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第一話 幻の風林火山 前編

「疾はやきこと風の如ごとく! 徐しずかなること林の如く! 侵掠すること火の如く! 動かざること山の如し!」


 旗に記されている文字は、疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山。

 間違いない。何度見てもそう記されている。

 源四郎(げんしろう)は目をくわっと見開き、口をぽかんと空けていた。

 う、嘘だ。どうしてここにその旗が!?


 これこそが源四郎の生涯を彩ることになる迷走と苦悩。その始まりであった。




 話は六日ばかりさかのぼる。


 ふすまをあけると赤い顔をした兄者があぐらをかいて座りこんでいた。畳の上に転がっている酒壷は一つや二つではない。

 日も暮れぬうちから飲んでおられるとは。

 ……まあ、とても喜ばしいことがあったので気持ちは分からないでもない。それにしてもこの量はいかがなものだろうか。

 ふぅとため息を一つつく。


源太郎(げんたろう)兄者! 祝い酒でございますね。義姉上様よりお聞きしましたぞ。本日はお館様(やかたさま)よりお褒めの言葉とともになんと碁石金を二十粒も頂戴されたとか! まことにおめでとうございます」


 一粒あれば馬を、それも駒齢の若い戦馬を六頭は購える。米で計算すれば五十石はくだらない。ざっくり言えば、碁石金一粒あれば五十人が一年間に渡って毎日米を食べられるということ。それを二十粒も!

 我が家は別に困窮しているわけではない。ないものの、米に換算すれば千石分に値する臨時収入は大きい。何せ領地からあがる米は年間で約千二百石。

 少なくはないのだが、丸々使えるわけでもない。およそ三分の二ほどは屋敷で仕える者たちへの手当てなどでなんやかやと消えていく。そこから更に武具やら馬やらの費えもかかってしまう。二百石分に相当する金穀が余ればその年は万々歳と言えるだろう。

 もっとも、この二百石にしても使い切るのは論外であった。翌年の米の獲れ高が平年並みとは限らない。よって、出来る限り繰り越しておく必要が生じる。

 つまり、兄者はおよそ五年分の余剰収入に匹敵するほどの褒美を戴いてこられたわけだ。喜びのあまり酒を飲みすぎたというのはむしろ当然、か。


 ……にしても木戸を締め切って飲むのはいただけない。部屋中が、こう酒の臭いでぷんぷんとしている。


「おい、源四郎よ。何がおめでとうございます、だ! これはあ、嬉しい酒ではない!」

「え? 違いますのか?」

「いや、喜んでいないわけではないぞ。お館様から、さすがは兵部(ひょうぶ)よ、勇だけはなく智もあるか。とまで誉められたのだからな。だが……せつない酒でもあるのだ! 俺は、俺はあ!」

 そう吼えるかのように叫び終えるとともに突如ぱたりと仰向けに倒れ、やがてごろりごろりと畳の上を部屋の端まで兄者が転がっていく。

 柱に額をぶつけたようでごつんと鈍い音が聞こえる。目を覚ますのかと思いきや、ぐうぐうと大いびきをかいたまま。起きる気配は微塵も見受けられない。

 今日は、駄目だな。もはや話すことはかなわぬ。

 開けたばかりのふすま戸をそっと閉め、その場を後にする。



 翌早朝、源四郎は朝の稽古に精を出していた。庭にしつらえた藁人形を的として槍を一心不乱に突き打っていく。

 

「まだまだ、だな。切っ先が甘いのう」

 屋敷の渡り廊下の端より声が届く。パッと振り向くやいなや一目散に駆けた。


「兄者、おはようございます! ところで、昨日は確認しそびれたのですが、あの文言についてはいかが相成りましたでしょう? 私は結構気に入っております。なかなかに心躍る語句でありますまいか。よろしければ出入りの商人にでも依頼を出しておきましょうか」

「う……あれか。いや……もう、あれは。もう、よいのだ」

 頭をぶんぶんと振りながら兄者が顔を半ばしかめている。やはりと言うべきか、二日酔いなのであろう。


「はあ、さようでございますか。まあ、兄者がそう言われるのでしたら源四郎は構いませんが」

「気の迷いであった! あれについては一切を忘れてくれい! そんなことよりも。どれ、この俺が直々に稽古をつけてやろう」

「ありがたいことです。けれど、酔いが残っておられるのでは?」

「なにおう。なかなか言うようになったではないか。だがこれくらいの酔いで弟に後れを取るような兄ではないわ」

「はい、源太郎兄者!」




 それから五日ほど経った後のことである。

 この日、武田家家中の主だった家の者へ躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)へ参上するように、とお館様よりのお触れが発せられていた。源四郎も躑躅ヶ崎館へと馳せ参じる。

 未だ元服していない身分の者は不参加であっても別段咎められることはない。しかしながら、こういった機会でもなければ躑躅ヶ崎館の内へなどなかなか入れるものではない。特に今回は出来る限り参集するように、との一言がわざわざ添えられてあった。


 外庭にたむろしている未だ元服していない少年たちの一群の中を前へ、前へと掻き分けつつ源四郎は歩を進めていく。皆が自分の姿を目にすると「しょうがないなあ」と言わんばかりに前を譲ってくれる。

 理由がある。

 身丈が低いのだ。ざっとで頭二つ分くらいには。

 もっとも、兄者はどちらかといえば大男の部類に入るし、亡き父も背は低い方ではなかったと伝え聞いている。なので源四郎はそれほど気にはしていない。まだ成長の時期がおとずれていないだけのこと、と信じている。

 ……本当はちょっと気にしていた。


 ようやくにして最前列に陣取れた源四郎は一息入れながら、その場よりひょいひょいと首を伸ばして内庭の辺りを見渡してみる。やや家格の低い方々が早くも列となって並んでいた。

 やがて、それほど待つこともなく武田家の重臣の皆様方たちが一人また一人と姿を表してくる。

 我が源太郎兄者は? と探すまでもなくすぐに見つけられた。

 家臣筋では筆頭の板垣信方(いたがきのぶかた)様と甘利虎泰(あまりとらやす)様よりいくらか下がった位置に、飯富家(おぶけ)当主である兄虎昌(とらまさ)の勇姿を認められたのである。

 それを確認した源四郎は小さく一つこぶしを握るとともに、誇らしげにうなづく。


 と、ちょうどその時であった。

 どんどんどん、という太鼓の音に合わせて屋敷の木戸ががらりと開けられる。自然と眼が向かったその先には、お館様が、甲斐武田家第十九代ご当主晴信(はるのぶ)様のお姿が見受けられた。


 おのれも早う元服して外庭ではなく内庭の列の中へと加わりたいものだ! などと思っているうちに、気がつけば太鼓は鳴り止んでいた。

 一転してシンと静まりかえっている。


 よくよく考えれば。源四郎は小首を振りつつざっと左右を見渡す。

 おのれもそうだが、元服していない者たちまでもかき集められている。これは余程に素晴らしき報せがあるに違いない。

 何であろうか?

 たとえば太郎様、次郎様、三郎様、四郎様に続く男児がお生まれになったとか。それとも信濃小笠原家を一気に飲みこむべくの戦の号令がこれより告げられるとか。

 

「一同、本日はよう集まってくれた!」

 色々と頭の中で思い描いていると武田晴信様の凛としたやや高い声が伝わり響いてきた。ハハーとばかりに片膝をつきつつ頭を下げる。内庭、外庭を問わず、全ての者が同じ姿勢を取っている様子が気配で伝わってくる。

「よい、(おもて)を上げい。今日は、嬉しきそして誇らしき報せがあるのだ。兵部、前へ」

「ハッ」


 思わず。源四郎の身体はびくんと小さく跳ねていた。

 なんと源太郎兄者が武田家家中一同の前で、板垣様に甘利様という両巨頭のみならず原様や横田様に小畠様といった重臣のお歴々を差し置いて、お館様よりの名指しで真っ先に名を呼ばれている。その光景を目にしているのだ。興奮するなというのが無理というものではないだろうか。


「うおおお!」と歓喜の声が喉から溢れ出そうになる。けれどもぐっと腹へ力を入れてこらえる。だが、どうやら気配までは消しきれなかったらしい。

 誉れじゃなお主の兄上は、と周囲の者たちよりの囁き声が耳へと伝わる。ありがたきことです、と源四郎も小声で返しを入れていく。


 やがてお館様の前へと進んだ兄者は、小姓より何やら長き布を巻いた(さお)を手渡されていた。


「本日より武田は四つ菱の旗に加え、新たに我らの気概を示す旗を本陣に用いることとなった。兵部よ、皆にも披露してやれい!」

「ハハッ」

 間髪を入れずに兄者がお館様の命に応じている。

 天に届けとばかりに突き上げられたその右手に握られている旗には、文字が躍っていた。

 

 むぅ、ここからでは!

 見えないこともないが何せわずかではあるが風が吹いており、文字がゆらりゆらりと揺れている。読みづらいことこの上ない!

 源四郎はもどかしくなっていく。

 だが、その焦燥はすぐに失せて消える。兄者の張り上げる大音声が辺り一面へと響き渡っていた。


(はや)きこと風の(ごと)く! (しず)かなること林の如く! 侵掠すること火の如く! 動かざること山の如し!」


 旗に記されている文字は、疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山。

 ほうほう、なるほ……。

 え!? ええー!?

 源四郎は驚いてしまう。目をこれ以上ないほどに見開き、更には口をあんぐりと空けていた。

 どうしてそれがここに? わけが分からない。


 どんどんどん、と太鼓が再び鳴らされていた。

 ハッと我に返り、視界の先へ映っている光景へ意識を集中していく。

 ざわつきが一瞬で静寂へと転じている。


「皆、見たな! そして聞いたな! これこそは武田の新たなる旗印よ!」

 お館様のおごそかな声が耳へ伝わってくる。

「わしは常々悩んでおったのじゃ! 四つ菱旗以外にも何か欲しいものよと! されども、なかなかに良き知恵が浮かばぬ。半ば諦めておった。と、そんな時のことである。この兵部より、飯富兵部少輔(ひょうぶしょうゆう)虎昌よりの実に優れた提言があった! それが!」


 一息を入れられたお館様が兄者の吼えていた語句を繰り返すかのように叫ばれていた。

「疾きこと風の如く! 徐かなること林の如く! 侵掠すること火の如く! 動かざること山の如し! である」


 つい先ほどの、兄者のしわがれ声とは随分と印象が異なるものだなあ、と源四郎が感心しているうちにお館様は言を重ねられていた。

「今後、この旗を風林火山の旗と呼ぶものとする! そして、四つ菱とともに武田本陣を示す旗印とする! 一同、この旗に記されている文言に恥じぬ働きをこそ、今後も頼むぞ!」


 躑躅ヶ崎館の内はもとより、塀をも、堀をも越えて、甲斐の国の首府である古府中(こふちゅう)の街中へも轟いているに違いないほどの大歓声がそこかしこで生じていた。


 疾きこと風の如く徐かなること~、と皆で声を張り上げている。

 だが、事前に練習を重ねていたわけでもなく、旗は風に揺れているので文字を目で追いにくく、などといった理由もあって各自がばらばらでまとまりを欠いていた。「おおおおおん!」「うおおおおん!」とまるで群れている獣が吼えているかのような状態であった。

 源四郎もその一団に加わり、喉も枯れよと言わんばかりに叫んでいる。


 いやしかし……うーむ。

 声を張り上げながらも、いったいぜんたいどういうことだろうという疑問は増していくばかりである。

 その時、ふと、合点がつく。六日前の源太郎兄者の言動、その理由が。すぅと、すとんと腑に落ちていっていた。

「嬉しい酒であり、かつせつない酒でもある」と言って酔い潰れるまでに飲んでいたのには、わけがあったのであった。


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