しかも臨時の報償まで皆が貰っておる。よって、当然のことよ」と。
その他には栗原殿や諸角殿、駒井殿に金丸殿といった兄者と同じく中老の方々。源四郎が個人的に親しくしている内藤殿や小宮山殿といった顔も見ることが出来る。
唯一欠けているのはお舘様の近習春日殿くらいか。同じく近習の内藤殿と二人揃って務めを休むわけにはいかない、とのことであった。道理ではあるが、いささか寂しくもあるものの……当初の心づもりで予定していた方々のお顔はほぼ揃っていた。
ところが、現状はいささか異なっている。
なんと、武田家ご一門の内からもお舘様のご舎弟信繁様に信廉様、信龍様がご参列。更には武田家で六人を数えるご家老全員が祝言に顔を出されていた。
原虎胤様、横田高松様、小畠虎盛様。更には板垣信憲様も信濃諏訪から足を運んでこられている。
お姿の見えない残りのご家老、甘利信康様と小山田信有様は甘利家屋敷から出立した花嫁行列の供をされていた。甘利様は花嫁の実の弟として、小山田様は義理の兄として。
主だった方々だけでもこれほどなのである。奉行格や足軽大将格、中士格、それぞれの従者までを含めれば実に想定外なおびただしい人数となっていた。
いくらか大げさに言うならば、古府中にいる武田家直臣衆の半ばの家から誰かしらが祝いの席へ顔を見せに飯富家屋敷へ集っている。
結果、広間だけではあからさまに収容しきれなくなっていた。ふすま戸を何枚も取り外し部屋という部屋を繋げに繋げ、離れ屋敷とを隔てる木戸も取り外し、常の広間に比べればおよそ五倍ほどの、文字通りの大広間が婚儀の場と化している。
しかしながらそれでも足りず、廊下の一画にまで酒樽や蝶足膳(蝶の羽を広げたような膳。祝い事などに用いる)が並べられていた。
おまけに当初は席次をおよそに定めていたものの、既に有って無いようなもの。たとえば小用(便所の小の方)をすべく席をひとたび立って戻ってみれば誰かしらが座っていたりする。
さすがに武田家ご一門のお三方やご家老の席へ勝手に腰を降ろす者こそいない。けれども、中老以下の席では身分の差などもはや気にするなと言わんばかり。まるで芋のごった煮のようで、席次はばらけたまま乾杯の音頭がそこかしこで響いていた。
このおのれが大人気者……というわけではない。そこまでうぬぼれてなどいない。兄者の威徳、というわけでもない。そう思う。
皆、一刻でも早くその目で確かめたいのであろう。謎に包まれていた、とまで言えばいささか大げさ。けれどもそれに近いものがある。
躑躅ヶ崎館の内において、お舘様の前ですら頭巾を外したことのない甘利家の二の姫。熊喰らい信忠様こと、佐奈姫様の素顔を。
源四郎の耳へは器量に関して様々な噂が、それもろくでもないものばかりが飛びこんでいた。
どう考えても、あてこすっているとしか思えない芝居小屋の演目狼娘の盛況ぶりもそこに一役も二役も買っていたに違いない。甘利家も飯富家も古府中をにぎやかしている噂に関して一切のだんまりを決め込んでいた、というのも理由かもしれない。
怖いもの見たさ、という心持ちなのであろうか。実に失礼な話。だがしかし、であった。廊下を渡りつつ、源四郎はふっふっふとこみ上げてくる笑いを胸中でこらえている。
屋敷の入り口では一足早くに広間から姿を消していた兄者が厳粛な顔付きで待ちかまえていた。目が合うと、首をわずかに傾け無言でうなずいてくる。
うながされるように、源四郎は歩き慣れている石畳の上へ足を運び、やがて立ち止まった。
ところが、である。まるで初めて踏みしめているかのような、それも沼地のようにぐにゃりぐにゃりと揺れるように頼りない感触が足裏より伝わってくる。ふわりふわりと身体が、恐らくは心も浮ついていた。
幸いなことにそれほど待つこともなく、甘利信康様を先頭とした籠行列が源四郎のすぐ側で止まる。
「幾久しくお納めください」
「幾久しくお受けいたします」
この場における役目を果たし、ほう、と一つ安堵の息を漏らしていると、ふう、という音も重なるように耳へ届く。信康様が……いや、本日ただ今よりは源四郎の義弟となる信康殿も緊張していた様子。
両者の口上が終わったことを確認したようで、行列のそこかしこで籠の扉が開かれていた。その中で最も華美に飾り付けられた籠の内より佐奈姫様、ではなく佐奈が姿を現す。
全身にまとっているのはひたすらに一つの色。打掛に掛下(打掛の下の振袖)はもちろんのこと、綿帽子(頭をすっぽりと覆う頭巾)も帯も足袋も草履も。頭の先から足の爪先に至るまで、白く染まっている。
冬の日差しは白無垢によく映えていた。光の加減でところどころが淡く桃色や橙色に見えたりもする。
美しい。おのれは果報者よ。
っと、どうやら見とれて、しかもわずかに呆けていたらしい。「これ、源四郎」と小声で兄者から肩衣の袖を引かれていた。いくらか慌ててうなずき返す。くるりと身体の向きを変え、屋敷の内へと歩を進めていく。
どうやら、本日より源四郎とは相婿(姉妹のそれぞれの夫)となられるお立場の小山田信有様が先導役を務めてくださるらしい。「場を開けられえい」「道を開けられえい」と独特の節を付けた言い回しを、まるで詠うかのように告げておられる。
その声が一つ伝わっていくごとに、最前まで屋敷のそこら中で繰り広げられていた騒ぎの音が途絶えていく。
なんなのだ、この緊張は! このような心持ちになるなど聞いていないぞ!
源四郎は自らの足がかくりこくりと、まるで他人の足でもつけているかのような、そんな心持ちとなっている。見ようによっては、からくり人形のようにぎこちないはずで、袴も肩衣も上下に揺れて弾んでいた。そうと自ら分かっていても止める手立てなどなく。
やがて廊下を三度ほど折れ曲がり、ようやくのことで広間へと至る。思わず、おお、と胸中で安堵と感嘆の混ざった声を漏らす。
先ほどまでは、もはやただの酒宴の場のように化していたはずなのに、皆様方がきちりと左右に織り目正しく座していた。あぐら座りで丸めた両の拳を畳に軽く添え、上体を傾けている。
しん、と静まり返る中を歩く自らを含めた少数の者たちの衣擦れの音だけが響きわたる。
だがしかし、咳払いの一つすら聞こえなくなるとは……。逆に緊張感が増していく。
ふと気が付けば、源四郎は金屏風の前に座って口上を受けていた。ちょうど甘利家の信康殿が身体の向きを変えられている。つまりは、兄者の話も義弟殿の言葉も一言一句たりとも聞いてなどいなかった。そういうことになる。
はっとした。このままぼうとしていたのならば、実に危ういところであった。
「佐奈でございます。ふつつか者ではございますが、これより先のこと、よろしくお願いいたします」
震えを帯びているその声が耳からではなく、頭の中へ直に響いてくるようである。心の臓がどくんどくんと早鐘を鳴らしていく。
「源四郎昌景です。不調法者ですが、こらから先のこと、よろしくお頼みいたす」
お互いに頭を下げ、上げる。目と目が合う。にこりと微笑んでいる。源四郎も笑みを返す。とその時であった。
「いようおっ!」と兄者が叫んでいる。いや、吼えていた。その音頭に続いて、ぱあん、と拍手が一つ響き渡る。広間にいる皆様方が事前に練習でもしていたかのように、それはそれは見事な呼吸で揃っていた。
その後は、花嫁が到着する前までの単なる酒宴へとあっという間に戻りつつある。あちらこちらで乾杯の声が発せられ、実ににぎやか。
そして新たに夫婦になったばかりな二人には驚愕の視線が、いや正確に述べるならば源四郎の隣に座る花嫁へのみ、注がれている。
その白無垢の女人は誰だ?
一言で表すのであればこうであろうか。皆が皆、面食らっている様子。驚いていないのは甘利家のお身内と飯富家では兄者と義姉上、それに源四郎。それくらいではないだろうか。
むおん、とでも、ごおう、とでも言うのだろうか。熱気が押し寄せてくる。
「大変失礼ながら、その花嫁様はどなた様で?」
ご家老横田高松様がまるで一同を代表するかのように声を発していた。
まことに失礼というより他はない。
だがしかし、そうまで直截に問われてしまうとは。と思わず苦笑いを浮かべてしまう。もっとも、ここは夫として一言あってしかるべき時であろう。佐奈へ目を向けてみれば気を損ねている気配は感じられない。とはいうものの、このままではおのれの沽券(真価や見識)が問われよう。息を吸い込む。吐き出すとともに声を。
ところが、であった。
「高松、ようも言えたものよ! 小僧っ子が随分とえろうなったものよな!」
寿福尼様がぐいと一睨みしながら、鋭い叱咤を浴びせていた。さすがは武田家の総領娘様、といったところなのであろうか。
ご家老といえども、形無しというより他はない。
「婿殿、そなたは黙ったきりか!」
いやいやいや、口を開こうとした矢先に機先を制せられてしまったまで。にもかかわらず、こちらへお鉢が回ってきている。
「我が女房が申すには。熊狩りにはもう飽いだそうです。そこで、それがしを狩ってみたらしく!」
あれ? 外してしまったのか? 笑いが返ってこない。しん、としている。これはまずい、と狼狽しかけてしまう。
と、その時である。
「伯母上、それくらいになされませ」
やや甲高い声とともにお舘様が近習春日虎綱殿を供として広間の端に姿を見せられていた。
なるほど、これは! 源四郎の言に笑いなど返ってくるはずもなし。どころか、おのれの諧謔(しゃれとかユーモア)など、ほとんどの方々の耳へ届いてすらいないのであろう。
お舘様のやや後方に控えている春日殿と目が合う。にやりと笑っている。なるほど、こういう趣向であったのか。道理で、実にあっさりと祝言への出席を断られていた。冷たいものよ、と思ったのはこちらの間違いであったか。
「お、お舘様!」
複数の者たちから同時に驚きの声があがっていく。
「騒ぐでない。今日のわしはただの客よ。そもそもこの祝いの席の主人は誰ぞ。花婿と花嫁であろう。と、空いている席……がないな。どれ廊下にでも」
いくらなんでも廊下になど、無茶というもの。兄者の差配で大慌てで席がこしらえられていった。