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第十六話 寿福尼様と熊喰らい信忠様

 屋敷の表口より外に出てみたところ、門を挟むようにして人だかりが出来ていた。押して通ります。いえ、お待ちを。となにやら揉めている様子。

 あまり友好的ではなさそうな声も聞こえてくる。

「ええい、お前たちでは話にならぬわ。どなたか飯富家のお身内の方を連れてまいれ」


「いったいどうしたのだ。何があった」と背後より声をかける。何しろ源四郎は背が低い。人垣の向こう側は見えないのだ。「あ」「お戻りを」「熊喰らいのお方が」という家人や郎党たちのささやきが耳へと入った。

 なるほど、まずい。ここは戻るべき。そう悟り、くるりと身体を反転させ一歩を踏み出す。けれどもその刹那「若様、顔を出してはなりませぬ」という一際大きな、郎党河野彦助の叫びが背中越しに響く。

 ……阿呆かお前は。何が若様だ。ばればれではないか。誰がどう考えたって飯富家の身内人そのものを指しているであろう。

 いや、彦助を責めてはならない……のかもしれない。そのしわがれた胴間声はよく通るし、おまけに地声がいささか大き過ぎるというだけのこと。決して悪気があったわけではないに違いない。さすがは二十年来戦場に身をやつしてきた男。

 責めるならば、今月は飯富郷ではなく古府中在番という役目を彦助へ与えた兄者、なのかもしれない。きっとそうだ。

 だが、こうも考えられる。彦助だからこそ、熊喰らいのご一行を門前で押し留められてもいる、と。

 ううむ、難しい問題よ。


 などと思案していたところ、ふと気がつけばざわついていたはずの喧噪がものの見事に途絶えており、ぴたりと静まっている。これはしまった、と焦りを覚えるも四歩目の足が地へ着く。草履の下でじゃりっと小さく小石が鳴る。やけに響いていた。


「なに、若様とな! いるのではないか!」


 この場より、すうと消え失せるような忍びの技を知っているはずもない。それでも五歩目をそろりと伸ばす。その時であった。


「飯富家の若様といえば、ご当主殿のご舎弟殿のことであろう。つまりは、豪胆昌景殿。よもや、逃げ隠れなどいたすまいな」


 逃げるつもりであった。だがしかし、豪胆と呼ばれてなお、こそこそと隠れ去るわけにはいかない。その二つ名は源四郎の心の平穏をかき乱す。呼ぶ者の数はとにかく一人でも減らさなければならない。

 身体を反転させ正門へと向きを変える。

「いやいや、それがし豪胆などではありません」


 意を決して声を張り上げたつもりが……まるで聞こえていないかのようであった。

 いつの間にやら、源四郎と門を隔てていた人垣がさっと左右へ分かれている。先ほどまで言いたい放題であった老女が何やら命じている後ろ姿が視界に入りこむ。

 門の先で待っていた様子の籠へと近寄く者がいる。籠の扉をすっくと開いていた。

 中から現れた者を見て「出た、熊喰らい」とつぶやいたのは郎党や家人の内の誰なのか、源四郎には分からない。少なくとも四人以上の似たような声が折り重なっていた。

 目に映る光景は異様というより他はない。籠の乗り主はもとより、籠担ぎの者も、周囲の者も、全てが女人であった。




「お久しゅうございます。そして甘利家のご息女殿にはお初にお目にかかります。拙者、当家の主、飯富虎昌。側にひかえしは、奥(奥方の略)の結衣と弟昌景」

 飯富家屋敷の奥まった一室である書院において、下座に座している兄者がかなり深々と頭を下げていた。

 義姉上にしても同様。いくらか目が腫れぼったくはあるものの、先ほどまでの随分と気落ちなされていた様子や諏訪から古府中までの籠旅の疲れの気配を微塵もただよわせてなどいない。

 二人の様子を目にしていた源四郎はわずかに遅れてしまう。いささか慌てつつ上半身を傾け礼をする。


「これはこれは上座を譲っていただいたばかりではなく、ご丁寧な挨拶を。ですが、どうやら私のことを知らぬ者もこの場にはいるようですね」

 この場にいるのは五人限り。

 つまり、このおのれしかいない。

 甘利家のご息女は身分が高い。それは認めよう。だがしかし、上座はないだろう。せいぜいが対面にて座るべきではあるまいか。お舘様のご息女ならば分からないでもないのだが。

 そもそもいったいこの権高な老女は誰なのだ、と戸惑いを覚える。兄者と義姉上はご息女に対して礼を捧げたのではないのか。少なくとも源四郎はそのつもりで頭を下げていた。


「いやしかし、豪胆ゆえと考えれば腑にも落ちましょう。知らぬであればその態度も道理」

 なんだか勝手に良い方へ誤解しているようであった。ほっと胸中で一息をつく。豪胆もたまには役に立つ。ふと、そう思える。いかにもその通り、と老女へ軽く目礼を返しておいた。


「私は甘利家先々代宗信の妻吉野。もっとも、とうの昔に剃髪(ていはつ)(仏門に入っていることを指す。夫に先立たれた武家の婦人で尼となる人は多い。なお、実際に寺へ身を移すかは人それぞれ)しています。寿福尼(じゅふくに)との名乗りの方が今では世に知られておりましょう。横にいまするのは」

「お(ばば)様、そこから先はわたくし自らが」

「これ、お佐奈。横入りなど、はしたない」

「いえ、これから縁を結ぶ方々であられます。初めから他人行儀過ぎるというのは、いかがなものでしょうか」

「なるほど。それもそうですね」


 ただの侍女ではなかった! どころかこの老女、否、お年を召されたお方様(かたさま)。甘利家先々代宗信様の妻ということは……つまり武田家先々代信縄(武田晴信の祖父、信虎の父)様の唯一ご生存されていられるご息女。

 つうと源四郎の背中へ汗が一滴ほど流れる。


 なるほど、これは。

 先ほどの屋敷門前における、あれほどの大上段からな物言いも納得せざるを得ない。自身の出身が出身である。分かりやすくいえば、義姉上が板垣家の総領娘ならば、このお方は武田家の総領娘。事と次第にもよるのであろうが、お舘様ですら頭が上がらない事柄があるに違いない。

 しかもである。夫も息子も生前は武田家の宿老を務められていた。後を継いだ孫は十八歳にして既に家老。一方で飯富家は代々中老の家格。

 ほんの少しも寿福尼様が飯富家の三人へへりくだるべき要素が見当たらない。


 それほどのお方がにこりとこちらへ、というか源四郎へ微笑みかけてくる。だが、その目へ宿っている気配は真逆。怖い。まるで狙った獲物を今まさにその爪で捕らえようとしている鷹のような。


「飯富家の皆様方。わたくし甘利家先代当主虎泰の次女であり、当代信康の姉にあたります佐奈と申します。以後、お見知りおきを」


 見知るも見知らないもない。目にしたのも、本名(ほんな)を耳にしたのも初めて。というか、頭巾で顔全体を覆っているので目元しかうかがえない。

 いや、そのようなこと。今は気にかけている場合ではなかった。

 有名……いや、その勇名を古府中で知らぬ者などいるのだろうか。熊喰(くまく)らい信忠(のぶただ)と聞けば、耳にする者の多くがぶるりとその身を震わせる。

 女だてらに武芸を好み、しかもその才が尋常の域を超えているという噂である。女人(にょにん)の武具のたしなみといえば薙刀が通り相場にも関わらず、一番の得手は槍だとか弓だとか。さりとて、女の身ゆえに戦場へ出ることは固く禁じられたお人。

 それはそうだろう。今は源平合戦の御世(みよ)ではない。いや、およそ四百年弱さかのぼったその頃ですら、女武者などほぼいない。木曽義仲の愛妾巴御前(ともえごぜん)くらいしか、源四郎は知らない。

 風聞によると、大人しく屋敷に篭っていれば良いものをうさ晴らしと言わんばかりに方々の山々へ分け入っているらしい。槍で以って獣を倒して回っているとかいないとか。それも獲物は猪ではない、熊というのだから凄まじい。


 誰が言い出したのかなど源四郎には知る由もないのだが、付いた異名が熊喰らい。そして、聞くところによれば父親である故虎泰様がこの姫様の剣幕に根負けしたあげく男名前まで授けたそうだ。それが信忠。二つ合わせて、熊喰らい信忠。

 当然のことながら、本人の前では絶対に、決して口にしてはならない類の呼び方である。ところが……。


「熊喰らい信忠さ、ま」

 空気を震わせて耳へと音が届いた。

 呆けたのか、兄者は! うっかりにしても度が過ぎる!

 思わず首を振って横を見る。しまった、と言わんばかりに口元へ手をやっている兄者と顔面蒼白に近い義姉上のお姿が目に映る。

 口を塞ぐにしても、せめて熊喰らいまでであろう。結局、最後まで言い切っている。様を付ければ印象がやわらぐというものでは断じてない。

 源四郎にしても一瞬の内に手のひらがじんわりと汗で湿っていた。


「今、なんと!?」

 寿福尼様がまなじりをかっと見開いている。こめかみもぴくりぴくりと跳ねていた。それはそうだろう。孫娘を面と向かって熊喰らいなどと言われて平静でいられる祖母など、この日ノ本中を探したとてどこにもいないのではあるまいか。


「良いのです、お婆様。そのようなおかしなあだ名が付いていること、このわたくしめも知らないわけではありません。虎昌様、お気になさらず。佐奈は忘れてしまいました」

 その声色に嘘は含まれていないようであった。

 ほう、随分とさっぱりとしたご気性をなされているのだな。

 頭巾越しゆえに声はいささかくぐもって聞こえているが、そう感じれば不思議なものでなかなかに心地良く耳へ届く。義姉上が春のそよ風のようなやわらかな声ならば、夏の向日葵(ひまわり)のような明るい響きといった辺りか。


「佐奈が気にしていないと、そう言うのでしたら私にしても忘れましょう」

 ほうと一安心。飲んでいたきりの息を静かにふうと吐き出す。わずかに気がゆるむ。

「ところで」

 その一言で、びくりと、再び緊張感が増していく。

「虎昌殿にちと尋ねたき事柄があるのですが、よろしいですか」

 嫌です、などと寿福尼様へ兄者が言えるはずもない。

「何でしょうか」


「過日、甘利家当主信康の名で以って婚儀の申し込みをしたはずなのですが。未だに返書が届いておりませぬ。これは、いかがしたものかと」

「いえ、返書はお出ししているはず」

「いいえ、届いてはおりませぬ」

「そのようなことは……。当家の老衆(おとな)である久坂小十」

 義姉上が兄者の袖を引っ張っていた。


 この秋から冬にかけて源四郎のもとへ舞い込んだ縁談話は全部で八つの家からであった。その中でも真っ先に「これはないでしょう」と兄者、義姉上とともに意見の一致を見たのが甘利家からの申し込み。つまりは熊喰らい信忠様とのご縁。


 飯富家は甘利家とは競争関係ともいえる板垣家の縁続き。

 男勝りはかまわないが、それにしても度を越え過ぎている。

 家格が不釣合い、上過ぎて婚家へ気軽に顔を出しにくく遊びに行きづらい。

 年齢が源四郎より一つ年上。

 普段から頭巾を愛用しているのは……あまり器量良しではなさそうである。

 後ろの二つはともかくとして、最初の三つは一つだけでも飯富家の誰かしらの意に沿わない話。上から兄者、義姉上、源四郎の順であった。

 なんと、それが五つも重なっている。


 結果、甘利家へは真っ先に丁重なお断りの書を兄者がしたためており、その場に源四郎も居合わせていた。

 ちなみに、郎党久坂小十郎が甘利家への使いを無事に果たし終えた後、兄者へ報告する際には同席してもいる。

 要するに、届いていないはずがない、としか言いようがない。

 なお、兄者が直接訪問して断りの言上を述べなかったのは、縁談話があったことそのものを表沙汰にすべきではないという配慮からである。別に相手が甘利家だからではない。どこの家へであろうとも、同じこと。


 届いていないと、まるで白を黒と言い含めるかのような寿福尼様の意図。それは源四郎にも想像がつく。義姉上も気が付かれている。兄者にしても悟ったようであった。


「佐奈には、婚儀を結ぶ相手にいくらかの希望がございます」

 ああ、そんなことを寿福尼様が言っているがゆえに……二十一にもなって独り身なのであろう。そう思わざるを得ない。

 甘利家のご息女なのだ。縁を結びたい家は多かろうに。これまでのおよそ十年、黙っていれば引く手数多(あまた)であったであろうに。

 女人ならば早い者は十二、三で。遅くとも十八、九。余程のことでも二十の内にはどこぞへ嫁ぐか婿を迎える。

 それが源四郎の知っている女人の婚儀というものであった。


「一つ、佐奈より武芸の達者であること。二つ、肝太き者。三つ、力だけではなく智も優れていること。四つ、佐奈が好みの者」


 なんだそれは、と源四郎は呆れてしまう。思わず苦笑いしそうになる。いったいぜんたい、どこの誰が武田家家臣筋筆頭の甘利家に対して「それがしは知恵も力もございます。胆力も備えております。よって嫁として(めと)りたく」などと臆面もなく言い切れるのであろうか。無茶というか、無理というもの。

 もしも意にそぐわない結果となった日には、武田家家中どころか古府中どころか甲斐の国中でいい笑いものとなってしまおう。居場所がなくなってしまうではないか。


 ふと視線を感じる。熊喰らい信忠様と、いや佐奈様と目が合っていた。目元しか見えないのだが……何やら、はにかまれているような気がする。

 いやいやいや、お待ちくだされい! 勘違いなされておられる。それがし、豪胆などと妙な二つ名を付けられてはいますが、とんと身に覚えのないことゆえ。

 まあ、智につきましてはいささか才があるやもしれませぬが。

 と口にしたい。だがしかし、源四郎は飯富家の当主ではない。ここは兄者に任せるより他はない。


「つまりはそれが拙者の弟であると?」

「豪胆に加えて、楠木。更には美の決裁者という異名を併せ持つ昌景殿こそが相応しいでしょう」

「寿福尼様、一つよろしいでしょうか」

「虎昌殿、何でありましょう」

「話をうかがいますに、どうやら拙者の愚弟を高く評価してくださっておられるご様子。大変な誉れではありますが、豪胆うんぬんに関してはどこでお耳へ」


 さすがは兄者。鋭い。豪胆については、何度も何度もくどいほど繰り返して「それはならぬ」と郎党たちに言い聞かせていた。最近になってようやく彦助たちから「無念ですが、そうまで言われるのであれば諦めまする」と言質(げんち)(約束の言葉)を取ったばかりである。


「孫が、この佐奈にとっては上の姉が小山田家の当主信有殿の後添いとなっています。今年の夏、古府中へ参った折に色々と面白き話を耳にしました」


 ああ、そういう事情なのか。

 兄者とおのれにとって一応は義姉と言うべきであろうお人。若かりし日の小山田信有様が惚れ抜いた女人は、とうの昔に亡くなられていた。娘を無事に産みはしたものの、産褥の治りが戻らずそのまま身罷ったそうである。あの浪人騒ぎが解決したお礼の席において一向に姿を見せられなかったので、一言挨拶をしたいと思い信有様へ直接に尋ねたことを源四郎は思い出す。


 ご家老殿! 加藤有定殿よ! 胸中で甲斐の東に、郡内岩殿(ぐんないいわどの)へ向けて叫ぶ。

 小山田家ご家中の皆々様方は口の硬き者たちなのかもしれませぬ。ですが、肝心要(かんじんかなめ)のご当主様が!

 恐らくは(ねや)(夫婦の寝所)にて、口がいささか軽うございます!


「なるほど、それは」

 兄者が口ごもっている。当然であった。寿福尼様がいったいどこまで耳にされているのかが分からない。浪人うんぬんも関所破りも、大変にまずい。

 事情を知らされていないであろう義姉上がいぶかしそうな気配をただよわせ、兄者の方へと小首を傾けている。


「いえ、その件でどうこうなどと私は考えてなどいないのですよ。お家の為をこそを憂慮したがゆえの熱き想いがほとばしったまでのこと。わずかに軽率なのも若さと思えばむしろ好印象。杓子定規に当てはめては、武田のお家にとってもよろしくはありませぬ」


 ……恐らくは、いやほぼ間違いなく全てを知られていた。

「なるほど、それは」

 兄者が同じ言葉を繰り返している。気持ちは分かる。下手に語れば義姉上の不信感が増すばかり。他に言いようがないのであろう。


「お婆様、その話は止めにしませんか」

「それもそうですね。佐奈には昌景殿に問いたいことがあるのでしたね」


 何であろうか。思わずごくりと生唾を飲む。今の源四郎に出来ることといえば、それくらいしかなかった。



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