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第七話 上田原の戦い 後編

 武田軍は菱型の形に似た魚鱗(ぎょりん)陣を組んでいる。

 ◇の中央頂点に飯富勢六百弱。

 右翼主将小山田信有(おやまだのぶあり)、副将横田高松(よこたたかとし)勢七百。

 左翼主将原虎胤(はらとらたね)、副将小畠虎盛(おばたとらもり)勢七百。

 菱型の中央が本陣で武田晴信千五百。

 中央後方に後備(あとぞなえ)武田信繁五百。


 一方の村上軍は軍を四隊に分け、上向き矢印のような鋒矢(ほうし)陣を敷いている。

 ↑の中央頂点に須田満親(すだみつちか)千六百。

 右翼屋代基綱(やしろもとつな)千二百。

 左翼井上長基(いのうえながもと)千。

 中央後方に村上義清千七百。予備を兼ねる後備はいない。




 幾分数を減らしながらも、飯富勢は村上勢の先鋒須田隊の攻勢を真正面より受けて立っていた。

 依田川を超えて攻め寄せてくる村上勢は六千を割っており、その数およそ五千五百。

 対して武田は開戦時こそ八千を数えていたのだが、そのうち四千を板垣隊と甘利隊が占めており、残りの四千で武田家の宿老板垣信方様と甘利虎泰様を屠って士気が上がりに揚がっている村上勢と戦っている。

 板垣、甘利の両隊が全滅したとは源四郎には思えない。

 だが、追い散らかされているのであろうか。将を失ったがゆえにまとまりを欠いているのであろうか。

 村上軍の後方をおびやかす気配は未だみえない。


 先鋒の飯富勢はおよそ三倍に近い須田軍の攻勢をひたすらに耐え続けている。

 元々は依田川を渡る臨時の橋をかける為にこそ用いるつもりで、多く揃えてあった木板。これが幸いしていた。

 最前線にずらりと埋めこんで板塀とし要所要所には槍足軽を配し、まるで針ねずみのような半方円陣(お椀を伏せたような形)を敷いている。攻めに微塵も色気を見せることなく、ただひたすら守りに徹していた。


 後ろに一歩でも後退すれば武田の全てがそれこそ村上勢に飲みこまれてしまうに違いない。

 いわば濁流の中で屹立している岩のように踏みとどまることこそが、飯富勢の果たすべき役割であった。


 五度目の矢が、雨の如く降り注ぐ。「小盾を上げい」という命令が陣のそこかしこで響く。どすん、ばすんと板塀や盾に矢のめりこむ音が轟きわたる。

 だが、全てを防げるものでもない。武運つたなく矢に身体を貫かれてしまった者たちが漏らす悲鳴も方々で響いていた。



 源四郎は陣の最前線付近で飯富隊の槍足軽、その一部を指揮している。

 今は、矢攻めによる被害を確認し終え、わずかに気を抜いていた。

 と、その時である。

 やや後ろにざわめきを認め何事かと振り向いてみれば、数人の郎党を引き連れ将兵を激励しつつまわっている兄虎昌の姿がそこにあった。

 源四郎は小走りに駆け寄っていく。


「兄者よ、せっかくの機を充分に活かしきれず、すみませぬ」

「何を言う。あの林の中で二度にわたって敵を殲滅したのであろう。小十郎より話は聞いておる。都合八十九人ほども討ち取ったとな」

「ですが……」

「そうよな。欲を言うならば、もう一度は敵を引きつけられたであろう、な。だが、初めての戦にしては上出来。省みるならば、次の機会に活かせばよい。この兄は心底そう思うておる」

「ハッ」


 次、か。そもそもこの戦を生き延びられなければ次などない。

 弱気に傾きそうな心をぐいと引き上げにかかる。息を吸って、更に吸う。吐き出し、吼える。

「よいか者ども! 須田満親は我ら飯富の勇猛さが恐ろしいらしい! それが証拠に三度ほど撃退した後はどうだ! 離れて矢ばかりを降らせているではないか! 須田の臆病さを笑うてやるがよい!」

 どわはっは、と応ずる叫びが陣内へこだましていく。


「村上義清め、さすがは戦巧者と言うべきか。まったく忌々しい攻め方を仕掛けてきおる」

 その声には幾分以上に焦燥が感じられた。


「兄者よ。それがしが思いますに、どうも戦ぶりに濃淡がありはしませぬか」

「源四郎、何が言いたいのだ?」

「我らが対峙しております須田満親といえば村上義清の右腕とも目される猛将。にしては、いささか戦いぶりに粘りがないような。と言いますのは、それがしが小勢でもって横入りして討ち取った連中。音に聞こえし須田の配下にしては、振り返ってみればそれほど戦慣れしていなかったように思えます」


「ふむ。いくら板塀をこしらえて野戦築城めいた陣で我らが待ちうけているとはいえ、攻めがあっさりし過ぎておるということか」

「まさに、そのような気がしてなりません。更にいえば、このような弱腰の輩に板垣様や甘利様が、いくら策にはめられたとはいえ短時間の内に討たれるものでしょうか?」


「彦助、貴様はいかが見ておる」

「ハッ。それがしの見立ても若様と同じです。若様の言を耳にするまで気がいってませなんだが、言われてみれば確かに不可思議。軍勢の編成を極端に、強さにわざと差をもうけているやもしれぬと」

「確かに、な。だが、なにゆ」

 兄者のそのつぶやきはかき消されていた。飯富勢から見てやや右の後方より荒々しい馬蹄の轟きが伝わってくる。

 そこは小山田様、横田様の合わせて約七百が陣を構えている辺りで、もうもうと土砂が舞い上がっていた。

 しばらくして土煙がややおさまる。と同時に、見たくはない旗を目がとらえていた。

 丸に上の字の、村上義清の本陣を示す大旗が騎馬武者の群れとともに踊るように突進し続けている。一方で小山田家の家紋をあしらった立ち沢瀉(たちおもだか)の旗は揺れていた。

 また、後手を取らされている。だが、そうと分かっても源四郎個人に出来ることなどない。


「そういうことか! 我らは足止めをくらわされておるのか! おのれ村上義清。右翼を一気に抜いてお舘様の本陣を突く算段とみた! なれば!」

「兄者! 出てはなりません! 動けば敵の思う壺です!」

「だが、あれは。村上義清自らが率いておる最精鋭勢ぞ。数にしても井上と合わせれば村上勢は四倍近い。戦上手の小山田殿に横田殿であろうとも、いくらも時がもたぬぞ!」


「小山田勢、後退中!」「横田勢、下がりつつあり!」

 見ていれば分かる。誰だ、つまらぬことを叫んでいるのは。

 源四郎は太刀の柄に思わず手が伸びそうになっていた。完全なるやつ当たりである。そうと承知していても苛立ちは収まらない。周囲に目を向ける。ぶうんとうなりの響きを耳がつかまえる。


 六度目の矢雨が飯富勢目がけて放たれていた。「小盾!」「応っ!」「小山田勢、更に後退中!」「本陣より急使!」「飯富様はどこにおわす!?」

 背に百足(むかで)の旗指物を背負った武田本陣よりの使い番が、後方より馬乗りのまま駆け込んでくる。

「飯富様!」

「ここにおるぞ!」

「馬上より失礼いたします! お舘様より! 飯富様は動くべからず! 小山田勢の退きは策なり!」


 その言葉の与えた効果は絶大であった。この場の重苦しい空気をほんのわずかの間にひっくり返していた。

「話せ!」

「ハッ。右翼の小山田様はただ下がるのではなく斜めに退かれ、勢いのまま前に押し出してくるであろう村上の軍勢を引き伸ばします。そこをお舘様とご舎弟信繁様の合わせて二千で挟み討たれます!」

 おお! と周囲の者たちから喜びの歓声があがる。

「分かった! では我らは須田勢を止めるに専念しておけば良いのだな?」

「さようでございます」

「問うが、左翼の原殿はいかがいたす?」

「飯富様と同じく、村上の右翼屋代勢を止める命が伝えられているはずです。では、これにて失礼!」


 再び後方の本陣目指して駆けていく百足衆の後ろ姿を頼もしく思い、しばしの間眺めていた。

 ふと兄者よりの強い気配を感じ振り返る。目が合う。不安に彩られている。突然、がしりと肩を掴まれ声とともに息が皮膚に触れる。


「源四郎」

「ハッ」

「須田の約千五百。いくらならば半香の時を(約20分。半分に折った線香が燃え尽きるまでの時間)防ぎきれる?」

「兄者、まさか……」

「なあに、万が一のことよ。一応聞いておこうと思うてな」

「四百。いえ、防ぐだけであれば三百で四半刻(約30分)は」

「三百五十だな、承知した」

「お舘様の挟撃は、はまりませぬか?」

「万が一じゃ。あくまでも念のために、な」

「そう考えらておられる理由をお教えくださいませ」


 応えがない。余計な不安を煽るだけ。ゆえに、聞かせたくはないということであろうか。だが。

「兄者の見立てを。この源四郎、次の戦においての(かて)と成したくあります」


「次……か。その意気や良し。ならば語ろう。戦の前の物見によれば村上勢はおよそ六千であった」

「はい」

「板垣様、甘利様を討ったとはいえ無傷なはずもなし。五百から千は減っておろう」

「それくらいは当然」

「五千五百としてみてもだ。今、我らが対峙している須田の手の者どもが千五百。残りは」

「およそ四千と少々」

「村上義清は、我ら飯富勢なかなかに抜けぬ、と見切ったのであろう。須田の陣をよおく見てみろ」

 

 言われるがままに三百間(約150メートル)ほど先に位置する須田勢へ源四郎は視線を向ける。手前に弓手、中ほどに槍組。ざっとで千五百。これは飯富勢がおよそ百ほど討ったゆえに人数としてもおかしくはない。つまりは特に変わった点など見受けられない。

「別段におかしなところは」

「よいか、源四郎」

「ハッ」

「騎馬は、須田満親と奴の郎党どもはどこにおる」


 見えているつもりで、まるで見ていなかった。おのれのうかつさに源四郎は愕然とする。

「お、おりませぬ」

「ならばどこに?」

「恐らくは」ごくりと唾を飲みこむ。嫌な汗が額に吹き出る。「村上勢右翼の屋代基綱と合流して我が方の左翼を」


 返事を聞く必要はなかった。敵の右翼およそ一千が怒涛のように走り始めている。武田の左翼七百を指揮する原様の陣を目がけて突撃を開始していくありさまを、目の端でとらえていた。

 だがしかし、一千ならば。いくら須田の精鋭が加わっていたとしても。

 いや、違う。そうではない。騎馬の数が異様なまでに多い。そしてその騎馬が原様の陣地を襲うにしては妙な位置取りを駆けていた。


「防ぎきれぬ。というより原殿、小畠殿にしても我らと同様に板塀を並べて陣を囲うようにして守っておるのだ。騎馬隊に避けられてしまえば止める手段がない」

「つまり、回りこんで後方から武田のご本陣に?」

「恐るべきは村上義清。村上有利の戦況にも関わらず自らを躊躇(ちゅうちょ)なく囮にしおった。七百の小山田勢に三千近くもぶつけられてはお舘様は本隊を出さざるを得ぬ。いや、むしろ、お舘様は村上の隙と見られたに違いない。ゆえにご本陣のみならず、いっきょにかたをつけるべく後備の信繁様の手勢をも投入されたのだ。されど、それをも見切った上で、もう一段の手札を用意しておったとは」


 須田勢、動きます! という叫びが陣中のそこかしこで響きわたる。千五百が飯富勢の守る陣地目指して駆けに駆けて来ている。


「それがしは二百五十ほどで事足ります! 確実に、そして絶対にあの騎馬隊は止めねばなりませぬ! 飯富家の郎党も、寄騎の三枝殿に相木殿はもとよりその郎党も全ては兄者が率いてくだされ!」

「ならぬ! それではお前が!」

「寄騎衆の当主とその郎党たちを死兵として用いるなど、飯富家の恥となりますれば! お連れくだされい!」

「相分かった! 月星の大旗は源四郎、そなたに預けておく! 四半刻耐えよ!」

「なあに、それがしなど。ここで死んでも大したことはありません。たかが飯富家の部屋住み。領地もなければ妻もなく、子もおりませぬ。けれども、もしもお舘様に万が一があれば、武田そのものが崩れ去ります」

「よう言うた! 屋代と須田の騎馬勢を屠って後、必ず戻る!」

「承知! さ、早う!」


 すぐさまにあわただしくも整然と、兄虎昌に率いられた飯富勢の中でも選りすぐりの武者たちが約三百ほど。騎馬百二十二、槍足軽百六十四が陣を離れていった。

 わずかの間、後方を向き源四郎は去っていく皆の雄姿をその眼に焼き付ける。振り向けば、早くも須田の軍勢が百四十間(約70メートル)にまで迫っていた。


「よいか、飯富の者たちよ! ここが節所ぞ! なに、一人が六人を討てば済む! ただそれだけのことよ!」

「応っ」「お任せあれ!」と吼える者どもの半ばは顔が引きつっている。半ばは開き直っているのか、歯をむき出しにして笑っている。

 だが、臆している者は見受けられない。それが強がりだとしても、随分と心強く源四郎には感じられた。


 弓手の者ども、と声を張り上げるべく息を吸いこんだ刹那。

「弓手、かまえい!」

 叫ぶがごとく、源四郎に先んじて命じる声が耳へと届く。見ずとも分かった。郎党の遠山康治であった。

「おぬし、何故残った!」

「今の虎昌様には弓勢の指揮を執る者など不要につき!」

 声の震えを源四郎は必死にこらえる。

「康治、任せた!」

「弓手の者ども、よおっく狙え! まだだ。まだ、まだ。今だ、はなてえい!」

 ぶおんとうなりが轟く。八十近くの矢が須田の軍勢へと吸いこまれていく。


「若様よ」

 背後から呼びかけられる。

「お前もか、彦助!」

「虎昌様には小十郎が付いておりますれば、拙者は源四郎様のお供つかまつろうかと」

「馬鹿が二人も。だが」

「三人ですな」

 そう言うやいなや、素早く弓を引き絞り放っている。一瞬の後、先頭を駆けていた一際大柄な鎧武者がどうっと仰向けに倒れこむ。額に矢が生えていた。

「香川殿……」

「拙者、飯富の御大将様とともに陣を離れたつもりだったのですが、何故だか道に迷ってしまいもうした。また、はぐれてしまいもうした。ゆえ、昌景殿に陣借りしたく!」

「馳走、ありがたし!」




 千五百もの軍勢による総攻撃を、いくら板塀があろうとも二百五十で防ぎきれるものではない。

 既に陣地の中ほどにまで源四郎の指揮する飯富勢は退いている。

 前は、全てが敵であった。

 ここで群がってくる大軍を止めきれなければ。この陣の崩れが早ければ、お舘様の軍勢に横入りされてしまう。騎馬がただの一頭もいないので対処は可能だろうが、手勢を割かなければならないことに変わりはない。

 たとえ兄者が見事に左翼を迂回して迫る騎馬どもを喰い破ろうとも、また後手を踏んでしまう。


 まだだ。時を充分には稼げていない。まだ、死ぬわけにはいかない。

 千五百を数えた敵のうち五百は地に倒れ伏したまま動かない。だが、二百と五十を数えていた味方も既に半数は討たれている。


 残りの半ばは弓足軽。郎党の遠山康治と浪人香川元秋殿に弓手の采は委ねていたが気にはなる。扱い慣れぬ槍や太刀でいくらの時が稼げるのだろうか。

 ……今、それをおのれが案じたとてどうなるというのだ。源四郎は小さくかぶりを振る。

 ぽかりと、時が空いてしまっているゆえか。とはいえ、どうせすぐに敵があらわれる。それまでは身体を休めよう。


 一息つけば視界の端に映るは、彦助の槍さばき。

 太刀がすいと伸びている。かわしざまに槍を繰り出し、素早く貫いていた。

 その姿に頼もしさを覚える。なるほど見事なものだ、と。


 鎧具足ががちゃりがちゃりと響いている。近づいて来る。

 討っても討ってもわらわらと押し寄せてきていた。

 太刀がうなりをあげて迫りくる。左腕を押し出すようにぶつけた。鈍く鋭い痛み。だが、斬られてはいない。篭手で勢いを削いでいる。

「こなくそがあ!」

 折れそうな心を叱咤すべく吼え、右腕一本で槍を横に()ぐ。突きを避けるように一歩退いていった敵は、まるで咎めるかのような表情を残して倒れ伏す。首の骨を槍の柄で叩き折っていた。


 旗が、月に星の旗がぐらりと揺れ、見えなくなる。かっとなり源四郎は駆けた。足で踏みつけようとしている無礼者へ無言で応える。放り投げた槍は具足を突き破り、愚者の(はらわた)を地へ縫い付けていた。


「お見事」

 聞かぬ声とともに左腕がかっと熱くなる。斬られていた。槍が。そうだ、おのれで失っていた。走りながら太刀を抜く。

「村上は、名乗りもしないのか!」

 叫んでおきながら、ここはそのようなぬるい戦場(いくさば)ではないと承知していた。ただ、乱れている息をわずかにでも源四郎は整えたかった。


 双方ともに討ち取った相手の首を掻き切っている者など皆無。

 この陣は抜かせない。抜いて進む。どちらかにしか価値はない。


 四歩の間。じわりじわりと輪を描くように足をはわせる。太刀の構えで知れる。こいつは強い。一人で相手をするなど馬鹿げていた。いったん退かねばならぬ。


「これは失礼。拙者は雨宮利清(あめのみやとしきよ)。我が弟正利(まさとし)を討った者を探しておる。飯富の家中ということだけ分かっている」


 そうか、おのれが生涯で初めて討ち取った男の兄か。ならば、是非もなし。源四郎は覚悟を定める。

「それがし、飯富虎昌が弟昌景。貴殿のご舎弟を討った者」

「一対一でか?」

「さよう」

「ならば良し。正利も悔いてはおるまい。だが、死ねい!」


 後ろへ、いや前こそが活路。太刀を中段に構えて飛びこむ。左肩へわずかに衝撃が走る。肩袖ごと斬られていた。

 二歩目を踏み出した瞬間、既に事切れている誰かの腕を踏みつけてしまう。脚元が揺らぐ。咄嗟に身体をひねる。右手に握る太刀が何かとぶつかり、その勢いのまま手から離れていった。

 源四郎は地を、半ばは自らの意思で転がっている。二の太刀、三の太刀を避けなければならないゆえに。けれども追い討ちがこない。いぶかしく思いつつも、かわしきれたと胸を撫で下ろす。

 急ぎ起き上がってみれば、ちょうど目の前に腕が転がっていた。雨宮利清の右腕であった。


 なんだこれは。これが武運というものなのか。

 まともに対峙しては到底かないそうにもなかった相手にこの結末。自身はもとより敵手をも侮辱しているようにすら感じられた。

 呆れ、座りこみたくなる。

「お見事。とは言い難いがせ」

 何を最後に言いたかったのか。どうっとうつ伏せに倒れた雨宮利清という男の心根など分かるはずもない。


「若様、ご無事で!」

 全身を返り血で真っ赤に染めた河野彦助が駆け寄ってくる。背後には四人ほどの手勢を引き連れていた。

「申したでありましょう。将たる者が最前線で槍太刀を振るうのは余程の時でございます、と」

「まさに余程の時ではないか」

「ではありますが」

「それよりも旗を」

 月に星の大旗が再び掲げられる。

 それは周囲に倒れている武田方、村上方など関係なしに数多の者たちの血を吸ったあげく、変じていた。

「随分とまあ、赤うございますな」

「空も、血を流しているのであろう」


 じりじりと、新たな敵が迫って来ている。およそ二十歩の距離。その数、十六。

 右の足がちくりと痛む。左腕は動かない。

 時は……稼げただろうか。半香刻(約20分)は超えていよう。四半刻(約30分)にはいくらか不足かもしれぬ。だが、ここで。足らぬ時は稼ぎきってやれば済む。


「旗持ち。名は!?」

「飯富郷は中原村の善次郎」

「よし、善次郎。貴様は我らより先に死ぬことを許さぬ!」

「ハハッ」

 応えを聞くやいなや身をひねり、一歩ほど前へ足を踏み出す。

「村上方の衆に申し上げる! 旗持ちには、この五人が息絶えるまでは一切の手出し無用と願いたし!」

「さすがは飯富家というべきか。その気概の発露、敵ながらお見事! しかと請けたまわった!」


 ああ、そういえば。源四郎はふと思い出す。

 なんだ、この手があったではないか。旗印は、何も白地に黒と決まりがあるわけではない。地を赤く染め上げれば、それでよいのだ。

 この発見、兄者にきっと伝えねばならない。ただ、伝える手段がない、か。喜ばれるであろうにな。


「そろそろよろしいかな、飯富の衆よ。須田満親が家老古屋保隆とその郎党。いざ、まいる!」

「飯富虎昌が弟昌景。この首、安う獲れると思うなよ!」


 と、その時であった。源四郎の眼に新たな旗が飛びこんでくる。

 どどどどと大地を揺るがす響きを耳にしたのであろう。古屋保隆と彼の郎党どもが足を止めて、背後を振り返っている。


「若様、見たことのない旗が。無念にござる。敵の新手が!」

 彦助の声はすぐ隣から聞こえているはずなのだが、まるで十歩も二十歩も離れているように感じられた。

 突然、笑いがこみ上げてくる。腰から崩れそうになる。脚に力をこめて必死で踏み止まる。

「あれはな! 真田幸隆殿の六文銭旗よ」

「なんと! では板垣様の手勢をまとめあげて?」

「そういうことであろうな。背後にはほれ。板垣様の地黒花菱旗もひるがえっておる!」



「村上の衆よ! 三途の川の渡し賃はこの真田が払うてやろう! なあに、心配するな! 六文銭くらい百が千でも屁でもなし! それっ、かかれええい!」


 長い、な。しかしながら、よくもまあ駆けながら馬上より噛まずに言えたものよ。そこだけは認めよう。おのれと兄者には残念ながら無理というもの。



 背後からも馬蹄の轟きが伝わってくる。そちらは見ずとも分かった。

 もしも屋代と須田の村上勢ならば、この陣を襲うはずもなし。お舘様の後方を突くに決まっている。青洟(あおばな)を垂らしている童にでも理解出来る道理。

 つまりは、飯富の精鋭を率いて兄者が戻ってきたのだ。


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