第十四話 酒の肴源四郎
世の中に伝わる噂というものは摩訶不思議としか言いようがない。
杯の酒を飲み干しながらつらつらと思うに、いくらか憂鬱でもある。面倒くさいとも言える。
妙な二つ名が流行っているのだ。このところ、源四郎は自らにまつわる評判というものに対して戸惑いを隠せないでいる。
いわく、美の決裁者。
……この古府中には阿呆しかいないのか、と問い正したい。
確かに新しい旗印を求めて指南の依頼をしてくる各家の家紋や下地に色を付けてみたり、旗としての見栄えを考慮して形を多少変更してはいる。
自らの脳裏よりほとばしる着想の数々が、あふれ出る感性のありようが恐ろしい。きっと天より与えられし才なのではあるまいか。その点は否定しない。
だがしかし、言ってみればそれだけに過ぎない。何も無から有を作り出しているわけではない。ちょいちょいと既存の旗印へ手を加えているだけのこと。
にもかかわらず、であった。いくらなんでも、美の決裁者はない。
初めに口にしたお調子者を見つけ出した日には、そやつの唇へ摩り下ろしたばかりのわさびを塗りたくり緑色に変じさせてやる。そう固く心に誓っている。
いわく、楠木昌景。
今からおよそ二百五十年ほど前の武人。鎌倉幕府を滅ぼす一因となったあの名将楠木正成にちなんでいるそうだ。
まあ、これについては悪い気はしない。とはいうものの。
聞くところによれば、なんでも飯富昌景という男。あえて武田家家中の他の家へ赤を基にした旗色を一切指南しなかったそうだ。
赤は目立つ。野の色とも空の色とも異なる。しかも華やかであり、遠目からでもはっきりと見える。
飯富家はその赤を独占しようとしている。元祖としてはそれくらいの役得は得てしかるべきであろう。けれども、けちけちせずにせめて薄い赤くらいは使わせてくれても良いのではあるまいか。そういった不満を持っていた一部の家があったらしい。
源四郎としてはお説ごもっともとしか言いようがない。まさにその通りである。そもそもは飯富家の旗印が戦場で目立つ為にこそ、試行錯誤を繰り返していたのだ。よって、赤色を独占するくらいは当然の特権であろうと考えていた。
ところがであった。飯富昌景という男にとってはどうやらそうではなかったらしい。違っていたのだ、と噂は伝えている。
なんでも深慮遠謀だそうで。浅はかで近視眼的な者たちからの風評など意に介さず、お舘様からお声がかかるのをひたすらに待ち続けていたらしい。
それが証拠にどうだ。あの赤地に金をまとった武田菱の見事さよ。あれほどに素晴らしき旗の意匠。お舘様より諮問を受けてわずか四十日にも満たぬ間に完成させられるはずがない、と。事前に思案に思案を重ねて身を削るほどの苦悩の果てでなければ生み出せるものではないとかなんとか。
なんでも飯富家が赤い旗を古府中の屋敷に初めて掲げていた時点で、既に武田家の新たなる旗の意匠を用意してあったそうだ。
およそ四十日後に披露したのはあれよ。すぐに献上してはご主君である武田晴信様のご威厳とご威光がいささか軽うなってしまうがゆえ。との話であった。
それが証拠に新しき武田菱旗を献上すると同時に飯富家は赤い旗をあっけなく捨て去った。しかも他家にも指南していた紺色を地の色として旗を改めている。
まことに見事な振る舞いというものよ。厚き忠誠心と智謀の合わせ技よ。天正の世に現れた大楠公(楠木正成の異名)であろうよ。
増長しているなどと陰口を叩いていた者たちはまこと見る眼がない。飯富昌景の本心を、胸中をまるで見抜けていなかったのだから……。
……いったい誰なのだ、この飯富昌景という者は? と源四郎は自らに問う。
おのれではないな、ということだけは分かる。
からかっているのかと斜にかまえてみたこともあった。しかしながら、まじめな口調で面と向かって誉められたり、「お若いのに謙虚であられる」などと感嘆される始末。こうなれば、もはや何を言おうが無駄というもの。ひたすらに苦笑するより他はない。
まあ、それでも。豪胆昌景や色師昌景と呼ばれることを考えればまだましか、と楠木昌景に関しては渋々ながら受け入れてはいる。
恐らくは、古府中の人々は暇を持て余しているのだ。何せ、毎年のように行われていた武田家の出兵が今年はないゆえに。源四郎以外にも白眉高白斎や千里眼信種、熊喰らい信忠など。きっと本人はげんなりしているであろう二つ名と一緒にそれにまつわる噂話が流行っている。
いわば、ていの良い酒の肴に違いない。
武田のお家の旗指物を赤地に金で四つ菱をほどこした色合いへと変更して以来、源四郎はお舘様のお声がかりによって旗奉行という役儀へ就いていた。
お触れが発せられている。今後、旗指物に手を加える場合、旗奉行の指示に従うように、と。
とはいえ、正式な務めとしては勘定奉行跡部勝輔様配下の勘定方のまま。旗奉行というのは名誉職のようもので、あくまでも自称に過ぎなかった旗指物指南役が武田家公認の立場となっただけのこと。
実際、やっていることは自称の頃とまるで変わってなどいない。
おまけに指南役を始めて半年ほど経っていた。武田家直臣の大多数の家は既に変更済みであり、かつてほど忙しくもない。
どの家がどういう色を用いているかを書へまとめあげて月の初めに提出するだけ。ちなみに先月の、十月の増加は三家分。楽な務めではある。
だからというわけなのか。配下の一人も付けられてはいないし、禄も出ない。
何度目かの提出時に、それとなくお舘様へ尋ねてみたところ「先払いで十年分ほど渡しておる」という話であった。
なるほど、仰せごもっとも、と言えよう。碁石金を五十粒も貰っている。米に換算すれば二千五百石相当。大金である。
けれども、そういうことならば「毎年、小分けにして貰いたかった!」と愚痴の一つもこぼしたくなってしまう。
何故ならば、碁石金二年分を、つまりは十粒ほどが既に露と消えてしまっている。
飯富家屋敷に仲の良い武田家家中の人たちを招いての祝い酒。古府中在番の郎党や家人とともに身内だけでの祝い酒。飯富郷の各村をまわって主だった者たちや在番の郎党と一緒に祝い酒。
大いに贅沢な宴の席をもうけていた。兄者以外には語れる者もいないのだが、二度と見ることのかなわなくなった紅天月星旗への供養の意味も込めていたゆえに。
わざわざ畿内(現在の近畿地方)から名高い銘酒を取り寄せて振舞ってみたり。他には、――上田原の戦の折に知己となった安芸国浪人香川元秋殿から聞かされていた――海の魚の刺身を膳に並べてみたり。
金の力とは偉大なもので、水槽で活かしたままの状態で駿河の港から甲斐古府中まで鯛やひらめが届けられ、源四郎にしても「美味い美味い」と大いに舌鼓を打ったものであった。
振り返ってみれば金が減ったのも自業自得。
とはいえ「はあ」とため息をつきたくなってしまう。初めから”一年あたり五粒、掛けることの十年”と耳にしていたのであれば、甲斐か信濃の手ごろな酒で済ませていた。……それでも刺身には手を出したかもしれないが。
なお、今は天文十八年(1549年)の秋。旗奉行に就任してからおよそ半年ほど過ぎている。要するに向こう一年半ほどは、旗奉行としてはただ働きのようなものといえた。
もっとも、なんといっても奉行なのだ。実態はお寒いものであろうと出世した気分には充分ひたれる。
月に一度お舘様へ提出する書へ”旗奉行飯富昌景”と筆を入れる瞬間は毎回毎回「このおのれが奉行かあ」と顔がついついほころんでしまう。
実に嬉しきことであった。
「おい、源四郎。何を先ほどから顔付きを小器用に変化させておる。これしきの酒で酔うたか。それともこの茸の添え物、おかしな毒でも入っているのか」
「いえ、どちらでも。少し、ぼうとしていましたようで。もう大丈夫です」
「ならば良いが。それで、どうする?」
「兄者、どうすると言われましても」
「そうよのう。降って湧いたかのような話の数々。この兄にしても戸惑っておる」
これまでは、ぽつりぽつりと軽く打診といった按配の話が舞い込むばかりであったというのに、ここのところ相次いで本腰を入れた申し込みが耳へと入ってくる。兄者を通して、または義姉上からも、つまりは板垣家からも。
今の源四郎は入り婿でも嫁取りでも選び放題……とまで言うと大げさになるものの、それに近い状況となっていた。
全員と、全ての家と婚儀を結べれるのであれば飯富家としては万々歳。だがしかし、源四郎は一人しかいない。当然、一人としか夫婦になることは出来ない。
あちらを立てればこちらが立たず。さて、いかがしたものかと悩んでいる。
源四郎は所領を持たず、郎党の一人もいない。飯富家部屋住みの身。勘定方に務めてはいるものの必要欠くべからざる働きをしているわけでもない。
にも関わらず、大変にありがたい話であった。
そう思えば、わけのわからぬ二つ名が古府中界隈へ広まっていることも満更悪くはない、のかもしれない。
旗奉行というお役目も一役買っているのであろう。
どうやら将来性を買われ始めたようであった。
二十歳という年齢は婚儀を結ぶにあたって早過ぎることもないし、遅過ぎるわけでもない。
ちょうど良いといった辺り。なのだが、両手の指がほぼふさがってしまうほどの家から打診を受けるのも困ったもので、逆に選びようがない。
「仕方もない。この兄の婚儀話を聞いて指針とするが良い」
「あ、いえ。その議はよろしいです」
「待て待て、そのような遠慮は無用。とは言え、弟に語るなどいささか照れくさいのう。あまり参考にはならぬかもしれぬが」
「けっこうです」
「そう、けっこうな話なのだ! そこまで頼まれれば仕方がないか。俺が奥(飯富虎昌の正妻結衣のこと。奥方の略)と始めて顔を合わせたのは五歳の時分であった。亡き父上に連れられて板垣信広様を屋敷にお尋ねした折にな」
……全く以って参考になりそうもない打ち明け話が勝手に始まっている。
おまけに兄者の口が止まりそうもない。せめて正式に両家の間で許婚の儀を交わすこととなった経緯ならばともかく、延々と義姉上との思い出話が続いていくばかり。はいはい、と相槌を打っている内に気がつけば源四郎の前に置いてあった干し魚のあぶりと茸の味噌和えの皿がほぼ空となっている。
「そんなある日のこと。破談となるやもと半ばは覚悟していた。父上が亡くなられて以降、我が家は苦労していたからな。だがしかし!」
いっそ一人一人と面談を出来ないものだろうか。
……いやいや、その辺の農家のように男と女が野合の結果、夫婦になるというわけではない。
源四郎の立場としては最初に会った相手と結ばれるより他はない。会った末に断りを入れるなど無理筋というもの。
飯富家はどこの家と縁者になるのか。複数の家と繋がれるわけではないゆえに、無駄にあつれきの種を蒔いてまわるわけにはいかない。
「おい、源四郎!」
「っと、兄者。なんでしょう」
「この兄が、話を止めておるのだぞ。それで、その先は!? と合いの手を入れるところであろうが。何をぼさっとしておるのだ。全く気が利かぬやつめ。それとも照れておるのか」
何が楽しくて、いや哀しくて……。
兄者が三歳の時には両家の間で将来の話がまとまっていた話を。幼馴染で、三歳ほど年下で、器量良しで、気立ても良い義姉上と兄者の馴れ初め話を。ほぼ九割方は惚気話を。おのれは聞いていなければならないのだろう。
義姉上の欠点といえば、家格が上過ぎるということくらいではないか。
飯富家は父盛昌が亡くなった当時は中老の家であった。兄者が十五歳で急遽元服したものの武田家先代ご当主信虎様によって足軽大将格まで降らされ、そこから再び中老へ戻るまでに十一年の歳月がかかっている。
板垣家も信広様の代は中老。つまりは、兄者と義姉上は許婚となった当時から数えて約十年ほどは同じ家格の家と家の間柄であった。
ところが信広様没後に板垣家を継がれた弟の信方様が大変な出来物で、あれよあれよと言う間に家老となり更には宿老に登られていた。
源四郎が物心ついた時には単なる宿老ですらなく、筆頭宿老。家臣団の頂点に立たれていられた。昨年の春に上田原の地において戦死なされたものの、以降は後継の信憲様が家老職に任じられている。
義姉上のせいでは全くないのだが、両家は現状かなりの家格差が開いていた。
源四郎個人としては、同じ程度かやや劣るくらいの家格の家から嫁を迎えたいと考えている。とにかく上からは遠慮したい。
「ほほう、ところで兄者。その先は!?」
「ううむ、ここから先は結衣の承諾を得ずして語っても良いものであろうか。だがしかし! かわいい弟がそうまで言うのならば、言って聞かせてやらねばなるまい。是非もなしであろう」
面倒くさい。
ここから先は十割方の、完全なる惚気話でしかない。その程度、どんな阿呆にでも想像がつくに違いない。
「兄者。酒がきれたようです。それがし、継ぎ足してまいりますゆえ」
戻ってくる頃には寝ていてくれないものか。せめて異なる話にならないものか。そう秘かに願った、のだが。
「誰ぞある!」
兄者がぱんと両の手を合わせて鳴らしながら声を張り上げていた。廊下をとっとっとっと小走りに近づく音がする。「お呼びで」という声がふすま戸の向こうから聞こえてくる。
「酒がなくなった。それとつまみもな」
「ハッ。酒の方は何合ほどをお持ちいたしましょうか?」
「ふっ。樽で良い」
「かしこまりました」
遠ざかる家人の足音を耳にしながら、今夜の酒は長くなりそうだと覚悟を決める。何せ、樽なのだ。
飯富家としては、どこの家と新たな縁を結ぶべきなのか。その辺りについてこそ、兄者の見解を、意見を聞きたかったというのに。
ただひたすらに惚気話に付き合わされる羽目となりつつあった。いや、既になっている