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第十八話 時を縮める源四郎

 熊喰らいに捕獲されてしまった国一番の哀れな男。


 それが古府中におけるこのところの源四郎の評判であった。

 自らに聞こえてこなければどうということはない。けれども、世の中というのは不思議というより他はなく。この手の噂というのは、めぐりめぐって何故だか事細かに当人の耳へ伝わるようになっている。


 芝居小屋では、狼娘という演目が急遽上演されていた。流行はやりに流行って連日大賑(おおにぎ)わいで満員札止め。

 なんでも、素手で熊を殴り倒すことを稼業兼趣味にしている娘が主人公とのこと。顔も身体中も傷だらけで、更には本々があまり器量良しとは言えないらしい。

 その娘が獲物である熊の毛皮を卸しに出かけた街中で、ふとした拍子に見かけた男に一目ぼれ。後をつけて住んでいる家を突き止め、あげくの果ては押しかけ女房となる。

 一応はめでたしめでたし。ところが、ここまでは第一幕でしかない。


 第二幕では、夫となった男がとある満月の晩に娘の本当の正体を見てしまう。

 なんと、狼の雌が人間の娘に化けていたそうだ。びっくり仰天した男は家を飛び出し方々を駆けめぐる。その道中では天狗とともに空を飛んでみたり、湖の中で河童と暮らしてみたりなど。もののけと暮らしているうちに知らず知らずに精気を吸い取っており、身に蓄えていたという経緯(いきさつ)

 けれども、新月の、しかも空一面が雲で覆われている闇夜の中で山肌から足を滑らせた末に首の骨を折って死んでしまう。月や星の光を浴びていないとただの人間に戻ってしまうとのこと。悔しいがなかなかに凝っている、と言わざるを得ない。何せ、暗に飯富家の家紋である三日月に一つ丸星を比喩してもいるらしいのだ。


 第三幕では、変わり果てた姿の夫を見つけた狼娘が世の無常をはかなむ。その悲しみのこもった世にも恐ろしい響きの咆哮は何日も何十日も続き、近隣の山々へこだましていく。

 そこへ旅の僧侶が通りかかり、墓を建てて供養してやることを薦める。狼娘はその教えに従い雨の日も風の日も墓の前で暮らす。するとおよそ半年後に夫が夢の中に現れ、目が覚めると夫の生まれ変わりである子供を産んでいたそうだ。


 良かった良かった。めでたしめでたし。という内容らしい。

 郎党の河野彦助たちが、尋ねもしないのにわざわざ事細かに知らせてくれていた。源四郎には何がめでたいのかはさっぱり分からないし、分かりたくもない。

 結局のところ、おのれは死んでいるではないか! 夫も生かすのだ! そう芝居小屋へ怒鳴りこみたくなるというもの。

 けれども事情により、それは認められてはいなかった。


 勘定方として出仕している躑躅ヶ崎館においても似たようなものといえる。廊下を渡っているとふすま戸の向こうから何やら声が聞こえてきたりするのだ。耳を澄ますわけではないのだが嫌でも伝わってくる。

 何しろ舘の内に務める男の過半は、地声が大きくなくては戦場では話にならない武人が占めていた。

「知っておるか。熊喰らい信忠殿が熊に飽きたか遂に男を捕まえたそうじゃ!」

「何だと! というとあの頭巾の姫君か」

「さよう、さよう。ほれ、芝居小屋でも流行っているであろう」

「あれは面白かった。女房殿に私も見たいとねだられておる」

「狼娘の元となった姫様じゃからのう」

「ほほう、そうではないかと薄々は感じていたのだが。して、その貧乏くじを引かされたのは?」

「飯富様の弟よ。昌景殿よ」

「なるほどなあ。まさに、禍福(かふく)(あざな)える縄の如し(幸と不幸は表裏一体。交互にやって来るもの、という意味)であるな」

「まことに。楠木昌景だとか美の決裁者だとか、持ち上げられるのも考えものということなのであろうよ。その先に待ち受けていたのが熊喰らいの夫という運命(さだめ)になるのだからな」

「おお、恐ろしや。くわばらくわばら」


 源四郎としては戸をがらりと開け放ち色々と言いたい。「ふっふっふ、実は」と明かしたかった。しかしながら、自重している。


 同僚の多田満頼(ただみつより)殿や、お舘様の近習(大名の側近くに仕える侍。元服していない者は小姓と呼ばれる)春日虎綱(かすがとらつな)殿や内藤昌豊(ないとうまさとよ)殿、他にも多くの者たちから肩をぽんぽんと叩かれたりしながら「胸中、お察しいたしますぞ」などとつぶやかれ、哀れみのこもった視線を投げかけられる日々。

 上役の勘定奉行跡部勝輔(あとべかつすけ)様にいたっては「めでたい……のであろうな。なんといってもあの甘利家の姫様であるし。長年連れ添えば恐らく。いや、きっと! 必ず情も湧こう。あばたもえくぼ、と言うしなあ」とまで口にされ、あからさまに同情されてしまうありさま。


 そうではありません、と反論したい。だがしかし、それは固く禁じられている。甘利家に、というよりも佐奈姫様に。


 屋敷へうかがったある日のこと。既に甘利家の方々も古府中の街を駆けめぐっている噂を耳にしていた様子であった。

 源四郎からみれば近い将来に義弟となる信康様は苦笑いを浮かべ、義母上とお呼びすることになる善春尼(ぜんしゅんに)様や義祖母となられる寿福尼(じゅふくに)様は烈火のごとく怒っていた。

 信康様を責め立て、武田家の家老の名で以って禁令を出しなさい、などと無茶を口にしてみたり。かと思えば狼娘の演目をかかげている芝居小屋へ、今にも甘利家の郎党を率いて乗り込まんばかりの勢い。

 ところが、当の本人が全く気にもしていなかった。


「言わせておけば良いのです。いちいち目くじらを立てるのも阿呆らしいというもの。皆、きっと暇なのでありましょう。古府中が盛り上がり、賑やかとなるのであれば良きことではありませんか」


 見事な応えである。なるほど、そういう考えもあったとは、と感心してしまう。

 佐奈姫様のご気性は実に明るく、そしてさっぱりとされていた。初めて会った――いや、二度目ではあったのだが――折に感じた印象を裏切ることがない。

 嫌いではない。どころか、むしろ源四郎の好み。

 家と家とを結びつけるのが婚儀とはいえ、八年越しに慕われていたと知ったばかりな女人をこちらも素直に愛おしく思えるのならば、それにこしたことはない。


「なるほど、それもそうか。皆、孫娘の器量を知らぬ愚か者ども。婚儀の日が待ち遠しい。のう、豪胆殿」

 ひとたびは禁句にさせていた豪胆という二つ名は、自然と復活していた。なにしろ寿福尼様が飯富家へ何度かお越しになった折に源四郎のことを豪胆としか呼んでくれないのだ。

 よって、むしろ以前より大手を振っている状態。飯富家郎党の内で、再びおおっぴらに蔓延(はびこ)っている。

 源四郎は既に諦めの胸中になりつつあった。否、寿福尼様が相手ではそうならざるを得ない。とにかく婚儀が済んで一段落するまでは黙って耐えるしかない。


「佐奈姫様がそうおっしゃられるのでしたら」

「まあ、そのような他人行儀な呼び方など。寂しゅうございます」

「これ、お佐奈。無理を口にするのはお止めなさい。昌景殿にもお立場というものがあります。きちりとけじめをつけていらっしゃるのですよ」

「母上。ですけれども」

「けじめは大事。佐奈、聞き分けなさい。されど、婚儀をとどこおりなく済ませた後は。きっと変わりましょう」

「お(ばば)様、それもそうですわね」

 そう言ってにこりと微笑みかけてくる佐奈姫様の目は優しく暖かな光を帯びている。心がほだされていく。けれども寿福尼様の、射るような目が怖い。

「当然のこと」

 短くそう応える。




 源四郎としては、何かとせわしない十二月の、それも後半に慌しく婚儀をあげずとも良いのではないか、と当初は考えていた。年明けの諸々の祝い事を済ませて後の、二月や三月あたりでも一向にかまわない、と。

 だがしかし、甘利家の強い意向に押し切られる形となっている。寿福尼様と佐奈姫様が初めて飯富家を(おとな)った日より数えても、わずかにひと月も経たぬ内に妻を娶る日取りが定まっていた。


 武田家がどこかに攻められそうであるとか、近々出兵するとか、そういう事情ではない。

 何でも年が明けてしまえば、早々に佐奈姫様が二十二歳となってしまうから。それがほぼ全ての理由とのこと。

 もしもで、あった。十九と二十ならば十代と二十代。それならば気持ちも大いに変わるのかもしれない。実際、源四郎も二十歳となった折に、背丈の伸びについては諦める決心をつけたりしていた。

 だがしかし、二十一と二十二にどのような差が?

 その疑問を夕餉の席において何気なく口にしてみたところ、兄者も同様の心持ちであったらしい。

「俺もよう分からぬが必ず年内に、とな。日取りを決める席において信康殿に尋ねてみてもさっぱり要領を得ない。とにかく佐奈殿の母上善春尼殿と祖母寿福尼様が二人揃って絶対にこれだけは譲れない、と口にしているらしくてな。あまりに甘利のご家老様を困らせてもどうかと思うて。飯富家としてはかまいませぬ、と返事をし、婚儀の日が決まった次第」

「兄者! あまりに甘利とは。なかなかに面白き!」

「おお、源四郎もそう思うたか! こういうのもあるぞ。お武家の飯富家に甘利家の余りひ」

 その時である。ぱしん、と荒々しく激しい物音が室内に轟いていく。「めさまが」という声は急速に小さくなり最後はささやきのように消えて失せている。


 義姉上(あねうえ)が、めったに怒った顔を見せた覚えのないお人が、箸をぱたりと膳に置かれた末に発した音であった。いや、強く叩きつけられていた。

次郎三郎(じろさぶろう)。これから母は、あなたの父様と叔父様に大事な話をしなくてはなりません。部屋へ戻っていなさい」

 四歳に過ぎない我が甥子はきょとんとしている。が、有無を言わせぬただならぬ気迫に接し、幼いながらも察するところがあったのであろう。「かしこまりました」と応え足早に、まるで逃げるようにそそくさと席を立ち、去っていく。


 その後、兄者はその場で正座をさせられ、かなり長い時をかけてお叱りを受ける羽目となってしまっていた。最終的には、婚儀の日までの一切の禁酒をきつく言い渡されている。


 我が女房を、いや正確に述べるのならばまだ甘利家の姫様を指して、酒が入り、つい口が滑ったからにしても、余りなどと言うからだ。当然の罰を受けたまでのこと。とはいえ、見事な韻を踏んではいる、と思わず感心してはいたところ……。


 気がつけば、源四郎にも義姉上の矛先がまわってきていた。

 女人(にょにん)にとって年齢がいかに大事なものかを、とくとくと諭される。

 なんでも二十一歳と二十二歳で嫁となるのでは、富士のお山の一合目と山頂ほどの差がある、とのこと。

 しかしながら。そのたとえならば、せいぜいが五合目と六合目ほどの差なのでは? と疑問を感じていた。つまり、(はた)から見れば大した差などない。

 源四郎とて、女人の婚儀における適齢というものは承知している。それに当てはめても、せめて二十と二十一ならばまだしも。二十一と二十二に差などあろうか、と。

 どうにも腑に落ちない。

 すると、どうやら顔付きで胸中を察せられてしまっていたらしい。義姉上の眉毛がぴくりと跳ねていく。


「今、決めました! 源四郎さんは一月の五日生まれとします!」

「お、お前。何を」

「あなた。何を、ではありません! このままでは佐奈姫様と源四郎さんの年が時期によっては二つも離れてしまうのですよ!」

 それはそうだろう。佐奈姫様は聞くところによれば一月の十一日の生まれとのこと。そして、源四郎は二月の五日に生まれている。


「義姉上。意図がよく分かりません。そもそも、生まれ月をひと月ばかり前に早めたとて何があるのでしょうか?」

「なんと情けない! これから妻を娶ろうという身でありながら、その言い草はなんなのですか。あなたからも、ほら!」


 え? という表情を兄者は顔にべったりと貼り付けていた。目で、どういう意味かお前分かるか、と問われる。だがしかし、源四郎にもさっぱりな話の展開なのである。すがるような視線を向けられてもどうしようもない。

 やがて助け舟を諦めた様子で、杯に手を伸ばしていた。あげくにぴしゃりと叩かれている。「むう」とうめきながら、おもむろに顎に手をやって指先で口ひげをいじっていた。「うむ。そうか。なるほど」などとつぶやいている。


「この俺の口から語るのは……いかがなもの、であろうな」

 何をもっともらしい口調で全く内容のないことを。

 逃げたな、兄者。とそう思わざるを得ない。

 ところが、であった。

「まあ、あなた! さすがです。確かにそうですわね。それでは私の口から」

 何が、さすがなのか。何が、そうなのか。意味不明というより他はない。この呼吸が夫婦というものなのであろうか? 「奥(奥方の略)に任せよう」という兄者の声は実に白々しく、嘘くさい。


「よろしいですか、源四郎さん」

「はい」

「このままでは。わずかにひと月に満たない間とはいえ、二つ年上の女房ということになります。分かりますね」

 まあ、そういうことにはなる。当たり前のこと。別段、気にもしていない。

「はい」

「けれども、です。源四郎さんの生まれ月をひと月ほど前にずらせば、どうなりましょう」

「先ほどの義姉上の話とは真逆に。六日ばかりの日々とはいえ、同い年ということになります」

「その通りですよ。大事なことです。良いですか、このこと佐奈姫様に決して知られてはなりませんよ!」

「はあ」

「はあ?」

 今宵の義姉上の様子はいつもとは全く異なっていた。主に迫力という点において。


「あ、いえ。承知しました」

「良きお返事。あなたは?」

「あ、ああ。分かった」

「それだけ、ですか?」

「本日ただ今より源四郎の生まれ日は一月の五日とする。これは飯富家の当主としての決定である!」


「ご立派ですよ、あなた」

 にこりと兄者へ微笑んでいる。つい最前までとは打って変わっていつも通りの、まるで小春日(こはるび)に差しこむ日差しのような温和な声色であった。


 そこまでこだわるのであれば、時を縮めるのは仕方もないか。と源四郎は納得する。

 とはいうものの、どうでも良いというべきか、些細なことというべきか。実に微々たる小さな問題に過ぎないし、という心持ちであった。


 そもそも、年が改まれば一つ年を加える。それが飯富家における風習であって、二月に祝ってもらった記憶など母上がまだ生きておられた頃も含めて、頭の中のどこを探したとて、無い。

 三十五歳の兄者は六月生まれで、四歳の甥子次郎三郎にしても八月生まれなのだが、源四郎と同様に年明けとともに一つ年を増やしている。それが当たり前の感覚。


 そういえば……義姉上は頑なに飯富家のならわしに従うことを拒否していた。私は十月にならなければ絶対に年を重ねません、と。

 女心というものは、まことに摩訶不思議、難しきもの。そう思わざるを得ない。



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