第九話 良策の波紋
荒々しい足音が廊下を伝わって部屋の中にまで響いている。待つほどもなく、がらりと音を立ててふすま戸が勢いよく開け放たれた。
「どこだ? どこにある!? 早う、早う見せい!」
兄者が呆然とした表情で立ち尽くしている。
「さあ、それは」
畳の上を飛ぶように駆け寄ってきたあげくに両肩をがしりと掴まれ、ぶんぶんと身体を揺すられてしまう。
「痛い。痛いです、兄者!」
「これは済まぬ。まだ左肩の傷が完治していないのを、ついつい忘れておった。それよりも」
「っと、先に言うべきことをうっかりしていました。こたびの大勝利、おめでとうございます」
「そんなことはどうでもいい!」
どうでも良いのだろうか。そんなわけはない。苦笑せざるを得ない。
「いやいや、旗が勝手に逃げたりなどはいたしませぬ。先に聞かせてくださりませ」
「旗が先であろう!」
「もったいぶるわけではありませんが、この源四郎の自信作。ひとたび目にしてしまえば、戦の話などきっと兄者の頭から吹き飛んでしまいましょう」
「それほどにか」
「はい。我がことながら、この才が恐ろしくなっております」
「じらすのう。歯がゆい! とはいえ、源四郎がそこまで言い切るのであれば仕方がない。後の楽しみとするか。旗を見ながら戦の話など、上の空となるか。そうかそうか、それほどにか」
「ふっふっふ。がっかりなど、させませぬ」
「勝つには勝ったがなあ」
「圧勝であった、と躑躅ヶ崎館では皆が話しております。ですが、その割には詳細が伝わってきません。ゆえに気になっているのです」
「しかしなあ、どう言えば良いものか」
そう言ったきり、どかりと腰を降ろしあぐらを組んでいた。ううむううむ、とうめいている。
「簡潔に言えば」
「言えば?」
「阿呆が阿呆らしい戦を仕掛けてきたあげく、阿呆ゆえに転んだまでのこと」
随分と酷い言い方もあったものだ。と言うより他はない。
中信濃の大名小笠原長時が五千の兵を引き連れて諏訪に攻め寄せてきたのがおよそ二十日前の七月の中旬。
対して、上田原合戦における大敗北とその後の長対陣による損耗の跡も生々しい武田は、迎え撃つ為の動員が常に比べれば遅れに遅れてしまう。
ところが、であった。逆にそれが小笠原勢の疑心暗鬼を誘ったらしく、諏訪の要衝である上原城から徒歩にしてわずか半日の高原で進軍を停止。
武田がようやく二千の動員が成った時点ですら、小笠原勢は進みもせず退きもせず。だけではなく、方針をめぐって内輪揉めを起こし、幾人かの国人領主は勝手に帰ってしまうありさま。
本来ならば少なくとも三千が集まるまでは古府中で待機の予定であった武田勢は、この内紛騒動の報せを聞いたお舘様のご決断によって、急遽出陣。
と、ここまでは躑躅ヶ崎館に務める武田家家中の者ならば、誰もがその事情を承知していた。
「もう少し具体的に」
「甲斐から信濃へ入ってみれば小笠原勢は既に諏訪の地より撤退しておった。数を減らしたとはいえ四千五百近くは擁しておきながら、二千相手に戦うこともなく退くなど。いったい何しに来たのやら、だ。ところで源四郎よ、塩尻峠は知っておるか?」
「当然のこと。諏訪地方から見れば中信濃への出入り口でございましょう」
「さよう。小笠原長時はその塩尻峠に陣を張り迎撃の構えを見せていた。我らは夕暮れ前にようやく上原城へ着いて一休み。と見せかけて」
「では長駆して夜襲を?」
「ふ、源四郎はまだまだ青いのう。真夏の夜に山攻めなど出来るはずもなかろう。たいまつでも付けて山中へ分け入るのか? わずかに一人でも不注意者がいれば、枯れ木に火が移ってしまおう。やがては敵も味方も関係なしで火事に巻きこまれてしまうではないか。一時的な占拠すら考えていない地ならばともかく、諏訪は武田領ぞ」
言われてみれば当たり前のことであった。ただ戦に勝てば良いというものではない。領民に恨まれてはどうしようもない。かあっと顔が朱に染まる。
「これは恥ずかしき見識を」
「聞かなかったことにしてやろう。他の者には言うなよ」
持つべきものは兄である。その優しさが身に染み入る。
「とはいえ、着眼点は悪うはない。汚名返上をしてみせろ」
優しいだけではなく厳しい兄者でもある。がっかりさせるわけにはいかない。
「ハッ、承知」
「上原城においてお舘様は城の方々に旗を掲げられ、同時にたいまつを赤々と燃やされるようにご指示を出された。意図を読めるか?」
「つまりは、城より動いてはいないという形をわざわざ晒していたということ。ならば、それは虚実の虚。秘かに城より出で塩尻峠に向かうのが実、でしょうか?」
「そこから先は?」
勝つというだけなら策がいくつか思い浮かぶ。だがしかし、伝わってきているのは圧勝。それも二千で四千五百相手にであった。
さすがにこれ以上は分かりようもない。小さく首を振る。
「それにしても暑いのう」
「まあ、夏ですし」
「今宵も寝苦しいのかのう」
「今は真夏ですから。あ!」
思わずぽんと膝を叩く。
「分かったか」
「夜明けとともに奇襲ではありませんか。小笠原勢からしてみれば、お味方は上原城にまだいると信じこんでいたはず。何せ、甲斐より駆けて信濃は諏訪に到着したばかり。城に泊まって疲労を抜いていると、そう思うでありましょう。ならば、明日以降の戦に備えてこちらも無駄な体力の消耗は避けたい。鎧具足などを身に着けたまま寝るよりも、肌着一枚の方が余程に眠りやすい」
「正解じゃ。奴らの多くがふんどし一丁であったわ。慌てふためいておった。そうなれば後は芋を突くようなものよ。もはや戦というのも恥ずかしいほどであった」
「双方の損害はどれくらいで?」
「我らは二十四人。小笠原勢は千と三十七討ち取った」
「それはまた凄まじき」
笑うしかない。上田原における敗北を、武田は弱いのではないのか? という疑念を。完全に拭い去ったようなものであった。
「小笠原も阿呆よ。もしも上田原での対陣中に兵を出されていれば、どうなっていたことやら分からぬ」
分かる。分からぬと口にしている兄者も分かっている。
佐久郡は村上へ、諏訪郡は小笠原へそれぞれ割譲。武田にとって最も良い和睦の条件ですら、ここら辺りではないだろうか。
「確かに。兄者が先ほど言われたように、阿呆が勝手に転びに来た、と」
「そういうことよ」
「それにしても鮮やかな手並み。機を見るに敏。いったいどなたの立てられた策でしょうか?」
「この兄……と言いたいところであるが違う。上原城の公事奉行(領主の政務を補佐する役職)の一人で山本勘助という者よ。お舘様に献策したき議あり、と軍議の途中に訴えてきおった」
「聞かぬ名。いや、お待ちを」
「なんだ、知り人なのか?」
どこかで聞いたことがあった。いや、違う。
「思い出しました。今より三年ばかり昔に、板垣信方様のお屋敷に所用でうかがった時分のこと。三河からの浪人を召抱えたと。なかなかに面白き男よとおっしゃられ引き合わせていただいた覚えが。ただ片足がいくらか不自由な様子で、おまけに隻眼。更には五十にはなっていなさそうでしたが四十は確実に超えていそうな風貌。ゆえ、板垣様も酔狂なことを成されるものと。そうですか、あの者が」
「ほう、そのような履歴の男であったか」
「今の今まですっかり忘れていました。以降、一度も板垣様のお屋敷どころか古府中でも見かけたことがありませんでしたので」
「板垣様はそのご生前は諏訪上原城城代でもあられた。ずっと諏訪の地に配していたということだろうな」
「それにしても」
「なんだ、源四郎」
「信方様亡き後、上原城城代はご嫡男信憲様が継いでおられますが」
「……ああ、そこに気付いてしもうたか。その心配か。ならば隠しても仕方がない。困ったものよ、どうしたものであろうか。俺にとっては義理の従兄弟に当たるゆえ、今後のことが気になる」
板垣家で召抱えてわずか三年の者が、城代でもある主君を通さずに直訴。
兄者の口ぶりによれば、上を軽んじる功名心の強い男、という線はないらしい。
こういうことであろう。
板垣信憲様は山本勘助より事前に献策を受けている。聞いた上で策に興味を示さなかった。だからこそ、山本勘助は軍議の席にその資格も無しに押し入って来た。
そうでなければ、困ったもの、という言葉にはならない。
小笠原長時の油断をものの見事に突いた策。
武田勢が諏訪入りしたその当日。それも上原城に入って直後ではなく少なくとも日が完全に暮れて後の時間帯での軍議。この二つの条件が重なっていなければ、小笠原勢に気取られる可能性を少なからず有していたはずである。
上はお舘様から下は足軽に至るまで、その日は城で夜を過ごすと考えて甲斐から信濃諏訪へ向かって行軍していたのであろう。そこに嘘はない。ゆえに、不自然な態度など誰も取りようがない。
入城してすぐ後の軍議でも駄目だ。完全に夜となっていることが大事。
かがり火が夜更けて後に更に増えれば、夜襲を警戒していると端から見れば見える。何せ、甲斐より信濃まで駆けて来た軍勢なのだ。
こうなってしまえば、小笠原方の間者であろうと物見であろうと油断する。まさか、夜更けに突如出撃する為の擬態だなどと見抜けるはずもない。
とはいえ、もしもこの払暁の奇襲が翌々日以降であれば、小笠原勢もその軍勢のいくらかは不寝番に立て警戒をしていたであろう。
策とは良策となればなるほどに活かせる時機や条件がきわどくなる。その見本のようなものであった。
そして……これほどの策を反故にしたとなれば、理由は二つのうちの一つしかない。
武田家に害意があるのか。余程に無能なのか。
どちらにしても、兄者にとっては他人事と捨て置いて良い話ではない。
兄者の奥方結衣殿は、故板垣信方様の亡き兄信広様の娘であった。
「どちらでございましょうか……」
思わずつぶやいていた。ハッとして素早く顔を上げる。視線の先には上目遣いの、まるで天井の梁の数を数えているかのような虚ろな表情をした兄者の姿が映っている。
「どちらか、であればまだ良いのだ。打つ手はある」
兄者の声色には憂いの気が多分に混ざっていた。
「意趣ありというのであるならば、山本勘助なる者はとうに死んでおろう。もしも仮に俺が信憲殿の立場で主家に遺恨を抱いているのならば必ずそうする」
「兄者よ」
「もしも、の話よ」
「分かってはいますが」
「強欲ゆえに自らの策として披露するつもりが後手を踏んでしまった、と考えるのはやはり無理があるか」
「さすがにそれは。信憲様は筆頭宿老のお子であり、既に上原城城代を継いでおられます。なれば、黙っていても家老にはなれましょうし、いずれは宿老の席にも。配下の、信憲様のお立場から見れば小さな手柄を奪う必要は全くないはず」
「それゆえに、よ。分かるか、源四郎」
「はい」
「いいや、分かっておらぬ。というよりも実感が湧かないといったあたりか」
「信広様が身罷られた当時、それがしは六歳でしたゆえ。ぼんやりとしか」
「それもそうか。板垣家には、この兄は大きな世話を受けている。父盛昌が亡くなった当時、俺はわずかに十五歳で元服もしていなかった。お前は産まれたばかり。叔父上たちも既にこの世にはおらず。飯富家は禄を大きく削られるか、取り潰されるか。ご先代信虎さまの御世においてはどちらかであっても不思議はなかった。それを陰日なたに援けていただいたのが信広様、その恩がある」
「されど叔父上たちの所領は……」
「源四郎、それは欲深に過ぎる」
「済みませぬ、仕方がないこととは頭では分かってはいますが、つい」
「まあ、な。つい、と思ってしまうその気持ちについては俺も全く同意だ。だが」
「当然、他言などいたしません」
「どうしたものであろうか」
「もしも信憲様が信広様のお子であれば兄者は義兄。であれば、まだしも」
「そうよな。義理の従兄弟というのは難しい。ただ、信広様に受けた恩はまだ返しきれていない。この兄はそう考えている。それを心に留め置いておいてくれ」
「承知いたしました」
このような話となってしまうならば。
先に旗を披露しておけば良かった。源四郎は後悔の念を覚えていた。