第十五話 諦める源四郎
「気に入りませぬ」
「何故だ。聞いておこう」
「差が、格差が開きすぎております!」
「こ、この軟弱者めが! よもやそのような情けなき心根に育っておったとは! 泉下の父上にも母上にも申し訳が立たぬわ!」
「ですが!」
「差は差。確かに存在しておる。それはこの兄とても承知のこと。縮めるには容易ではない。それも認めよう。だがお前は、わずか二十の年齢で諦めているというのだな!」
「されども!」
「夫の言う通りですよ、源四郎さん。私は、あなたのことを園梅院様(源太郎虎昌、源四郎昌景兄弟の実母志野。源四郎が七歳の時に、十三年前に死亡)から託されたのです。いわば、母親代わりで見守ってきたつもり。それが……このような意気地なしに成っていたなどと、まことに哀しくあります。育て方を間違えてしまったのでしょうか」
ハッとする。兄者と義姉上の言葉が心へぐさりぐさりと突き刺さる。
そうだ、諦めてその先に何があるというのだ!
「義姉上……源四郎が間違っておりました。兄者よ、どうか張ってくだされ。このたわけた性根に活を、是非とも入れてくだされ!」
「よくぞ申した!」
兄者が左膝をついて半身を乗り出してくる。ぐいと振り上げられるその右腕が視界に映りこむ。「あなた、源四郎さんは反省しているのですから」という声が耳へ届く。
義姉上、その議は不要のこと。そう思い、口にしようとするも「少しは加減してお手柔らかに」と続いていた。
良かった。止めないでくだされ、などと先走って叫ばなくて。醜態を更に重ねる羽目になるところであった。
わずかの後、吹き飛ぶかのように身体が浮く。宙でくるりと回転していた。転がっていく。どすんと、畳の上へ落ちる。天井の染みが目に入る。
今のは効いた。下から上へと突き上げながらの一発。これほどの熱き張りは久々、およそ八年ぶりであった。
なるほどこの痛み。そういうことか、兄者だけではない。義姉上の想いも込められていたのであろう。身体だけではなく心へもひしひしとそれが伝わってくる。
左の頬は熱く腫れ上がり、じんとしていた。はああと大きく息を吸い込み、ふううと緩やかに吐き出す。一度では到底足りない。二度、三度、まだ不足であった。重ねていく。
繰り返すうちに弱気の虫が身体の中より消え失せていくかのような気がしてくる。ふと、そのように感じられた。
考えが浅かったな。おのれは全く以って精進が足らぬ。源四郎はそう自らを省みる。
身体を起こし、二人の前まで両の拳と膝を使ってにじり寄っていく。これまでの経験から立てないことは分かっていた。視界がぐるんぐるんと揺れている。
正座のまま身体の軸が定まるのを待った後に、無言のまま深々と頭を下げ、ゆっくりと上半身を持ち上げる。
「兄者、義姉上。どうやらこの源四郎、いつの間にやら怠け者の心を胸中で飼っていたようです。けれども、今の張りにより消えて失せました!」
「見事に悔い改めたようだな。それでこそ我が弟よ」
「最前の平手打ち。少々手荒過ぎなのではと、私はそう感じてしまいました。ですが源四郎さんにとっては最適だったようですね。相変わらずの厚い兄弟の絆を目にしたようです。そして、うらやましく思います。私の弟たちも生きていれば、きっと……」
義姉上は兄者へ嫁いで後に生家へ残していた二人の弟を病によって相次いで亡くされていた。
「義姉上のこと。それがしは実の姉上のように慕っています。源四郎は一人しかおりませぬが、実の弟と思い亡き弟殿たちの分をも! 今後も目をかけてくださいますよう!」
「まあ、源四郎さん。嬉しき物言いです。ですが、言われなくてもそのつもりですよ。これまでもこれからも」
「義姉上。ありがとうございます!」
「それにしても……」
「どうしたというのだ、源四郎よ」
「あ、いえ。兄者も義姉上も、まことに、まことに二十を越えて二十一にもならんとしているこの身にも関わらず、未だ背が伸びると信じておられたとは! この源四郎、心がぶるりと激しく揺さぶられ、感動に打ち震えております! 果報者でございます! 自らが諦めて、いったいどうする。阿呆か、おのれは、と。そう言わざるを得ない。そんな気持ちです」
持つべき者は親身となって心配してくれ、また信じてもくれる身内。源四郎の心には希望の火が再び赤々と灯っていっていた。誰にも明かしてこそいないのだが、二十歳となった折に、もはや無理であろうと背丈については諦めていたのである。
しかしながら成長する時期というのは人それぞれ。五年……いや、十年ほど遅れている。そのように思い直そうではないか。そうだ、きっとそういうことなのであろう。
「ですよね、兄者」
うつむいていた顔を上げ問いかける。だが目には意外な光景が飛び込んでいた。
「え?」
兄者がきょとんとした表情をしている。次いで、目の前の杯を手酌で満たし、ゆっくりと、まるで舐めるかのように口をつけている。いつもならば、水でも飲み干すかのように酒を召されるというのに。
じっと見つめるも、わずかの間ですら目が合わない。源四郎は、何気なく横へ視線を向ける。
「え?」
義姉上とは目が合う。けれども一瞬でするりとかわされた後は、ひたすらに避けられていた。
どれほどの時が過ぎたのであろうか。分からない。二人ともにこちらをわずかにでも見ようとはしない。室内には、四方を照らしている灯明の脂がちりちりと燃える、そのかすかな音のみが伝わっている。
「え?」
ようやくの思いで、声を漏らす。わずか一文字へ、源四郎はやるせない悲しみや哀しみの全てを込めていた。
「そっちの差は……無理だろう」
何気ない一言だったのかもしれない。否、わずかにささやくかのような兄者のそのつぶやきは、耳へ本当に届いていたのかすら分からない。だがしかし、唇の動きで確信していた。
心が、そして身体が跳ねるには充分であった。
「兄者よ、許せぬ!」
気がつけば、うおぉりゃあと叫びながらすうと腕を伸ばしていた。がしりと裾を掴み半身を入れ替えざまに背負い、投げ飛ばしていた。
どおん、と脚元から衝撃が伝わってくる。わずかの後に、杯がころんころんと音を立てて畳の上へ転がっていく。
「や、やるようになったな」
くぐもった声が聞こえる。仰向けに伏している兄者の身体がふるふると震えていた。
その姿を目にし、更には息を一つ入れたことでおのれが何をしたのか悟る。
「承知しています。わざと抵抗もせずにこの源四郎の投げをくらったことくらいは」
廊下を駆ける音が響く。「何か変事でも!?」という叫びも重なる。「何でもない。興が乗って源四郎と相撲を取っていただけのこと」「さようですか、それでは」と再び去っていく足さばき。
「源四郎さん」
廊下と室内を隔てているふすま戸を半ば放心しながら眺めていた源四郎は振り返る。
「なんでしょう」
「希望を持たせるようなことを言ってしまい、ごめんなさいね」
身体を傾けて詫びを入れてくる義姉上の姿勢が目に映っていた。
こちらこそ済みません、と言うべきなのだろうか。
そもそもおのれ自身では、およそ一年ほど昔に踏ん切りを付けていたのだ。それを兄者と義姉上が期待を持たせてくれるようなことを口にするからこんな事態になっている。のではないのだろうか。
「それはそれとして。源四郎さんも良くありません。勘違いされるような物言いをされるからですよ」
……そう来るのか。戸惑いを覚えてしまう。
「そうだぞ、今のは源四郎も悪いんだぞ」
背後から兄者の声も聞こえてくる。振り返れば、いつの間にかあぐらを組んで座っていた。
「もちろん、夫も早とちりをしてしまいました。しかも加えて、無理だろうという言いようはありません。あまりと言えばあまりのこと。その点はきっちりと兄と言えども弟へ頭を下げるべきでしょう。ほら、あなた。そんなところでぼうと座ったままで何をしているのですか。早う、こちらへ」
兄者が義姉上の言葉に応じてすっくと立ち上がる。もともとの、源四郎が投げ飛ばす以前の場所へどかりと腰を降ろす。
尻に敷かれているなあ、とは普段から感じてはいた。だが、ここまでなのか。
そのことに愕然としてしまう。二人の関係にではない。兄者の満更でもなさそうな目尻の垂れ下がった締まりに欠ける顔付きに、である。
いつだったか、兄弟で飲んでいた折の、兄者の言葉が頭の中へ響く。
「いいか、源四郎よ。女房というのは立ててこそ、家の内にいらぬ波風も立たぬというもの。ゆめ、忘れるでないぞ」
だがしかし、今のありさまは。とてもではないが義姉上の顔を立てているようには見えない。好んで自らが振舞っているように見える。
凛として威厳を保っていた、憧れていた兄者は……いったいどこへ。
「残念ですがもはや無理というもの。源四郎さんも男なのですから、すっぱりとお忘れなさい。よろしいですね」
うっ、と胸がぎゅうと締め付けられる。つい最前に兄者の無理発言をとがめてくださったはずの義姉上。にもかかわらず、さらりと無理と言い切っている。
恐らくは無意識の内になのであろう。「はあ」と返事なのかため息なのか自身でも分からない言葉を発するのが精一杯であった。
「それはともかく、ほらあなたも早く」
「済まぬな、源四郎。背はもはや伸びぬわい。きっぱりと諦めろ」
やはり、どうにも納得がいかない。とっくに諦観していたことをわざわざほじくり返してきたのは、兄者と義姉上ではないだろうか。こちらが悪いのだろうか。
ううむ、分からぬ。だが、義姉上に続いて兄者にまで頭を下げられてしまえば否も応もない。うじうじぐだぐだと引きずるなど、好みではないし。
忘れてしまおう。
「承知しました。背丈については今後伸びしろなどおのれには一切ないと心得ます」
「よう、分別した!」
「立派ですよ、源四郎さん!」
自らの発言の情けなさときたら、ない。それに加えて、二人の返しもひど過ぎる。ぐっとこみ上げてくるものを腹へ力を入れて、歯を食いしばって、ひたすらに耐える。
「では、話を元に戻すぞ」
「……はい」
「我が女房結衣の骨折りで、板垣信憲殿の二の妹千代殿を娶る話。進めてもかまわぬのだな」
出来ることならば、同程度またはいくらかは劣るくらいな家格の家より嫁を迎えたかったのだが。
はるかに上からか。
とはいえ、千代殿ならば満更知らないわけでもなく。器量は良いし、性格も素直そうだった。板垣信方様のご生前、屋敷へは何度も足を運んでいるゆえに、そこら辺は承知している。
いくらか、いやかなり背が高いという点が気にはなる。気に入らない。だが、飯富家の当主である兄者が乗り気であるのならば。
兄者にしてみれば、義理の従兄弟という立場だけでは板垣家の家政へ口を挟みにくい。けれども、義弟も飯富家にいるとなれば繋がりはこれ以上ないほどに濃いというもの。
昨年の夏の、塩尻峠にて中信濃の大名小笠原長時に完勝した戦にまつわるあれこれに加え、時折風聞にて耳へと入る振る舞いの数々。はっきり言うと板垣信憲様はあまり出来がよろしくはない。
兄者は故板垣信広様より受けたご恩を返したいのだろうな。うむ、兄者のお役に立てるのであれば、ここは喜ぶべきであろう。
「はい。千代殿が我が妻となっていただけるのであれば、果報でございます」
「千代は私の従姉妹でもありますから、今後はこの屋敷で仲良う暮らせるというもの。信憲もよもや断るとは思えませんが」
あれ?
「あのう、義姉上様。先方から来た話なのでは?」
「おい」
兄者の声に応じ、目が合う。
聞いているか? いいえ、初耳です。阿吽の呼吸で、無言のまま意志が疎通していた。
「遠縁の娘を養女として後に、という話でした。随分と馬鹿にしていますよ。そんな話はつき返して千代を貰い受けましょう。私は初めからそのつもりですよ」
いや、それはどうなのであろうか。先代が筆頭宿老の板垣家と中老の端にようやく連なっている飯富家の関係性を踏まえるならば断られても別段おかしくはない。
「私は板垣信泰の嫡男信広の長子であり長女。家を出た身とはいえ、つまりは板垣家の総領娘ですよ。信憲は板垣家の現当主でこそありますが、信方叔父の、父上の弟の息子に過ぎません。何をや言わんか、です」
なるほど。義姉上は、中老板垣家で生まれ育ち、そして我が家へ嫁がれた。家老となり宿老にまで上り詰めていった板垣家は義姉上にしてみれば叔父の代。父母弟たち全てが故人となった実家へそうそう用事があるわけでもなし。源四郎が知る限りにおいても、それほど足を運ばれてはいない。
一方の我が家。兄者との婚儀の当時の飯富家は家格を二段階下げられ、叔父上たちの所領をも失ってはいた。とはいえ家屋敷などは父上存命当時の、中老格そのままであった。
義姉上にしてみれば、両家の家格差に実感が伴っていない。そういうことなのではあるまいか。
となれば、駄目だろうな。この縁談話はきっと流れるに違いない。
外れようもない予感が当たったことが判明したのは、わずかに五日後のことであった。
断られたのは仕方もない。
けれども、である。板垣家の老衆どもはいったい何を補佐しているのだ、と思うより他はない。
上田原の戦で板垣信方様の信頼厚い者たちの多くが討ち死にしてしまっていたゆえなのだろうか。諏訪上原城に残っていた者たちにしても、山本勘助はお舘様の直臣となっているし、信方様の代の、古い者たちは信憲様に遠ざけられているという噂がまことということなのであろうか。
それにしても早過ぎるだろう、と言わざるを得ない。
甲斐古府中と信濃諏訪の往復を考えれば……これでは飯富家というよりも、義姉上の、板垣家の総領娘としての面目がまるで立っていない。せめて十日かそこらは話を預かり、悩む振りくらいはする。それくらいは当然のこと。
一事が万事こんな調子では、板垣家の先が思いやられるというもの。
取り付く島もない返書を目にし柳眉を逆立てた義姉上は、なんとその日の内に籠を仕立て、諏訪上原城にまで向かっていかれた。
十日過ぎて戻った後、源四郎は呼び出される。
「源四郎さん。本当に済みません。信憲があれほど頼りなき、先も見えぬ者となっていようとは……」
そう声を震わせて言ったきり、兄者の肩へ顔を埋めるようにしてすがり付いていた。「あなた、ごめんなさい」という声が漏れて伝わってくる。兄者へうなずくと、無言のままうなずきを返してきた。義姉上の泣き声を背で受けながら、そっとふすま戸を閉める。
難しいものなのだな、縁談とは。
廊下を歩いているとなにやら門の辺りで騒がし気な音がしている。今の義姉上へ余計な物音など聞かせたくはない。源四郎は足を速めた。