第八話 考える源四郎 後編
突然に話が飛んでいた。
もっとも、口ぶりや表情をうかがうに先ほどまでの話と繋がってはいるらしい。どう関連しているのかは不明であるものの。
そもそも誰でもとまでは言わないが、武家の者で両人を知らぬ者などいるのであろうか。
「それはもちろんのこと。天下を取”ら”なかった大名が大内義興。そして、それほどの大名の好敵手が尼子経久」
「この甲斐よりはるかに西国の事情にも関わらずなかなかに学ばれておられますな。まさにその通り。きっと、天というものは気まぐれなのでしょう。まれに不可解な賽を振られる」
「確かに。何も近しき国に政戦ともに抜きん出た名将を二人並べて置くこともないでしょうに」
源四郎は頭の中を整理する。
長門(現在の山口県北部と西部)を本拠地としたのが西国将軍の異名を誇った大内義興。
出雲(現在の島根県東部)に本城をかまえていたのが八州太守と呼ばれていた尼子経久。
間に石見(現在の島根県西部)が挟まっていたものの両家の緩衝地帯とはならず、逆にこの石見こそが、正確にいうならば石見にある銀山こそが両家にとっては血で血を洗うほどの大紛争地であった。
何せ石見銀山はその産出量の桁が馬鹿げている。この山一つで日ノ本の他の金山銀山の存在が霞んでしまうほど豊かな鉱脈なのである。
米に換算すれば年間で五十万石相当とも六十万石分とも、いやいや七十万石は堅かろうとも言われている。
これがどれほどかといえば、石見銀山一つを領することで一万五千から二万もの兵馬を養い得るに等しい。更には米とは異なり、冷害も水害も干ばつや台風も無関係。
ちなみに六十万石というのは、甲斐と信濃の二カ国を合わせた石高をわずかに下回る程度。
「どちらか一人しか同時代に生きていないのであったならば、せめて領国が接していなければ、この戦乱の世はきっと昌景殿が生まれた頃には治まっていたのではないか。それがしはそう思うています」
「とすれば十九年ほど前には、ということになりますね」
「さよう。そしてその両人が懸命に味方として取りこもうとしていたのが、今項羽(昔の中国の猛将)とあだ名されていた我が武田の先々代元繁様」
知らぬ名、であった。恐らくは香川元秋殿の旧主家筋にあたるゆえの誇張であろうか。
「ふむ、そのような名など耳にしたことがないとお顔に書いてありますな」
「まあ、ありていに申せば」
ずばり指摘され、苦笑せざるを得ない。
「こう言えばいくらかは伝わりましょうか。過ぐる年のこと、元繁様の奥方が病で身罷られました。喪が明けるやいなや大内義興の娘が元繁様の後添いに入ったのです。そしてそのふた月後には尼子経久の娘がご嫡男の正室として嫁いできた、と」
「それは……」
思わず絶句してしまう。無茶苦茶としか言いようがない。
つまりは事実上の人質を両家より受け取っていた、ということ。味方につかずともかまわないが、せめて敵にだけは回ってくれるな、ということ。そしてそれを大内、尼子という大大名がともに暗黙裡に認めていた、ということ。
なるほど、大陸のいにしえの英雄項羽もでたらめなほどに強かったと言われている。今項羽という二つ名は満更誇張ではないらしい。
「我が武田の先々代元繁様は、生涯で一度しか戦で負けたことがありませんでした。大小合わせて九十二勝一敗」
「なるほど。凄まじいまでの戦巧者であられたのですね」
「ですが、そのご生涯において唯一の負け戦で命を落とされてしまう」
「いったいどれほどの大軍に攻められたのでしょうか?」
「千五百」
「は? あ、いや。これは失礼を」
「いえ、よろしいのです。千五百を相手におよそ七千で戦われ、大敗北の末にお討たれもうした」
「大内、尼子のどちらに?」
「どちらでもありませぬ。多治比元就に、今は毛利家を継いでいる毛利元就という男に。もしも、それまでに一度でも負けの味をご経験なされておられれば、と悔やまれてなりませぬ」
「毛利元就、ですか……」
「今はまだ無名でしょうが、覚えておかれた方がよろしゅうございますよ」
「香川殿がそこまで言われるのですから、その名を心に留めておきましょう」
「さて、話を甲斐の武田に戻しますれば。なるほど確かに村上義清相手に敗北。ですが先ほども述べましたが、逆から見れば負けても晴信公はご健在。ならば、これからこたびの負けを教訓となさればよろしい」
「とは言われましても。先ほどの香川殿の言を借りれば、我がお舘様は意地になられておられるわけです。上田原の地より退くのは難しくありませんか?」
村上勢の大攻勢を凌ぎきった後、武田勢は退くことを選ばなかった。上田原の地で依田川を挟んで村上勢と現在も対陣を続けている。
堀をうがつだけでなく、川の水を引き入れて水堀とし、板塀を並べ、柵を配し、櫓を建て、雨露をしのげる陣所や小屋を設けてのそれは、野戦陣地の域を超えている。ありていにいえば、にわかごしらえの城に篭っていた。
もう何日になるのであろうか。源四郎は胸中で指折り数えてみる。おのれが籠に乗せられて信濃上田原を離れて既に二十二日。
とにもかくにも先に、村上勢に退いて欲しいのだろう。そうすれば武田が佐久郡に攻め寄せてきた村上を撃退した、守り通した、という形にはなる。
もっとも、飯富家屋敷に半ば引き篭もっている自分にも、西国浪人香川元秋殿にも容易にそうと察せられているお舘様の意図である。
村上側もその辺りは充分に承知しているわけで、当然ながら陣を退こうともしない。
村上義清からしてみれば野戦で大勝しており、しかも本拠地葛尾城とは、甲斐古府中から上田原までの距離に比べればはるかに近い。
長対陣が一日伸びれば伸びるほど、武田の方が国力を消費していくだけであった。
負けは負けなのだから早く戻れば良いのに、と思う。だが、そのような心情を誰に彼に言えるわけでもない。香川殿とは立場が異なる。
とはいえ、古府中に残る多くの武田家の人々のお考えは一致しているようであった。ちらほらと耳に入ってくる噂話によれば、お舘様のお母上大井様とご正室三条の方様が連名でお舘様へ説得の文を出されたとかどうとか。
「ふむ、昌景殿のその口ぶり……。余程危機感に乏しいのか、それともそれがしのような立場の者の耳には入れられぬ、告げられぬ事情を知っておられるのか」
「まあ、それはそうでしょう。としか拙者の立場としては言えません」
「当然のことです」
「済みませぬ」
「それでは何故、たかが浪人がここまで甲斐武田のことを気にかけるのか語っておきましょう。どこかの間者ではないかと疑われても困りますので」
「まさか、間者などとは思ってもいません」
「ああ、これは言葉が足りずですな。飯富家の方々が、ではなくこの古府中におわす他の方々に昌景殿が尋ねられた時の為に、です」
話題が変わり、胸中でほっと一息をつく。
香川元秋殿に、信は置いている。そもそも、あれほどの死地に自ら望んで飛びこむだけでなく、満身創痍となって半ば死にかけてまでの戦働きをする間者などいるはずもない。
けれども、突き放した表現をすればしょせんは浪人に過ぎない。
明日は甲斐にいるであろう。だが来月は? 来年は? そういった点を踏まえれば、際どい話は避けるにこしたことはない。
「強い武田、というものをこの眼で見てみたかったのです」
「はあ」
予想外過ぎて間の抜けた返事しか返しようがなかった。
「我が武田は……先々代元繁様がまさかの戦死をなされて以降、坂道を転げ落ちるように凋落しました。それでも先代光和様は傾く家を必死に支えてこられましたが、ご心労がたたってか今より八年前の天文九年(1540年)に故人に。ご当代信実様は遠い分家筋から入られたのですが一年ともたずに本拠の城を失い、以降は安芸に一度も足を踏み入れることもなく出雲の地でずっと尼子家の客分に甘んじておられます」
我が武田は……ではない。いかんいかん、香川元秋殿の口ぶりに影響されている。
安芸の武田家は、大名としては滅亡していたのか。
なるほど、ようやく腑に落ちた。ならばこれほどのお方が浪人というのもうなずける。
信実というお人が元繁公、光和公の直接の血を引いているのであれば話はまた違うのであろうものの。代を継いですぐに落城という頼りなさに加え、七年もの歳月をひたすらに客分。とても仕える気にはならないという気持ちは分かる。
「それがし、今年で三十二歳となります。つまりは、元繁様の、大大名ですら怖れていた頃の、我が武田の御世については父祖より聞いているのみ。あこがれているのです、強き武田に」
「なるほど、それで甲斐の地へ?」
「さよう。ただ残念なことが……」
「残念とは?」
もしもである。上田原で負けたお舘様の采配をあげつらうのであれば、この飯富家屋敷に逗留してもらうわけにはいかない。武田家家臣の家の者ならばともかく、浪人にとやかく言われる筋合いではない。自らが当主ならばまだしも、兄者の立場というものがあるゆえに。
とはいえ、あの戦の折におのれ個人が受けた恩は大である。だから、出来うる限りのことはしよう。怪我が治るまでは古府中の旅籠に費用はこちら持ちで泊まっていただこう。
とっさにそのように考えをまとめ、源四郎は香川元秋殿の応えを待った。
「甲斐には海がございませんな」
「は? ああ、いえ」
「昌景殿は海を見たことは?」
「諏訪の海ならば」
「あれは湖です」
「似たようなものなのでは?」
「なんと! まるで異なります。潮風の匂い。行き交う船。港で揚がる新鮮な魚。そしてそれを刺身にして飲む酒。甲斐ではいずれもがかなわぬこと」
「まあ、それはそうでしょう」
としか、応えようがない。何せ、湖を何十倍何百倍と巨大にしたのが海なのであろう、という程度の認識しか持っていない。海魚と言えば、干し物か塩漬けくらいしか思い浮かばない。
「上田原の戦いにおいて、強き武田を見させていただきました」
「いや、負けてしまいましたが」
あっ、と思わず自らの口を押さえる。なんたる、うっかり。
「ようやくお認めになられましたな」
「確かに、負けでしょう」
不思議なもので、口にしてみればなんだかすっきりとしていた。胸中のもやもやっとしたつかえが失せていったような気がしている。現金なもので、何かを成そうという気力も湧いてきているような心持ちである。
「とは申せ。甲斐の武田は負けこそしましたが、それがしは驚嘆したのですよ。あの、村上勢の騎馬隊が武田左翼を迂回しようとしているのが分かった時。陣に残った者は誰もがとっさに覚悟を定めているように見えました。あなた方のような人たちが我が武田にもいれば……と羨ましくなりました」
「まあ、それは。お舘様は英邁なお方ゆえ。ご先代信虎様とは異なり家臣を些細なことで手討ちにされることもありません。手柄を立てれば恩賞を惜しまれませんし。甲斐国内の治水や往来の警備などに費えをいとわず、領民の暮らしぶりにも心配りなされておいでですから。それらのご恩に奉公で応えているわけです」
別に百戦して百勝出来るわけでもなし。それはもはや人ではない。神仏の、例えば戦の化身である毘沙門天の領域。
いつも負けるほど弱ければ国が滅ぶしかない。とはいえ、それも極端な話。
要は、周辺の諸大名に侮られない程度には戦の采配を振るえるお方がご主君であれば良い。その点において晴信様は及第点どころか戦上手の部類に入るのではないか。
ご当主となられて以降の七年間。今回村上義清に負けるまで、一度も敗北されていない。充分ではないだろうか。
「強き武田の一端を見させていただき、大変感謝しています。怪我がいくらか治れば、駿河より船を伝って安芸の国へ戻りますが、それまでは飯富家のご好意に甘んじさせてもらいます」
「戻られるのですか。拙者は部屋住みの身に過ぎませんが、兄虎昌は武田家の重臣の列に連なっています。ゆえ、仕官の口でしたらお任せいただければ。いえ、実のところ兄からも香川殿は仕官されぬのか? と文で問われている最中でして。それとこれはお舘様がこの古府中へ戻られて後の話となりますが、武功感状(その人物が戦でどのような活躍をしたのかを大名の名で以って記した書状。仕官において待遇を決める参考にされる)を出していただけるよう手筈を進めております」
「これはうれしきお話。たかが浪人に武功感状ですか。しかも仕官の口利きまで。これほどの厚遇、心が動かぬと言えば嘘になりましょう。武田菱の旗の下で再び日々を過ごせるなど夢のようですな。ただ、妻子を残しての、香川家の当主光景の好意による一人旅でございます。それがしの一存でことを決めるわけにはまいりませぬ」
「ああ、そういう事情でしたら、まずいでしょうね。家の問題となれば勝手は難しくありましょう。ならば、甲斐を旅立たれるまでは、この地でごゆるりと過ごされてください。費えは全て飯富家が持ちますゆえに」
「かたじけなし。ご縁がありましたならば、いえ安芸に留まるを決めたとしても必ず一度は便りをお出しします」
「是非とも、ともに我が武田を支えていければと思っています」
「我が武田、ですか」
しまった。またもや、ついうっかりである。言いように感化されていた。
口をつむいだきり、うつむかれている。
その様子を目にしているだけで胸にじんと響くものを感じた源四郎は、香川元秋殿の部屋を無言のままで目礼して去った。
漢の涙というものは、他人が無闇にのぞき見て良いものではない。