第八話 考える源四郎 前編
昼のひなかから畳の上でうたた寝をし、腹が減れば飯を喰らい、時折は手持ち無沙汰の者と語らい、日が暮れれば酒を飲む。
源四郎は、はたから見ればぐうたら者と化していた。
もっとも、源太郎兄者や飯富家の郎党たちが近くにいれば何くれとなく用事が降って沸いたはずで、これほどには暇とならなかったのかもしれない。
しかしながら、皆はまだ信濃は上田原の戦場にいる。
よって、自分自身ではこれも良い機会だとばかりに様々なことへ考えをめぐらせている。いわば、雌伏の時……のつもりであった。
とはいえ、まるで遊蕩児のようだ、と暮らしぶりをかえりみて自嘲しないわけでもない。だが理由はある。どうしようもないものが。
身体を満足に動かせないのだ。大きな怪我だけでも三つも負っていた。
左腕は骨が折れており、添え木をあてて固定している。
左肩はわずかに動かすだけでも、うめき声があがるほどの苦痛をともなう。深い切り傷が開かぬようにと縫い、軟膏を塗った上から布を巻きに巻いていた。
右の足首はくじいており腫れ上がっている。こちらも左肩と同じく何重にも布巻きにして動かぬように固定。
このようなありさまではどこへ行くにも杖が手放せず、もちろん馬になど乗れるはずもない。
籠での移動は出来ないこともないものの、左腕の自由がまるで利かず、右足は踏ん張れずで、ともすれば中より落ちそうになる。
いや、実際のところ信濃の上田原の戦場から古府中までの道中で三度も地面に転がっていた。余計に怪我が悪化した気がしている。とにかく、あのような思いは二度とごめんであった。
結果、余程のことがない限り飯富家屋敷内の自らの部屋とせいぜいがその周囲。それだけが源四郎にとって日々を過ごす範囲となっている。
おまけに、何かを積極的にしようという気力をいささか欠いている。
上田原の戦いにおける最終盤、何度も死線をくぐり抜けていった。
さすがにもう無理だろう、といよいよ以って覚悟を決めた途端に救援が間に合い、辛うじて命を拾う。
もちろん生き残れたのはとても嬉しい。だが、一方では肩透かしをくらった気がしないでもない。
加えて、身近な人々が大勢命を落としている。
義姉上の叔父であった板垣信方様。威厳に満ちあふれすぎていた偉大な武人にはお会いするたびに気が張っていた。だが、もうお目にかかれることは二度とない。そう思えば、なかなかに寂しい。
飯富家の郎党では右山佐市、吉岡数馬、安井良助、岸野正則、木野三四郎、羽田伊平が故人となった。いずれも我が家自慢の剛勇の士であり、源四郎が幼い頃より親しく接していた者たちでもある。
村上方の須田満親と屋代基綱の連合騎馬隊は余程に強かったということなのであろう。
そして……遠山康治も。
他には飯富郷の各村出身の顔と名前が一致する足軽たち。
あの戦においておのれの為に命を張ってくれた遠山康治については、とりわけ心が痛む。
生き死にについてではない。
それは是非もなしと割り切るより他はない。板垣様も郎党たちも武士であり、合戦においては敵が死ぬように、味方も命を落とす。哀しくはあるが当たり前のことであった。
けれども、康治についてはいささか事情が異なる。わざわざ、ほぼ死ぬと承知の上で源四郎の下へ残ってくれていた。
弓足軽の采配をともに委ねていた浪人香川元秋殿の言によれば、獅子奮迅で暴れまわったあげくに村上方に取り囲まれ、同時に六本の槍でもって天へ突き上げられたそうだ。それでも命尽きる寸前に、宙に浮いたままで小太刀を投げつけ一人を倒したという。
見事に生ききったというより他はない。
それほどの最期を、働きぶりをわずかにしか見届けてやれなかった。この点が悔やまれてならない。主家の者としては、実に情けないとしか言いようがない。
おぬしは見ていただけか、と香川元秋殿を責めるわけにもいかない。
何せ、源四郎よりも傷だらけである。実際、倒れ伏しているのを見つけた当初は、既に事切れているとしか思えないありさま。
額と頬を斬られ顔から胸辺りまでが血に染まっていた。もっともそれは他に比べればほんのかすり傷のようなもので、右腕とあばら骨が三本折れており、右脚のすねは深く斬られ、左脚の太ももは槍で突かれ肉がえぐれていた。
完治すれば元通り動かすにあたり支障はないという点だけが幸いと言えよう。
何故、源四郎が一浪人の怪我について詳しいのか。それについては理由がある。
香川元秋殿は武田の軍勢に加わった当初は多田満頼殿に陣借りしていたわけで、飯富勢での陣借りは当然ながら多田満頼殿の許しを得てのことではない。
もっともこの辺りの事情については兄者より話を通してもらい、更にはもともと源四郎と多田殿は同じ武田家勘定方へ出仕している気心の知れた仲ということもあって、両家の間で取り立てて問題となることはなかった。
ただ、浪人ゆえに持っている金が尽きれば路地で物乞いでもするより飯も食えなくなる。怪我を治すどころの話ではない。
とはいえ、源四郎にはそのような不義理をする気は毛頭なかった。
理由は明々白々。
遠山康治や河野彦助のとった死を覚悟した行動についてはまだしも納得出来る。なお、彦助は無数の傷を負ってはいたがいずれも軽症であった。よって古府中での療養組には加わらず上田原に留まっている。
両名は飯富家の郎党として、主家の者の為に忠節を尽くしてくれたのだ。そう思えば良い。おのれがお舘様を守らんが為に二百五十で千五百へ立ち向かったのも、武田家という飯富家にとっての主家の為である。
いわば、同じことと言えた。
ところが香川元秋殿は事情が異なる。十中八九どころか限りなく十中十で死ぬであろうという状況下で、わざわざ加わってくれている。
そんな男を路頭に迷わす不義理を成すくらいであれば、腹をかっさいばいて死ぬ……とまでは思いつめないものの、出家して武士であることを辞める道を選びたい。
武門の家の者として恥どころの話ではない。心根が人ではなく、畜生となってしまう。いや、畜生ですらぺっぺと唾を吐くのではないだろうか。
そういった事情もあって、飯富家屋敷において客人扱いで香川元秋殿は起居している。
当然ながら郎党たちの起居する離れ屋敷ではなく、母屋に、源四郎の自室の三部屋ほどしか離れていない部屋に寝泊りしていただいていた。
二人とも杖なしではまともに歩けもしないというゆえに。しかも朝から晩までじっとしていることが治癒に繋がるがゆえに。両人ともする事もないゆえに。飯富家に仕える他の者は当然日々成すべき務めを抱えているゆえに。兄者や他の郎党たちは不在ゆえに。
自然と源四郎にとっては、ここ最近で最も多く話をしている相手が香川元秋殿となっていた。
「昌景殿よ。上田原の戦、負けは負けです。そこから目を背けてもろくなことにはなりませぬぞ」
「ですが、今も退いてはいませぬ」
「まあ、それは。あれでしょう」
「あれとは?」
「甲斐武田の晴信公の意地なのではありますまいか。されど、一日でも早く退いた方が良い」
意地、か。確かにそうなのかもしれないと源四郎も胸中では秘かに感じてはいる。
ご先代様を駿河に放逐され武田家十九代ご当主となられて以来、お舘様は戦で負けたことがなかった。
ところが先月の、天文十七年(1548年)三月早々の村上義清との合戦は全く異なる。負けっぱなしであった。
まずは、小県郡において武田が待ち受ける形での決戦を強いるという狙いをするりとかわされ、逆に上田原の地にまで誘いこまれてしまわれた。
大目論見(後の世で言う戦略)で一敗。
次に、上田原における戦の采配。
村上義清に二度も手玉に取られてしまう。
がっぷり四つに組んだ戦闘で力負けを装って退いてみせ、追撃にかかる板垣様、甘利様の両隊と武田本隊とを引き離しておいての包囲攻撃。おまけに予め川を堰き止めこれ以上はないという機に放流させ、武田本隊が救援に動けなくするという村上側の念の入れよう。
これでお味方は大損害を被る。なんと言っても、板垣信方様と甘利虎泰様という武田家の二大宿老を討たれてしまった。
作戦で一敗。
更には、村上勢の総攻撃においても村上義清の動きを見抜かれたつもりが更に上をいかれ、兄虎昌と――おのれでいうのも照れくさいのだが――この源四郎昌景のふんばりがなければ、ご本陣が崩壊していたかもしれない。
作戦で二敗。
合わせて三連敗。良いとこなしである。
今までで一度も負けたことのないお舘様が負けて負けて負けていた。世の中は広いということなのであろうか。
「負けても良いのですよ。甲斐まで攻めこまれているわけでもないですし」
「負けても良いとは、どういう意味でしょうか?」
「たまに小さく負けるくらいがちょうど良いのです。一度も負けたことのない大名がいると昌景殿は思われますか」
「いや、それはいないでしょう」
「さよう。ですが、負けないことが続き過ぎれば負けを認められなくなってしまい、大やけどを負う羽目となります。もっとも、今回甲斐の武田様は大きく負けられました。ただ、全軍総崩れとならず晴信公もご健在。良きご武運をお持ちなのでありましょう」
「なるほど」
「我が武田は……」
この男が、香川元秋殿が、我が武田と言う時は必ず安芸(現在の広島県西部)の武田家のことを指している。
当初は話題にのぼるたびにいくらか混乱しないでもなかったものの、今では源四郎も慣れている。
なお、武田という家名が示すように甲斐武田家とは元をたどれば同族。ただし、三百年以上も昔に分かれた家になる。全く無縁の家というわけでもないが、ほぼ他人と言える。
「時に昌景殿は、大内義興と尼子経久という大名をご存知かな?」