第十三話 失せる紅天月星旗、興る蒼湖三日月旗
鏡に映っている自らの顔へ視線を向ける。眼の下にはくまが浮き出ていた。頬はげっそりとくぼんでいる。ふと撫でた顎には剃らず伸び放題な無精ひげ。手のひらへざらりと触れる。
「それで良いのだな、源四郎」
「はい、兄者」
「だが、これは」
「おのれの心に嘘を付くわけにはまいりません。この源四郎には、旗指物指南役としての矜持がございます」
「ならば……この兄は何を言えようか」
気がつけば、ひざへ手を添えて深々と頭を下げていた。無意識のうちであった。
ぐいと歯を食いしばって何かを耐えているかのような兄者のお顔。それをこれ以上見続けていることなど心が耐えられそうになかったゆえであろうか。
まばゆきをはなち輝く菱型。周囲は赤く染めあげている。
様々な色合いを試した末にたどり着けた。否、たどり着いてしまった。後悔が全くないと言えば嘘になる。だがしかし、これこそが自らの務め。そう、おのれの胸中へ言い聞かせるより他はない。
「お舘様もきっとご満足してくださることであろう。良き働きを成したな、源四郎よ」
耳へと届くその声はわずかに揺れを帯びていた。
「済みませぬ、兄者」
継ぎの言葉がみつからない。強く握りしめた指先は手のひらへめりこんでいった。こぶしがぶるりと震える。右の手にちくりと刺すような痛みが走る。
ぽつり、またぽつりと。衣の袴へ赤い染みが生じていった。
「何をしておる!」
荒々しい動きで以って右手を取られた末に指を一本一本開かされていく。やがて布を当てられ、ぐるりぐるりと巻かれた。
「まだ、今ならばまだ! 間に合います!」
思わず叫んでいた。
「もう、良いのだ源四郎。この旗の出来栄えを目にしてしまえば、な」
いや、駄目だ。葬り去るべきなのだ。
「やはりこれはなかったことに!」
「うろたえるでない! 忠義を何と心得ておる! 飯富家の紅天月星旗は、うたかたの夢であった。そう思うことにこの兄は……たった今、決めた」
「兄者!」
「顔を上げよ。まことに、まことに素晴らしき旗ではないか」
身体をひねり斜め横へ顔を向けている兄者の姿が目に映りこむ。
部屋の壁には、源四郎の手による新たなる意匠の武田の旗が掲げられている。
完成をみるまでに苦悩に苦悩を重ね、気がつけばお舘様より直々に依頼を受けてから既に三十七日ほど経っていた。
武田家の家紋である四つ菱を金で染め抜き、地の色は朱に近くやや明るい赤。
作成した自らが臆面もなく言い切れる。これは奇跡の旗である、と。一点の非の打ちどころもない。
完璧であった。
今後、日ノ本の諸大名は血の涙を流して悔しがる。きっと、そうに違いない。
赤に金の組み合わせほど華美で、それでいて猛々しさをも有している旗印があろだろうか。これ以上のものなど、この世に存在し得るはずもない。真似をすることは出来るかもしれない。ただし二番煎じのそしりを受ける羽目になる。
もしもそれが武田家と敵対する大名であれば、戦場において大いに笑ってやろう。貴様らの主は真似師よ、盗人よ、と。散々に吼えたて恥辱にまみれさせてやろう。
源四郎は口惜しいのであった。
飯富家の紅天月星旗を戦場で掲げられなくなってしまっている。なかったこととし、取り下げるより他の道はない。
金の三日月、銀の丸星、濃淡を付けて夕暮れの空と雲を再現した赤の地色。
色使いがかぶっていた。
本陣にひるがえるであろう新たなる武田菱と見間違う怖れのある旗を一家臣の家が、飯富家が用いるわけにはいかない。
戦場に無用な混乱を引き起こしてしまう可能性が高いゆえに。
「馬鹿者め。泣く奴があるか」
「泣いてなどおりません。これは、そう。あくびをもよおしたまでのこと」
「そうか、ならばこの兄もあくびが止まらぬ。きっと、そういうことなのだろうな」
「それがしが、依頼を受けさえしなければこのようなことには」
「無茶を言うな、源四郎よ。躑躅ヶ崎館の内館の更に奥へなど、この兄でも滅多に呼ばれたことなどないのだぞ。飯富家にとっては大変な誉れと思いこそすれ、何を嘆くというのだ」
「まことに済みませぬ!」
「終わってしまったことはもう良い。それでどうする」
「どうするとは?」
「決まっておろうが。我が家の旗よ。紅天はもはや使えぬ」
大いなる問題であった。
源四郎は頼まれるがままに新旗の意匠を考え描き形と成していた。青に緑に黒。紫や橙色、黄色、水色。薄緑も灰色も。
結果として武田家家中の多くの家々の旗印は新たなる色を加えている。
出来ることならば他家と色合いがまったく重ならないようにしたい。
だがしかし、その道は源四郎自らの手で閉ざしていた。もはやそのような望みは無理というものである。
今になって、その色使いはなかったことに。などとはどこの家であろうと頼めたものではない。
唯一の救いはこれまでに赤の地色を避けていたことか。飯富家が諦めさえすれば、主家である武田のお家と色合いがかぶる心配だけはどの家にもない。
「一つだけ、作ってはいるのですが」
「見せてみろ」
「しばしお待ちを」
押入れを開け、奥にある箱を取り出す。中から一枚の布地を掴むと畳の上へ押し広げる。黄金に真紅の武田菱を作り上げた後に、悩みぬきようやく形となった一作。
富士のお山を映しこむ湖水のような淡い紺色に銀色の三日月をこれまでよりも大きく配し、逆に丸星は小さく置いた旗。
「題して、蒼湖三日月旗。霊峰富士とふもとの湖、更には夜空より着想を得ました。濃淡をほどこし、三種の青を用いております。よくよく見れば紺地に湖が浮かび上がり、更には月の下に富士山の稜線を描いています」
「おお! これはこれでなかなかに! 紅天旗に比べればやや目立たぬであろうが、甲斐の国の誇りである富士のお山に目を向けるとはな! 甲斐源氏という出自をも示しておる。この意匠も心躍る出来栄え」
「そう言ってもらえるならば」
「もっとも、紅天月星旗に比べればやや地味ではある、な」
さすがは兄者というべきか。鋭い点をついてくる。そうなのだ、比べてしまうとどうしたって迫力の点がわずかに欠けている。青に銀と赤に金ならば、後者の方が押し出しが強いのだ。おまけに、別の問題があった。
「やや目立たない。それだけであればまだしも良いのです。けれどもこの紺色。既に何家かの旗印に用いております」
「なんだと……そうか、そういうことか」
「それがしのせいです! 申しわけもありません!」
旗印指南役などと持ち上げられたあげくにほいほいと他家の意匠を手がけさえしなければ。
武田家の旗印に赤い色を用いてみようなどと思いつきさえしなければ。
戦場において下総千葉家と間違われることなく、それでいて目立つ旗。
兄者の悲願であった。そしていつしか源四郎自身の願いともなっていた。
風林火山旗は幻と消えた。飯富六星旗は炎となり燃え尽きた。そして今度こそは間違いなしと考えていた紅天月星旗すら失われる。なんという運命であろうか。
夢を、ひとたびは手に入れていたのだ。形と成していたのだ。だがしかし、この手で確かに掴んでおきながら自らの不覚により。失ってしまっていた。
目の前が不意ににじみ霞む。奥歯がきしみをあげる。息をひたすらに吸い込む。
「忘れるのだ! 紅天旗などもともと無かった。よいな!?」
「承知!」
「飯富家の旗は蒼湖三日月旗、ただ一つきり! よいな!?」
「承知!」
ぽんと肩を叩かれていた。兄者が大仰にうなずいている。二度、三度、繰り返して。源四郎もうなずく、一度、二度。
「なあに、源四郎の渾身の自信作なのであろう」
「もちろんのこと!」
「ではそれで良いではないか。黄金の武田菱には及ばぬものの、家中で一を目指そうぞ。実力で以って、誇りを以って、蒼湖三日月旗を仰ぎ掲げようぞ」
「兄者に言われなくとも! この源四郎がある限り、きっとそうしてみせましょうぞ!」
「言うではないか。頼もしき弟よ!」
「飲みましょう、兄者。庭に出でて月を愛でながら、紅天旗を燃やしながら!」
「うむ、それは……」
「それは?」
「また賊と勘違いされるのではないか?」
「それもまた一興」
「豪胆な弟よのう!」
「あ、兄者。豪胆はよしてくだされい!」
翌日、源四郎は黄金と真紅に彩られた武田菱を躑躅ヶ崎館の奥の間で披露する。大いに喜ばれたお舘様より碁石金五十粒を下賜された。
ふとした拍子に思い浮かんだ風林火山の語句への恩賞が兄者に二十粒。上田原においての戦働きによって源四郎個人へ七粒と武功感状。そして今回のおよそ四十日も悩んだあげくの新旗の意匠が五十粒。
なお、飯富家としては上田原で三十粒と太刀一振り。塩尻峠で五粒と名馬一頭。
……基準がさっぱり分からない。
兄者へ問うてはみたものの「俺に分かるはずもないだろう」と真顔で言われてしまう。まあ、それはその通りであった。考えても無駄なので気にかけることを止めた。