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第十二話 旗指物指南役源四郎

「ふう。今日のところはここまでにしておこうか」

「はい、源四郎(にい)様」

「そうそう、山根家への旗へ柿色を用いてみては? という提言は見るべきものがあった。源太郎もなかなかに気がつくようになってきたな」

「ありがとうございます!」


 子分という存在は良いものだなあと源四郎はこのところ改めて感じている。飯富家の郎党で年若の子弟も子分と言って言えないこともなかったが、本々の主従関係という壁がどうしてもぬぐえない。

 いや、この場合。子分ではなく弟分というべきか。

 なにより素晴らしいのは源太郎という名乗り。

「これ、源太郎」「おい、源太郎」「駄目だ駄目だ、源太郎」と口にしているだけでも気分がすうと晴れやかになる。

 ……別に源太郎兄者へ隔意があるわけではない。ただ、なんとなくふわりふわりと心が浮き立つのだ。

 真田幸隆殿は嫡男へまことに良き通名を与えられたものよ、と感心せざるを得ない。

 もっとも、多少気に入らないこともあった。十二歳の癖に……背丈が並ぼうとしている。来年の今頃にはきっと追い抜かされているのではないか。想像するだけで腹が立つ。この生意気ぶりについては実によろしくない。やつ当たりだということは承知してはいる。だが、面白くないものはどうしたって面白くはない。



 飯富家の新たな旗となった紅天月星旗。未だ戦場でこそひるがえってはいない。けれども武田家家中においては、その目新しい意匠が大評判となっていた。

 そのきっかけとなったのが――隣国相模武蔵伊豆の大名北条家の家臣である北条綱成が合戦で用いた――地黄八幡の旗という点が多胸中をもやもやさせるものの。今の源四郎にしてみれば心の底から些細なことと、そう言い切れる。何故ならば……。


 源四郎のもとへは「我が家の旗印にも一工夫を加えたい。ついては指南を一つお願いしたい」という依頼が殺到しているがゆえに。


 当初は本来の務めを終えた後で時間を作っていた。

 だがしかし、今では上役の勘定奉行跡部勝輔様から「しばらくは出仕せずとも良い」とお墨付きをいただいているありさま。

 躑躅ヶ崎館の内を務めとしてうろちょろしているよりも、源四郎は余程に勘定方へ貢献していた。

 何せ、税がぐんぐんと入ってくるのだ。勘定奉行としては笑いが止まらないのであろう。

 最近の古府中には甲斐だけではなく近隣の駿河や相模、遠いところでは近江や美濃、尾張に越後といったあたりの商人たちまでもが出張って来ている。


 染料や顔料を扱っており染付けまでを行う染物屋。陣羽織や平服や布生地全般を扱う呉服屋。この二者が主なのだが、他にも遠方の客を泊める旅籠屋。荷運びを請け負う馬を供する馬屋。飲み屋に妓楼などへも思わぬお金が転がり込んでいる。

 彼らの売り上げの内、いくらかは古府中の座(同業協会のようなもの)を通して税となって武田家へ納められる。そしてそれを管理監督している武田家における最上位者が勘定奉行跡部様。税収入が上がれば上がるほどに、当然ながら跡部様の勲功になるという仕組み。

 跡部様だけではない。勘定方として務める者たち全てが余慶を受けている。確度の高い噂によれば、武田家よりお舘様の名で以って勘定方全員に臨時で報償が与えられる日も近い、とのことであった。

 そういった次第で、源四郎が本来勘定方で行うべき職務は誰かが率先して肩代わりを名乗り出てやってくれている。

 昨年の晩秋、郡内岩殿の小山田家へやっかいをかけた件。足かけ十四日ほども無断で勘定方を休んだあげくに復帰した直後は。……あの当時は随分と気まずいものだった。

 けれども今では真逆である。恐らくは誰一人として覚えてすらいないのではないだろうか、と思えてしまう始末。


 源四郎自身も大きく利を得ている。

 同じ武田家家中の家々から貰う一件あたりの旗指物指南料はたさしものしなんりょうなどは微々たる額。

 例えるならば、家の当主ではなく嫡男でもなく三男や四男辺りの婚儀における祝儀金程度。

 なのだが、数が重なれば馬鹿にならない。しかもこのお金、当然ながら返す必要はない。ちりも積もればなんとやらとはよく言ったもので、まさしく山と成っていた。

 どれくらいかといえば、勘定方として支給される源四郎の禄に換算すれば既に三年分を優に超える額が貯まっている。

 しかも、それだけではない。寸志が染物座、呉服座から時折届けられる。

 ……賄賂ではない。断じて違う。当初は断ったのだ。「この飯富昌景に賄賂などふざけるな!」と。

 ところがであった。

「いえいえ、滅相もない。飯富昌景様のおかげで大変に儲けさせていただいております。ついてはそのお礼を、と。些少ではございますが」と言われれば納得せざるを得ない。なるほど、筋として正しい行いであろう。

 いわば季節の挨拶のようなものでございますよ、と商人たちはそう口を揃えてる。

 それもそうか、礼儀は大事であるな、と今では思い直している。

 もっとも時折「この色の生地を仕入れすぎまして余っております。つきましてはなにとぞ昌景様の英知をもって……」と頼まれることがないわけではないのだが。

 とはいえ、旗指物指南役としては門前に市を成すといった様相を呈して久しい。よって源四郎が特に留意していなくても、自然と商人たちの使って欲しい色はさばけていく。




「ところで源四郎兄様。今年は戦は起こらないのでしょうか?」


 珍しくもというべきなのだろう。今は天文十八年(1549)の四月の末。つまりはもう少しすれば田植えの季節となるにも関わらず、武田家はどこにも出兵していない。

 源四郎が見るところ、夏にも秋の稲刈り後にも出陣を告げるお触れは出そうにない。

 昨年、北信濃の大名村上義清相手に上田原の地で大敗していたからである。しばらくは自ら求めての戦は難しい、という見解。

 これについては何も源四郎一人がそう考えているといったわけではない。武田家家中においては多くの者たちの、いわば共通した見立てであった。

 また、武田が兵を出さないからといって、周辺の大名が戦を仕掛けてきそうにもない。

 上田原で負けっぱなしのままであったならば、事態はいくらかは異なっていたのだろう。

 だがしかし、諏訪地方を獲りに来た中信濃の大名小笠原長時を塩尻峠で完膚なきまでに叩いていた。これが効いている。


 加えてお舘様はご武運が大変によろしい、と源四郎は思う。

 武田家の周囲は、小笠原家を除いてどこも武田家へ戦を仕掛けるよりも得られる利の大きな戦線を抱えていた。


 甲斐の南に位置する駿河、遠江、三河(現在の静岡県(伊豆地方を除く)と愛知県東部)を領有する今川家とは十年来の同盟の間柄。更には尾張(現在の愛知県西部)の織田信秀と三河尾張の国境いにおいて昨年より戦が始まっている。


 南東へ眼を向けてみれば相模、武蔵、伊豆(現在の神奈川県、埼玉県と東京都多摩地区、静岡県伊豆地方)の大名北条家がある。

 この家は、昨年初秋における戦勝の余勢をかって、関東管領上杉家の権威を完全に武蔵の地より(ほうむ)り去る為に兵を集中しようとしている。

 その隙を突かれて甲斐から相模へ出兵されてはたまったものではない、と言わんばかりに相模小田原(北条家の本拠地)と甲斐古府中とを使者が何度が行き来した結果、暗黙裡な停戦状態となっていた。


 上野(現在の群馬県)を支配し、関東一円に影響力を有している上杉家は武蔵の地をめぐって北条家と争っている。信濃の佐久郡へかまかけている場合ではない。


 中信濃の小笠原長時は塩尻峠での大敗の傷跡を少しでも回復すべく、まるで殻に閉じこもった貝のようなものとなっている。少なくとも数年間は兵を起こす余力はないであろう、というのが躑躅ヶ崎館に務めている者たちの共通認識となっていた。


 北信濃の村上義清がどう動くのかは懸念であった。だが、南へ向かうよりも越後へちょっかいを出している。

 まあ、それもそうだろうと源四郎も村上義清の判断にはうなずくより他はない。

 村上家からしてみれば南下し佐久地方の覇権を賭けて武田家と新たな合戦をしてまで獲るという選択肢は、苦労の割には得られるものが少ない。

 佐久を獲るということは、上野を支配している関東管領上杉家と直に国境を接することを意味する。

 それでも佐久に、仮に金山や銀山でもあればまた話は違うのであろうが、そんなものはない。どころか、どちらかと言えば小さな盆地が連なる広さの割には実入りの寂しい地である。

 村上家にしてみれば佐久を奪えたところで、南に武田、北に長尾という自らの所領よりも大きな敵を抱えている情勢に変わりはない。そこへ新たな大国上杉を加えるだけであった。

 わざわざ三方を塞がれる為に佐久へ出兵するよりも、武田が動けないうちにと言わんばかりに北を狙って動いている。


 越後(現在の新潟県)が昨年半ばより乱れに乱れていた。

 一代で越後国内を統一した名将長尾為景の死後、嫡男である晴景が後を継いで五年以上経つ。甲斐のような遠くから眺めている限りではまとまっているように見えていたのだが……。

 ある者は独立を画策し、ある者は関東管領上杉とよしみを通じ、ある者は当主の弟景虎を擁して、ある者は日和見(ひよりみ)をし、と一種の内乱状態となってもうすぐ一年になろうとしていた。


 武田家が上田原で被った痛手を回復しない内に、後顧の憂いがない間に越後を村上義清が狙うのはある意味では当然といえた。

 村上家の本拠地葛尾(かつらお)城から北に野尻湖と妙高山がある。その二つを越えた先が越後。

 山越えした先、わずかに六里程度(約24キロ)向こうには長尾家の本拠地春日山城がそびえ立っている。

 この城を制し、至近に位置する直江津の(みなと)を獲れたならば村上家は大きく飛躍出来るに違いない。

 春日山と直江津を拠点として上越(新潟県を三つに分けた最も西側)を領域に加えれば、動員兵力にしても万を超えることになる。

 村上義清の立場に立ってみれば「このような状況下において信濃佐久郡など。いらぬわい」といった按配なのであろうと源四郎は考えている。




「さあ、どうだろうか。多分ないのではないかな」

「さようですか……」

「なんだ、戦に出たいのか? 源太郎は元服にはまだ少し早かろう」

「いえ、そうではなく。真田荘(さなだのしょう)を、一度も目にしたことのない弟たちへ一日でも早く見せてやりたいのです」


 そうであった。源四郎にしても忘れていたわけではないものの、うっかりしていた。

 お舘様のご次男次郎様を信濃小県郡の名族海野家の唯一生き残った娘へと入り婿させた働き。上田原の戦の折に一度は散り散りとなってしまっていた板垣勢を再びまとめあげ戦列へと復帰させた武勲。この二つの功により、真田家は武田家家中にすっかり受け入れられていた。

 とはいうものの、甲斐は真田家の故地ではない。故郷はいまだ村上家の領する信濃の小県郡にある。


「源太郎。焦ることはない。源五郎は二歳、源三郎は一歳。すぐ下の弟徳次郎にしても六歳であろう。ただ今すぐに故郷を見ることがかなったとしても大して記憶になど残るまい」

「言われてみれば、そうですね。さすがは源四郎兄。この源太郎、まだまだ学ぶことが多いようです」

「修練を怠らぬようにな!」

「はい!」


 ああ、これか。こういうことなのか。源四郎は実感する。

 兄者はいつもこういう気持ちであられたのであろう。頼られ慕われていると分かっていると背筋に棒を一本通しているような心積もりとなる。



「それにしても連日のように次から次へと大盛況。古府中一の色師(いろし)とは源四郎兄のことですね!」


 色の付いた見本布を片付けながら聞くともなしに聞いていた源四郎は違和感を感じる。

「待て、源太郎。今、何と?」

「次から次へと大せ」

「その後だ」

 声がわずかに荒くなっていた。


「古府中一の色師とは源四郎兄のこと」

 何を気にしているのだろう? と言わんばかりな無邪気な表情で、源太郎がこっちを覗き込むようにやや首を傾けている。

 十二歳では知らなくても当然のことか。色師とは、すなわち女たらしの意味に通じることを。


「誰だ? 誰から耳にした?」

「あれは確か。そう、隆永叔父上だったでしょうか。父上も頼綱叔父上も手を打って面白き二つ名じゃと笑っておられました。母上はやめなされと言っておいででしたが」


 道理で……ほんの四日ばかり前に兄者とともに真田屋敷を訪れた折、女中たちの態度がそれまでとは打って変わって妙によそよそしかった。近づくだけで避けられていたような。


 く、隆永殿か。言い初めが幸隆殿や頼綱殿であれば、悪意あってと受け取らざるを得ないが。隆永殿では……。これまでの付き合いで学問には長けていないというべきか、苦手というべきか、どこか世間智からは抜けた風のあるお人だというのは承知していた。


「源太郎よ」

「はい、なんでしょうか」

「色師という呼び方は金輪際(こんりんざい)禁止とする」

「ええ!? 格好良い二つ名でありませんか。もったいなくはないですか?」

「とにかく禁止だ。ところで本日は幸隆殿、頼綱殿、隆永殿はご在宅か?」

「父上は所用あって数日留守にしておりますが、叔父上たちは屋敷におられます」


 幸隆殿はご不在か。もっとも、あのお方なら誰に彼に言って広めたりなどはしないであろう。ならば、後日でもかまわない。急がねばならないのは隆永殿だ。釘を刺しておかねばらない。


「そうか。では、源太郎よ。頭を使ったゆえ疲れを取りに軽くつまみに行くとするか!」

「では! あれを!」

「そうよ、甘い垂れをかけた団子よ」

「あずき団子も!」

「こらこら。あまり欲を張ると夕餉が腹へ納まらなくなるぞ。そうなってはこの源四郎がそなたの母者に小言を言われてしまう。そうなれば」

「なれば?」

「残念だが、旗作りの手伝いは難しくなる。当然手間賃も渡せなくなってしまうな」

「それは……困ってしまいます。今日は、みたらし団子のみといたします。あずきは後日の楽しみに取っておきます」

「よい分別だ。では出かけるとし」


 と、その時であった。廊下を小走りに渡ってくる家人(けにん)の姿を視界がとらえた。

「昌景様」

「おう、どうした」

「ただ今、門前に躑躅ヶ崎館よりお舘様のお使者が見えておいでです」

「兄者に、ではないか。本日は躑躅ヶ崎館に詰めておられるはず」

「さようでございます。なんでも昌景様にご用とかで。広間に上がっていただく様に別の者が案内しております最中です」

「承知した。急いでまいろう」

「ハッ」

「っと、源太郎よ」

「はい」

「聞いての事情よ。ともに団子を喰らいに行くことは出来なくなった。ゆえに」

 手招きした後に、銭を手渡す。


「こ、これほどの額。多くございます。夕餉が食べられなくなってしまいます!」

「勘違いするな。そなたのお母上、弟たち、叔父上殿らへの土産の団子代も含んである」

「あ、なるほど。いつもご配慮ありがとうございます」

「なあに。源太郎にはよく手伝ってもらっているからな。そうそう、頼綱殿に言伝(ことづて)を頼みたい」

「なんなりと」

「くだんの件、止めていただきたく、と」

「承知いたしました。きっとお伝えしておきます」

 意味が分からないであろうに、それをいちいち聞き質したりなどしない。成長した暁には良き将となっているに違いない。源四郎はふとそう感じた。

「では、またな」

「はい!」




 広間で使者に接した後、源四郎は躑躅ヶ崎館へ馬で向かっていた。

 ただの使い番ではなかった。お舘様一番のお気に入りといわれている近習(きんじゅう)春日虎綱(かすがとらつな)殿であった。


 なんでもお舘様が直々にお待ちである、とのこと。ただ事ではない。

 春日殿と並ぶように古府中の街を馬を進ませながら、鐙を蹴って手綱をしごきたくなる衝動を抑えこむのに苦労を強いられてしまう。戦時でもないのに馬を通りで疾走させたりれば町人どもを不安にさせるだけである。そう承知してはいるものの、もどかしい。

 じれったさが頂点に達した頃、ようやく躑躅ヶ崎館へいたる。その後も春日殿に案内されるがままに奥へ奥へと(いざな)われていく


 大広間ですらこれまでにただ一度きりしか入った覚えがない。それが内館の奥深くへなど。もしや兄者に何か変事でもあったのであろうか、と気が気ではなくなる。

 用件はなんであろう。わずかに二歩ほど前を歩んでいる春日殿へ尋ねるわけにもいかない。

 内密である、とだけ聞かされている。

 問われるがままに口を割るような者が――たとえそれが親兄弟や親しき知己相手にですら――お舘様の近習など務まるはずもない。ましてや、今日初めてあった者になど。

 下手な考え休むに似たり、という兄者の口癖を思い出す。

 やがて六度ほど扉をくぐり、更には廊下を何度も折れ曲がった末に、一際重厚な雰囲気の扉の前へとたどり着く。

 二名ほど座っている見張り番が、源四郎の上から下までをじろりと眺めていた。その後、春日殿へうなずき向きを変えて「飯富昌景殿、ご到着!」と声を発している。

「入れ」とすぐにお舘様の、やや甲高いがよく通る応えが返ってきた。



 緊張していないと言えば嘘になる。ごくりと唾を一つ飲み下す。両側よりさっと開けられた室内へと歩を進めていく。

 武田家第十九代当主晴信様と、実質的には二十歳にして源四郎は初めて対面する。



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