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第十七話 遠き日の約束

「やああ!」

 ほほう、腰の入った鋭い突き。手数も多いし、足さばきもなかなかのもの。

 などと余裕をかましている場合ではない。

 五本勝負の四本目。星一つ優ってはいる。だがしかし、逆に言えば一敗していた。……女人相手に。

 わずかにでも油断すれば、再び突きをくらってしまう。この間合いは不利。そう察し、素早く二歩ほど後ろへ下がる。


 そもそも、熊喰らい信忠様……ではなく佐奈様の問いたいこととはいったい何であるのか。源四郎には全く以って分からないままである。

 口がついているのだから、尋ねればそれで済むことなのではないだろうか。何が哀しくてわざわざ鎧兜を身に着け庭先で女人とたんぽ槍(綿を丸めて布で覆った先端を備えた稽古用の槍)を得物として試合(しお)うているのか。いくら甘利家の姫様であろうと身勝手が過ぎようというもの。

 それにである。他家を訪問する、しかも婚儀をどうこうという話を持ちこんできている方が、更には女人の側が自らの具足をあらかじめ用意しているなどと。これはいかがなものなのであろうか。

 様々な思いが頭の中をよぎり、源四郎は段々と腹が立ってきている。


 素早く右足を半歩ほど退く。正対していた身体をやや傾けながら、女武者の視界から槍をつかの間、心の臓がどくんと跳ねる時間だけ隠しきる。持ち手の位置を拳一つ分ほど上にずらすやいなや。

 左の足をとんと蹴り上げて駆ける。五歩ほど。地を這うように腰を落として身体をかがめつつ、勢いのまま槍を下から上へ繰り出す。

 その突きはもう見切っています、と言わんばかりに一歩後ろへ飛んでいた。それはそうだろう、今までに二度ほど見せているのだから。


 もっともそれは計算の内。にやりと胸中でほくそ笑み、右手の圧をわずかに緩める。拳一つ分ほど槍が伸びていく。わずかにだが焦りの気配が伝わってくる。こんなもの、たとえ刃が付いているまことの槍であっても、当たったとて大したことはない。単なる目くらましの類。

 だがしかし、初見ならば一瞬戸惑う。それだけで充分。右手をひねりあげ、石突き(槍の、刃とは逆側の先端)で地をうがつ。土煙は一方へのみ、当然ながら源四郎とは反対側へのみ舞い上がっていく。持ち上がった槍を逆手のまま横に薙ぎ払う。その瞬間、「あ」と思わず悲鳴のような叫びを……源四郎はあげた。

 肩を覆う袖盾を打つつもりだったのだが、足を滑らせて身体が傾いている様子を目がとらえている。沈んだ分だけ、位置がずれてしまう。

 これはまずい! そう悟り、咄嗟に腕を引っこめたもののそこはちょうど面頬(顔の下半分を覆う防具)の顎先であった。かあんと派手な響き音を残して面頬が宙へ飛んでいく。

「それまで!」という兄者の声は、源四郎が槍を手放し崩れ落ちる女武者を抱え上げたのとほぼ同時であった。




「不覚にも油断してしまい黒星を一つ」

「そうよのう。修練が足りぬわい、と頬の一つも張ってやりたいところではあるのだが。一手一手の突きは速いし、しかも重い。それが見ていても容易に知れた。さすがは熊喰らいと言うべきか。文字通りの男勝りというより他はない。一敗するのも仕方のなきことよ」

 試合う前に、甘利家の二人を迎え入れていた飯富家屋敷の書院には今は兄者とおのれの二人しかいない。義姉上には、気を失われた熊喰らい信忠様こと佐奈姫様を客殿に見舞ってもらっている。


「率直に言ってあれほど槍を使えるとは。いささか、いやかなり意外でした」

「だからと言って、だ。お前は加減というものを知らぬのか。女人相手にあの技を繰り出すなど大人気ないというものであろう。あれを初見で見切れる者などそうはおるまい。この兄ですら初めて見た時には遅れを取ってしまったほどなのだぞ」


 上田原の戦の折に血糊(ちのり)と汗で手が滑ってしまったという偶然から、おのれの背丈の低さを活かせる槍の奇手を源四郎は編み出していた。


「済みません。つい腹立ちのあまり。それに」

「それに?」

「さすがは熊喰らい信忠様というべきなのでしょうか。まともに試合うていても三本ほど先に勝てはしたでしょうが。打ち所を加減する隙がなかなか、この源四郎には見えませんでした。ゆえ、思わず龍昇(りゅうしょう)突きを」

「……源四郎よ。前々から思うていたのだが、その命名はちと恥ずかしうはないのか?」

「いやいや、兄者。良き技には名を付けるべきです。地を這う龍が天へ舞い上がるがごとく、すなわち龍昇突き。これ以上に適した名などありましょうか」

「いや、まあ。お前がそう考えているのならば、俺はその件に関して何も言うことはない」

「ふっ。なるほど」

「なんだ?」

「いえ、大したことではありません」

 

 兄者は羨ましいのかもしれない。ふと、そう感じていた。いや、きっと! そうに違いない。

 精進が足らないのではありませんか、兄者。などと口に出せるわけもない。

 けれども、こればかりは仕方もなきこと!

 ……もっとも、兄者の体格だと(かが)んでも無理な技ではある。何せ、小さき者が用いてのみ通用する。その辺りは、実際に兄者にやってもらって確かめていた。


 ごくごくたまには、背が低くて良かった、と思えるようなことがなければ。おのれの生涯は切な過ぎる。


「肩を狙った意図は良し。だが、顔を打ってしまっては、な。結果的には悪しとしか言いようがない。肝がぶるりと冷えたわい」

「たんぽ槍の稽古試合に面頬まで付けおって、大げさに過ぎよう。と思っていましたが、今となってみれば本当に幸いでございました」

「実際の戦と同じ装束で。という主張を認めておいて本当に良かった」

「まことに、兄者のご英断には感謝のしようもありません。いくら綿を丸めた石突きであっても素の顎に当たっていれば傷が残る羽目になったかも。この源四郎も、文字通り魂消(たまげ)ました」


 ふう、と。どちらからともなくため息が漏れている。

「それにしても……」

「兄者、何でしょうか」

「いや、随分と可愛らしい姫であったな」

「ああ、それは確かに」


 面頬を弾き飛ばしてしまった末に現れた熊喰らい信忠様の素顔は、器量良しというより他はなかった。しかも加えて、武田家家臣衆筆頭甘利家の姫様なのだ。

 武者まがいの奇行を好んでいようとも。智者でなおかつ力に優れ、胆太く、更には姫様が好みの者。などという馬鹿馬鹿しい条件が付けられていようとも。

 あれほどの器量がもしも知れ渡っていたのならば、是非とも娶りたいと名乗りを上げる者は両手の数では足りぬほど現れていたであろうに。

 何故、普段から頭巾を被っているのか。源四郎にはさっぱり意図が分からない。


「で、どうするのだ? いや、どうしたい?」

「兄者、それがしを見くびってはくださいますな。甘利家から嫁を迎えてしまうと板垣のお家との関係がまずうなるのでございましょう」

「むう、それはその通り。だが、板垣信憲殿からは二の姫千代殿との婚儀についてはけんもほろろに、全く取り合ってもらえなかった。我が女房(飯富虎昌の妻結衣)が、板垣家の総領娘として直で話をつけに行っても断られたのだ。その線は既に諦めている。となれば」

「よろしいのですか」

「いや、実際のところ。よろしいもよろしくないも、な」

「どういう意味で?」

「源四郎に届いていた婚儀話。甘利家へもそうだが検討していた他の家々にも。大変ありがたき申し出なれど……と、既に断りの書をたずさえさせた使者を送っておる」

「ああ、それは」


 そうであった。義姉上が板垣家から千代殿を、と言い出した時点で他の話は……なくなっていた。たとえば、呉服屋などでこの色も良いがこちらも欲しい。などと複数を求めるのとはわけが違う。並行して婚儀話を進めるなど、けしからぬ家よと後ろ指を指されるに決まっているというもの。

 ところが、実は板垣家からの申し込みは遠縁の娘を養女にして後、という申し込みに過ぎなかったのである。兄者にしても源四郎にしても、義姉上にその辺りを確認することを怠っていた。


「とはいえ、源四郎が大人気なく打ち負かしてしまったからなあ。この話、流れるのではないか?」

「兄者、勝負は勝負です」

「そういうことを言っているのではない。勝ち方、というものがある。熊喰らいと言われていようと信忠という男名乗りを持っていようとも、相手は女人なのだぞ。そこら辺をもう少し踏まえるべきであったな」

「それを言われてしまうと。おのれの不甲斐なさをただ恥じいるのみ。勝ち方に配慮する余裕などありませんでしたゆえに」

「亡くなられた甘利虎泰様もご苦労されていたのであろ」

 廊下を滑るように、とたとたと足早な音が近づいて来る。やがて障子戸越しに家人の声が届く。


寿福尼(じゅふくに)様ならびに熊喰ら。失礼をば、お許しを」「よい、何も聞いてはおらぬぞ」「甘利家の寿福尼様とご息女様が、もう間もなくこちらへお見えになられます」

 兄者が家人の不調法をとがめられるはずもなし。それはそうだろう。むしろ、兄者とは異なり途中できちんと止めた分だけ立派であった。ぷうっと吹き出してしまいそうになる。

「我が奥はどうした?」「ハッ。奥方様もご一緒であられます」

 何か言いたそうな顔付きの兄者が立ち上がり、源四郎の横へどかりと座りなおしていた。

「寿福尼様をお迎えするにあたり上座へ座ったままなど失礼であろう」

「それがしはもともと下座に腰を降ろしています」

「二度とうっかりなどせぬわい」

「当然のこと」




「さてさて豪胆殿よ。見事な槍さばき、なのであろうな。私は武芸のことはよく知らぬ。だが、能における舞いと同じようなものなのであろう?」

 豪胆という呼び方は止めてくださいませんか。などと寿福尼様相手に言えるはずもない。

「ハッ。どちらも足のさばきが大事という意味においては」

「それで、佐奈の顔を見ていかが思うた?」

 いったい何が、それで、なのかは分からないものの。

 甘利家の姫様はもはや頭巾を被っておらず、素顔を晒していた。顎先がやや赤いものの一日もあれば腫れも失せそうである。女人の顔に傷など付けずに済んだ。そのことに、ほうと胸中で安堵の息を一つ漏らす。

 とはいえ、随分と直截な問いかけであった。本人を目の前にして何と応えれば良いものか。戸惑うより他はない。


「大変にご器量の良い、見目麗しきお方かと」

 無難であり、間違えようもない言葉を源四郎は選んでいた。実際器量良しなのだから言葉を飾っているわけでもない。

 女物の着物を身にまとっている姿を改めて目にする限り、熊喰らい信忠様ではなく佐奈姫様であった。

 ところが。


「ええい、その様なことを聞いているのではない! がっかりというもの! 佐奈、帰りましょう」

 そう声を張り上げるやいなや、早くも寿福尼様が立ち上がっていた。


 あれ? 何か間違ったことを口にしてしまったのであろうか。結局、佐奈姫様が問いただしたいことが何なのかすら不明なままである。

 兄者も義姉上もわけが分からない、呆然、といった表情で寿福尼様を見上げるばかり。

「これ、お佐奈。何をしているのです!」

 祖母であるお方の言葉がまるで聞こえていないかのように、座したままの佐奈姫様がこちらをじっと見つめてくる。ただならぬ様子であった。その気に押されてか、寿福尼様は立ちすくんでいる。


「わたくしが、分からないのでしょうか?」

 わずかに震えを帯びた声を耳にして動揺を覚えてしまう。だがしかし、今日初めて会った女人なのだ。分かるも分からないもない、というものではなかろうか。

「先ほど、わたくしの出来る精一杯で問わせていただきました!」


 だから何を? と尋ねたい。並んで座っている兄者と義姉上の二人からも、知り人だったのか? と言わんばかりな無言の圧がかかる。


「わたしの精一杯で。問うた、と」

 思考の端が漏れていたらしい。声となっていた。

「はい!」

 なんなのだ、打てば響くかのようなその反応は。考えあぐねていると、かこんと荒い音が響く。いつの間にか寿福尼様が部屋の端へ、廊下側へ足を運んでおり障子戸を勢いよく開いていた。

 わずかにそれた視線を再び相対している正面へと戻す。陽の光を寿福尼様がちょうどさえぎっていて、佐奈姫様の顔が半分ほど……。

「あ!」

 思わず声を上げていた。

「お前は! あ、いや。姫様はもしかして」

 ごくりと唾を一つ飲みこむ。もしも勘違いであったならば、冗談では済まされない。ここから先を口にするのは昇仙峡(甲斐の国では有名な名所)から飛び降りる気概が必要。無難に、何でもありません、と口を開こうとしたその刹那。強き意志に満ちあふているかのような瞳と目が合う。

 是非もなし。飛び降りてやろうではないか! 咄嗟に覚悟を定める。


「もしや、今より、そう八年ほど昔に富士川の向こう側。櫛形山(くしがたやま)のふもとで顔も着ている物も泥まみれであった。助けた、の」

「の!?」

 良いのか、本当に。覚悟はつけていたもののわずかにためらう。だが、もはや前に進むより道はなし。

「農民の娘。確か名は……いなえ、ではありませんか」


 言い切ってしまった。事もあろうに甘利家の姫様をつかまえて庶民の娘だ、などと。思わず息を吸い込む。


「そうです! あの時の娘いなえです!」

 肺に入れた空気を吐き出す前に、その弾むような声は耳へと達していた。

 自らが口にしたことながら、え? まことに? と戸惑ってしまう。

 つい最前にちょうど顔の半分が影に隠れて見えたその状況が、昔出会ったことのある娘の面影を強く残していた。まさか、ありえぬという思い。未だに信じられない。


「覚えていらっしゃいますか。あの時に交わした言葉を!?」

 座布団から身体を乗り出すかのように上体を傾けて、佐奈姫様がこちらをじっと見つめてくる。だがしかし、何を昔のおのれが口にしたのか……半分程度しか思い出せない。

「済まない。およそ半ばほどしか覚えていない。こうだったか。猪の正面に立つやつがあるか」

「それから?」

「そのようなへっぴり腰では熊に出会うたら死んでしまうぞ」

「他には?」

 射る様な視線と立ち上っている気迫に()されていく。他に何か言ってい……。

「あ!」

 おぼろげな記憶がよみがえっていた。

 

「熊でも倒せるようになったら……」

「なったら!?」

「……嫁に貰ってやろう」


 そもそもたまたま居合わせただけであったし、猪に襲われそうになっている者を見かけたら手を差し伸べることなど当然のこと。実際、追い払っただけである。

 それなのにお礼をしたいと何度もしつこく言われ、いい加減面倒くさくなって絶対にありえそうもないことを口にしていた。


 あの折は野うさぎが狩れず、おまけに古府中の屋敷に戻り「これこれこういう出来事がありました」と兄者へ語ったところ、ついこの前の家格と背丈の差を双方ともに勘違いしていたあの時の痛みに匹敵するほど、頬をきつく張られていたのであった。

「娘を助けたのは良きこと。立派である。だがしかし、道まで送ってそれで終いとは。情けないにも程がある! 家まで届けぬとは何たる腑抜けた了見。たとえ娘が大丈夫と言い張っていたとしても、そのまま放って一人帰ってくる奴があるか! 武士として、いいやその前に男として恥を知れい!」と。



「だが、いなえは農民の。あれ?」

「お気づきにはなられませんか」

「いや、待て。あ、いや、お待ちくだされ。ああ、なるほど」

 合点が付く。

「佐奈姫様の佐の字を崩して、片仮名読みでイナエ」


「お見事!」

 いつの間にか、部屋の端に座布団もなしで座っている寿福尼様がそう短く叫んでいた。「そのような所へなど」と義姉上が元の上座へ手を取り案内していく。

「よう気付かれた。さすがは私の自慢の孫娘が見初(みそ)めていただけのことはあります!」


 え? ほんの少しばかり前に座布団を蹴り上げるかのようにして席をお立ちになったのは……。


「あの時はおしのびで家中の者たちと櫛形山へ山菜を取りにまいっていたのです。ところが足を滑らせてしまい。気が付けば一人きりで、物音がしてふと見れば猪が。そこへあなた様が現れて」

 事の成り行きにあっけに取られている兄者や義姉上が口をぽかりと開けている。もちろん源四郎も似たようなものであった。

「名乗るほどのことは成しておらぬ。とあなた様はそう言って去られました。あれから何度も何度も櫛形山へ人をやって随分と探したのです。けれども一向にそれらしきお人が見つからず」


「ああ、それは」

 源四郎は苦笑するより他はない。

「あの当時、野うさぎを狩りに行っていたのですが全く獲れずで、その後すぐに他に良き場所を見つけましたゆえ」


「きっと武田家のご家中のどなたかのご子弟に違いない。熊を倒せるまでにはきっと見つかるに違いない。そう思い、鍛錬のかたわらでひたすらに探しておりました。まさか……」


 ほうほう、と相槌を打ちながら源四郎は胸中で過去の自分の振る舞いに酔いしれていた。

「まさか?」

「あの、その」

「なんでしょう?」

「あの当時からほぼ背丈が変わっていないなどとは思いもせずに」

 ぷっと噴き出すかのように笑ったのは誰なのか。すぐに知れる。兄者であった。義姉上に「佐奈姫様にも源四郎さんにも失礼ですよ」とたしなめられている。


「八年越しの念願がかない、この秋の初めにようやく熊を打ち倒すことが出来ました。ですが、探し人は一向に見つからないまま。あのお方は……もしや春の野に見た幻であったのか、と半ば諦めかけていたところ。たまたま祖母に連れられて躑躅ヶ崎館のお舘様を(おと)なった折。内庭を隔てた向こう側の廊下を歩いていられるあなた様をお見かけしたのです!」


「お佐奈、待った甲斐がありましたね! きっと頭巾の願掛けも効をそうしたのでしょう!」

 声をふるふると震わせている寿福尼様の頬には涙の筋がくっきりと走っており、化粧がはがれていた。

「はい、お(ばば)様! 佐奈はようやく!」

 ひしと抱き合っている。武田家の総領娘である寿福尼様と甘利家のご息女佐奈姫様が、他家の一室で人目を気にもせずに。


 兄者は顔を真っ赤にし無言でうんうんと強くうなずいている。義姉上の眼元は潤みきっていて、涙が今にもあふれそうになっていた。


 実に良い話。他人事ならば源四郎もきっとそう思う。だがしかし、当事者なのだ。一言くらい、こちらの意志を確認すべきではないだろうか。

 いやまさか、断るわけにはいかないであろう。それは分かっているし、そもそも源四郎には否も応もない。飯富家の当主である兄者の言に従うまで。

 そして、兄者にしても義姉上にしても今の様子を見る限り、婚儀の話は成ったも同然と言えよう。


 もっとも、満更でもない。あの遠き日の約束からなんと八年である。そうまで慕われていたのなら、男冥利に尽きるというより他はない。


 だがしかし、というものである。

 このおのれに一言あっても良いのではないだろうか。

 まあ、熊を倒せたら嫁に貰おう、と過去に自らが言ってはいる。そういった次第なので、熊喰らい信忠様……ではなく佐奈姫様にしてみれば、今更問うまでもないことなのかもしれない。



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