第二話(第七章~最終章)
読んでからのお楽しみ。
第七章
翳ることのないリンデン王家の栄え。
ダボン王国のマリオン王家も負けてはいなかった。
悪は滅びであり、モーラはますます良くない状況に追い込まれていくようだった。
マリオン王家の城はアレンの住む王宮よりも大きかったが、豪奢な感じの建物ではなかった。この建物にはどちらかというと実用的な趣きがあった。
九月のある朝、ベルシェは二階の寝室で目を覚ました。
そして、広間に食事が運ばれてくるまでの間、 (アレンが紅茶好きなのとは違って)一杯の砂糖入りのコーヒーを飲んで待っている。そこには妹のサラもいた。
ベルシェたちのこの日の朝食は以下のようなものだった。
あさりを載せたピザトースト
キュウリとヤングコーンのサラダ
カリフラワーの入ったコンソメスープ
カットしたグレープフルーツ
広間では三人の給仕が部屋の出入りを繰り返していた。
ベルシェの母はラナといった。
ラナ王妃がベルシェに向かって言う。
「先生がベルシェの治療術の上達ぶりをほめていたよ」
ベルシェは答える。
「そう。それはよかった」
「何、ひとごとみたいに」
「私の言葉に他意はないよ。……でもね、母さん」
「何」
「治療術が使えなくなるって」
「え? 本当?」
「ランデのアロン先生っていう人から手紙が来たの。何者かが天地を歪めてこの世界を暗黒にしようとした。だからタイガーブルや血吸い草なんかが出てきた。でもその計画は失敗に終わるらしいの」
「そう…… せっかく今まで怪我や病気の人を治していたのに」
「もう、それはなかったことになるんだよ」
そう言ってベルシェはコンソメスープをすすった。
(これからは、何かの能力で人から認められることもなくなる。……アレンの奥さんになるんだ。料理の腕でも磨いておこうかな)
食後、ベルシェは自分の部屋に行ってアレンに手紙を書いた。
「アレン・リンデン様 こんにちは。
アロン先生から聞いた? 私たち治療士は治療術が使えなくなるの。リドに風が吹いてから治療術やタイガーブル、血吸い草なんかが出てきた。でもそれはもう終わりなの。詳しくはアロン先生に聞いてください。
私たち、夫婦になるのね。待ち遠しいです。神経病のアレンを私がサポートするから、安心していてね。あなたのベルシェより」
ちょっと情熱を込めすぎたかな、と思いながらも、ベルシェは手紙を封筒に入れ、封をした。そして広間に行き、侍従の一人であるアルマに、手紙を届けてくれるよう頼んだ。
アルマは言った。
「王子様宛てですか」
ベルシェは答える。
「そうです。来年結婚するの」
「では、ラブレターなんですね」
「ええ。でもあなたは手紙を届けてくれればいいの。恥ずかしいからあまり詮索しないでね」
アルマは笑みを浮かべながら広間を出ていった。
そして神の統治する輝かしい時代が来る。
ゼンダ・イエントは邪神ジデと契約を結んでいたため、だんだん悪いものに変わっていった。今では全身を癌に侵されている。
そしてその反対側には、良い人たちがいて、神であるアリエに見守られながら暮らしている。
宇宙にいるアリエは自分の書斎でこう考えた。
(ゼンダの癌を治してやってもいいのだが、彼は健康体に戻ってもまた悪事を働くに違いない。癌のまま放っておいたほうがいいかもしれない)
邪神ジデはアリエの住む星とは別の、ある星に住んでおり、アリエとは争ってばかりだった。アリエはジデを滅ぼしたかったが、なかなかそういうわけにはいかなかった。
年が変わって、三月、アレンとベルシェの婚儀がマガンで行われた。
サーモンピンクのベルシェの服が映えた。アレンの服はベージュで、これもまたランデ、ダボン両国の国民たちから賞賛された。民衆は用意されたローストチキンや魚のフライに群がって、夢中でそれを食べた。砂糖を入れたローズヒップのお茶もふるまわれた。
アリエはジデの影響で悪くなったリドを浄化した。以前のように小麦も大豆も豊富に獲れるようになった。アリエはジデに対抗するために治療術を普及させたのだが、この不思議な術にはそれ相応のコストがかかるため、ジデがリドに変化をもたらすのをやめたときに、アリエも治療術の力をリドに送るのをやめたのだった。
その後、アリエはリドの文明を進めた。アリエの計らいにより、リドの学者が缶詰を発明した。これは急速にリドじゅうに広がっていった。
邪神ジデが「この世」を悪いものにしている。この世ならぬ幸せを願い、乞い求めることが、アリエを信じる者には必要なことだった。
アリエは歌を隆盛させた。歌は人の心を映し、癒し、生きる力をもたらす。楽器も発達していった。
もはや邪神と神を間違える者がないように、とアリエは願った。そして更にこう願った。
(人類に希望と情熱があふれるように)
そしてある日、アレンの心に暖かい灯がともった。アレンは明るい気持ちになり、これからは悩みの中を生きなくていいんだ、と思った。
彼は花が咲き乱れる中庭で、ベルシェと一緒にその香りに浸った。
そして二年後。
アレンとベルシェは十七歳。
二人の間には女の赤ちゃんが生まれた。王妃がこの子を「ローザ」と名づけた。
ベルシェはマガンの王宮に入り、城の東のほうのいくつかの部屋を使っていた。
王妃は子供の育て方をベルシェに教えた。
おしめを取り替える際、アレンは初め、ローザから目をそらした。これに対してベルシェは「気にしすぎよ。まだ赤ちゃんなんだから。第一、今後一緒に風呂に入るでしょう」と述べた。だからアレンは目をそらすのをやめた。
アレンは父になったことが照れくさかった。ベルシェは料理が下手で、なかなか上達しなかった。王妃は「誰にでも欠点はあります」と言いながら、グラタンを作ったりした。
王はローザにベタ惚れだった。「たまらなくかわいい」と言って、彼は、自分で抱えたローザに頬ずりした。
王も王妃も四十五歳。
王妃は「私たちにもまた子供ができるかしらね」と言った。王は「私の子種が薄いのかもしれないな」と応じた。
ある日、モーラのゼンダが死んだとの知らせがマガンの王宮に届いた。
アレンたちは特にそれを何とも思わなかった。
ベルシェは言った。
「神罰が下ったのかな」
アレンは答える。
「どうだろう。僕にはわからないな」
邪神ジデの存在、ジデと契約して悪事を行う人間の存在は霊能者しか知らないのが現実だった。だから、ゼンダについてのアレンたちの会話はここまでで終わった。
モーラはランデとダボンに助けを求めた。荒れ地が多く収穫が少ない国であり、慢性的な食糧不足に悩んでいた。
三国は、アレンたちが以前宿泊したダボンのライモンで会議を開いた。
その会議の場で、ダボンの王はこう言った。
「モーラは食糧不足ですが、これは神に解決していただくしかありませんな」
モーラの王であるオルク・イエントは言った。
「神に? 私たちの国に信仰などないのです」
「ではこれから神を信じればよろしい」
「そんな……」
ダボンのネルド王はカバンから一冊の教典を取り出し、オルク王に渡した。
「この本に唯一の神であるアリエのことが書いてあります。モーラの人たちも教えを守れば、きっと牧草地も増えて、遊牧する家畜も増えるでしょう」
「ありがとう……」
オルク王は教典を少し読んでから、それをカバンに入れた。そして言った。
「結局、今回の話は、アリエ神に頼るということでおしまいですか?」
ネルド王は言った。
「必要に応じて食料の支援はしましょう。……そうですよね? マルコ王」
ランデの王マルコは答えた。
「それでいいです。食料ならいくらでもお送りしますよ」
オルク王は言った。
「ランデは食料が豊かでうらやましい」
マルコ王は応じる。
「神に祈ることです。そうすれば国は豊かになりますよ」
アリエはミド星の自分の家で紅茶を飲みながらブッセケーキを食べていた。何よりもティータイムを大事にするアリエ神だった。
神の苦労も知らず過大な願いを言ってくる人間も多かったが、それらの願いをなるべく叶えてあげたいと思うのが神の心だった。
とにかく多いのは、病気が治りますように、という願い。
それら願いは、コンピューターによって動いている「統治装置」という装置によって叶えられた。そもそもこの宇宙には、人間の住んでいる星はリドしかなかった。アリエはその唯一の星であるリドを大事に扱った。
アリエとその部下たちは邪神ジデの住むバダン星にミサイルを打ち込んでもいいのだが、なかなかそれは実行に至らなかった。ミサイルを撃ち込もうとするとバダン星から妨害が来るのである。
何より、人類の不幸を消すにはジデを抹殺するしかない。アリエはそれができないもどかしさを感じていた。
惑星を破壊するほどのミサイルはもうあった。しかし発射が妨害される。もちろんジデは死にたくないのだから、死に物狂いになって防御するのは当然といえる。
アレンたちは、神と邪神の戦いに自分らが巻き込まれていることを、ベドンの霊能者から聞かされた。
巻き込まれているといっても、ありがたいアリエ神である。だからもちろん、ジデと戦うアリエ神のせいでリド人が不利益をこうむっているわけではなかった。
霊能者は言った。だんだん、邪神ジデにつく者は少なくなってきたと。
ジデは自分の信奉者が減っていくことに怒りと絶望を感じている、と霊能者は述べた。
浄化されていく世界。
アレンは思った。自分がこの先六十年ほど生きたら、世の中はどう変わっているのだろうか、と。
世界は良い方向に変わっている、とアレンは思った。
そして彼は三時のおやつにオレンジの缶詰を開けて、ベルシェと一緒に食べた。それは大変美味だった。
アレンは言う。
「こうして世界がだんだん豊かになっていく。神様のおかげだね」
ベルシェは答える。
「ローザを授かったのも神様のおかげね」
モーラでは国民にアリエの宗教 (クレール教)の教典を配り、皆に「モーラが作物の実り豊かな国になるように」祈ることを求めた。
皆が祈る様子を見ていたアリエは、モーラをぜひとも助けようと思った。
雨がほとんど降らないはずの土地に雨が降り、草が生えた。
モーラ人たちは神に感謝しながら、その土地を耕し、農地にした。穀物の生産量は増え、もうモーラは慢性的な食糧不足に悩むことはなくなった。
アレンは以前着ていた青い病人の服ではなく、青地に白い線の入った新しい服を着るようになった。ダボンのラナ王妃が言うには、結婚したのにずっと同じ服では華がないというのである。だから彼女はアレンにその白い線の入った服を贈った。
アレンは最近よく食事処「三日月」に通っていた。ベルシェと一緒にである。
ベルシェが三日月に行くときは、お守り役をしてくれるシルヴァにローザを託した。
ベルシェのお気に入りはサザエ飯だった。彼女は「磯の香りがしておいしい」と言う。
アレンは「干しホタテの雑炊」が一番好きだった。
そうして何度も何度も「三日月」に通えるのも、彼らが王族であるからだった。庶民とは違う。でもダモンは「そういうぜいたくに罪悪感を感じないで下さい」とアレンに言っていた。
シルヴァは二十八歳で、お守りには慣れていた。ローザもシルヴァのことが気に入っているようだった。
その頃、リドからタイガーブルや血吸い草など、新しい生物が消えてしまった。霊能者によると、それはリドに邪神ジデの力が及ばなくなったからだ、とのことだった。
アレンはベルシェに向かって言う。
「タイガーブルって意外においしくなかった?」
ベルシェは答える。
「えー? 邪神の作ったあんな生き物がおいしかった?」
「僕はおいしいと思った。……でも邪神が作ったって聞くとやっぱり、気持ち悪いね」
「でしょう」
リドに風が吹いて良くないことが次々起こった時期が過ぎて、今ではランデもダボンもモーラも、そしてブロムも、波風の立たない幸せな時代を迎えていた。
ある日、モーラの使者がマガンに来て、白ワイン五本をマルコ王に贈った。王は「何かお返しをするから」と約束した。
白ワインは即日飲まれ、「少し発泡していてとてもおいしい」という皆の感想を引き出した。
十一月。
信仰のなかったアレンもアリエ神を信じるようになった。そもそも時代が進みすぎたのである。科学が進んでくると、人々は「神は死んだ」と口々に言うようになった。
狩猟・採集をしていた頃の人類はもっと神に感謝していたかもしれない。でも今は自分達人間の力で日々の糧を「生産している」と思い込むようになった。「生産している」のではない。神の不思議な力のおかげで作物が実るのである。
人間は神から自立することはできないのだ。まさに「神なしでは生きられない」と言われるとおり。
神から離れることが人の罪なのだから、現代文明のもとにある人間の罪は大きい。
そう。太古の時代、獲物がやってきて、槍でこれを打ち倒し、毛皮や食料に変えることができたとき、狩人は獲物を与えてくれた神に感謝しただろう。
そして、アリエを奉じるクレール教はランデ王国の国教になった。ダボンとブロムではもっと前にクレール教を国教としていた。
二月のある日、ランデの王室の一家はカリンの家に行った。
カリンのフルネームはカリン・ドリエという。
彼女の家はベドンの端の方にあった。
(カリンは王宮の隣にある建物に住み込みで働いていた)
カリンの生家の扉を彼女がノックすると、しばらくしてカリンの母が出てきた。
王は言った。
「アリサ・ドリエさんですね?」
アリサは答える。
「はい、そうですが。……ああ、今日は王様が来られる日でしたね。忘れていました。……でもお茶と食べ物は用意してあるので、ご心配なく……さあ、お上がりください」
ドリエ家は狭かった。二階建てだが、合わせて二部屋しかない。
四十八歳のアリサは急いでお茶を入れようとする。
カリンは言った。
「母さん、私がやるから。母さんはベーコンエピを買ってきて」
「わかった」
アリサはタンスの中の財布をつかむと「ちょっと買い物に行ってきます」と言って家を出て行った。
カリンは安物の紅茶を入れ、「こんな悪いお茶ですけど」と言って皆にふるまった。事実、お茶はまずかった。
王はお茶のまずさに沈黙してしまった。
そして思った。
(これはどこの店で売っている安物のお茶なんだろう)
カリンが言った。
「お城で飲まれている高級なお茶と違って、庶民はこんなものしか飲めないんです」
王は言った。
「かといってカリンだけの給金を上げるわけにもいかないな」
「そうですね……」
アレンはお茶を飲むのをやめ、部屋の中を見渡した。
壁には模造刀とはたきが掛けてある。他に、タンス、かまど、たきぎ、手桶、布団などがあった。
カリンは言った。
「王子、これが貧しい者の生活なんです」
アレンは答える。
「そうだね……大変だろうね。でも父さんの言うとおり、カリンの給金だけ上げることはできないからね」
「そもそも、お城に仕えているのにどうしてお給金が少ないのですか?」
「城で働いている人でも給金の多い人と少ない人がいるんだ。カリンには簡単な仕事しかしてもらっていない。だから給金が少ないんだと思う」
「そうなんですか。たしかにそうですよね。私がしていることは、皿を運んだり、食器を洗ったり、布団を干すくらいのことですから」
その時アリサが帰ってきた。そして言った。
「ベーコンエピを買ってきました」
アレンは、こんな貧しい家のパンを食べるのは悪い気がしたが、もらって食べた。
アレンは思った。
(焼きたてのおいしいパンだ……)
アリサが用意していたという食べ物は干したホタテの粥であり、それほど高級でもないので、カリンはそれを作らなかった。彼女はアリサに耳打ちして、「ベーコンエピだけで大丈夫」と伝えた。
一時間ほど過ごして、アレンたちは帰途に着いた。
歩きながらアレンは言った。
「庶民の生活があんなに貧しいとは思わなかった」
王は答える。
「貧しいといっても、カリンの家は特別だろう。あれは底辺の生活だよ。あそこまで貧しい家は少ない」
「何とかしてあげられるといいんだけど」
「アレン、お前はメシアじゃない。人間には何もできない。神様に祈ることだな」
「はい」
その日の夕食前、食前の祈りのとき、アレンは「カリンの家が豊かになりますように」と祈った。
そして思った。
(どうして貧富の差があるんだろう。貧しい人たちは一生懸命生きているのに、あんな生活なんだ。でも僕は働きもせず、ぜいたくな生活を享受している)
ベルシェが隣の席からアレンの肩を叩いて言った。
「アレン、何考えてるの」
アレンは答える。
「ああ。カリンの家のことを考えてた。貧しい生活は大変だな、って」
「私たちには何もできない」
「そうだね」
「アレンは難しく考えすぎなんじゃないかな。神様だって、王家を潰さずに存続させているよ。私たちは私たちの生活を楽しもう」
「うん」
「クレール教の教典に書いてある。思い悩むな、ってね」
第八章
夜、アレンは海のようなベルシェの中に飛び込む。何時間も続く幸せの時。長期間、夫婦の時間を過ごしていたら、アレンは神経病が少しだけ良くなった気がした。
ローザは王と王妃が寝かせている。若いアレンとベルシェには、止められない愛情のほとばしりがあるから、夜は王と王妃がローザを預かることにしたのだ。いずれ二人目の子も授かるだろう、と王は思った。
朝、ベルシェはローザに野草の粥を食べさせる。塩味は控え目だ。
アレンが「おいしそうなお粥だね」と言うと、給仕が「明日の朝にでも、アレン様の分もお出ししましょうか?」と応じた。
アレンは「じゃあそうしてください」と言った。
そう、アレンはもう王子とは呼ばれない。もう十八歳なのである。
王位は王の弟であるラドが継承した。彼は三十九歳だった。これまで王を務めてきたマルコ王は退位する。
マルコ (元王)、アデル (元王妃)、アレン、ベルシェ、ローザは、ランデ王国内のマレリアという土地に引っ越すことになる。
次の日、一日だけ、食事室でラド王とアレンたちが顔を合わせた。
アレンは思った。
(ラドさんにはあまり会ったことがないんだよね。どういう人かよくわからないし)
マルコは言う。
「ラド、家が入れ替わりだな」
ラド王は答える。
「ああ」
「どう? マレリアの城とこっちの城と、どっちが過ごしやすい?」
ラド王は答える。
「やっぱりマレリアだろうなあ。長く住んでるし、川で魚が釣れるし」
「鮎とか?」
「鮎とか、ヤマメとか」
「でももうラドの住む場所はここだからな。王は王都にいなければ」
「そうだな」
そして料理が出た。
アレンだけ、お粥が一皿付いている。
ラド王は兄のマルコのほうを見て言った。
「あれ、甥っ子のお粥、俺達にはつかないの?」
「ああ。あれは特別なんだよ」
それを聞いて、給仕が言った。
「粥を召し上がりたいなら、明日作りますが」
ラド王は「そうしてほしい」と言って、料理を食べ始めた。
馬車が何台も連なる。
マレリアの城を目指して馬車は走っていく。
アレンとその一家は、マガンの王宮にさよならをしたのだ。
長年住んでいた土地を去るのは寂しい。でも人生には転換期がある。
ライル、ダモン、カリンも馬車に乗っている。彼らがマレリアに移り住むことはアレンの希望していたことでもあった。
マレリアがどんな土地なのか、アレンは不安だった。釣りができるのは楽しそうだと思った。でも、町が豊かかどうか……市場に食べ物はあふれているだろうか?
二日かかって、マレリアに着いた。途中、野営をしたが、四月の空気はそれほど冷たくなかったし、毛布が冷気を防いでくれた。
マレリアの城下のカデンには、アレンの考えが杞憂だったと思わせるほどの農産物やハム、ベーコン、魚の干物、缶詰などが並んでいた。
ああ、これなら豊かな暮らしができる。アレンはそう思った。
アレンはそんな自分の考えに自己嫌悪した。でもそれでいいのだ。人間なんてそんなもの。
人間の性質の悪なる部分は、そのままでいい。
それはアロンの言葉だった。
馬車がマレリアの城に着いた。
それは城というより、館と言った方がふさわしい建物だった。
アレンは馬車を降り、父に向かって言った。
「釣りに行くのは明日?」
王は答える。
「アレン、お前も大人になったのだから、もうそういうことは一人でやりなさい」
アレンは未熟と言われて少し気が落ち込んだ。それに、父がアレンに興味がなさそうであることが残念だった。
館に入ると、そこは木造りの建物だった。火事には弱そうだ。でもアレンは木造りが気に入った。
午後五時。ダモンが「風呂が沸いています」と言ったので、アレンはアロン先生のくれた浴用のハーブの袋を持って浴場に行った。
浴槽はかなり広かった。大人四人が入れるくらいの広さだ。
アレンは体を流し、お湯に浸かった。
モーラでは神経病の者が神経の薬を飲むそうだ。そんなものより、ハーブやヒノキ、サンダルウッドなどのほうが、神経病のアレンには嬉しかった。
しばらくするとベルシェが入ってきた。ローザを抱えている。
ベルシェは言った。
「ローザのためになら、高価なせっけんも出し惜しみできないわねえ」
アレンはローザの体を見ていて、欲情を抑え切れなかった。
ベルシェは言う。
「何? じっと私のほうを見て」
アレンは言う。
「君が好きなんだよ」
「それは知ってるけど。私もアレンのことが好きだよ」
ベルシェに抱かれながら胸までお湯に浸かっているローザは、嬉しそうにキャッ、キャッと声を上げている。
アレンは何年か前を思い出す。
(恋をすること自体はそれほど難しいことではないのかもしれない。親しみを深めて、自然に近づいていけばいい。実際、そうしていたらベルシェとはうまくいった)
そして夕食。
夕食は、羊の煮込み、ほうれん草のシチュー、鮎の塩焼き、白飯、いちごだった。 (ローザのための卵粥も出ていた)
国民に寄生してぜいたくな食事をしている自分が嫌だと思ったが、給仕は笑顔で去っていった。
アレンは思った。
(僕は嫌われていないんだろうか)
テーブルの周りにマルコ、アデル、アレン、ベルシェ、ローザが並んだ。そこにカリンが来た。
マルコは隣の席を指して言った。
「カリン、ここへおいで」
カリンは応じる。
「はい、王様……じゃなくて、マルコ様」
「給金を増やしてあげるよ」
「本当ですか?」
「ダモンと相談したんだ。アレンの財産の一部を給金として支払うことにした」
カリンはアレンのほうを見て、頭を下げてから言った。
「アレン様、ありがとう」
「いいんだ。カリンにも豊かな暮らしをしてほしくってさ」
ベルシェが言う。
「かっこつけすぎよ、あなた」
アレンは、かつて彼がカリンと艶っぽい会話をしたことがばれないかと心配した。ベルシェの態度は明らかに嫉妬だった。
次の日、アレンとベルシェ、マルコ、アデル、ライルは近くの川に釣りをしに行った。彼らはローザをカリンに預けた。
釣り餌にはソーセージを使った。ベルシェは「ミミズじゃなくてよかった!」と言った。
アレンはわざわざベルシェにたずねる。
「ミミズだったら釣りをしなかったの?」
「ううん、それなら慣れるしかないって思う」
「そうか」
アレンの竿に重く響くものがあり、竿を上げてみると、大きい魚がかかった。
アレンはライルに聞いた。
「ライル、この魚何?」
「何だろう。私にはわかりません」
「ライルは万能だと思っていたのに」
「私だって人間ですから、不完全なんです」
「そうだよね、たしかにそうだ」
そして次にライルの針に魚がかかった。
ライルは魚を針から外しながら言った。
「これならわかります。ニジマスです」
その後、全員でニジマスを四尾釣った頃に、釣りはお開きとした。
ライルは言った。
「まずまずの結果ですね」
アレンは言う。
「ライルは結婚はしないの?」
「また唐突ですね。私はもう恋愛はたくさんしてきたので、結婚までしようとは思わないのですよ」
「ふうん」
ベルシェが言った。
「プレイボーイだったんですね」
「そうですね、世間ではそう言うでしょう」
魚を城に持って帰ると、無愛想な男の使用人がそれを受け取り、言った。
「塩焼きにしますか、ムニエルにしますか」
ライルが答える。
「小さいのはムニエル、大きいのは煮込みでお願いします」
「わかりました」
アレンは最近弱気だった。無愛想な使用人を見ていると、しょせん人の心はつながらない、人と人の心は通い合わないのではないかと思い、悲しくなった。
だから彼は風呂にも入らず、寝室のベッドに突っ伏して、絶望感のようなものをこらえているのだった。
永遠に続くかのような絶望。
アレンは思った。
(神経病が重いって言ったって、こんなに重いなんて。僕は自分をどうやって支えていけばいいんだ)
やがてベルシェがアレンのもとへ来た。そして言った。
「どうしたの?」
アレンは答える。
「絶望の発作」
「大変ね。……お茶を入れるから一階に来ない?」
「そうするよ」
二人は一階の食事室に行った。
ベルシェはアレンに聞いた。
「何のお茶が飲みたい?」
「紅茶」
「わかった。いま入れるね。砂糖は?」
「入れて」
「了解」
かまどでお湯を沸かし、ベルシェはティーカップにお茶を注いだ。
そして「ちょっと待ってね」と言って食事室を出ていった。
外で何か話している。
そうして彼女が持って帰ったものは、ウエハースだった。
アレンは浮かない気持ちながらも「ウエハースは好物なんだ」と言って話を合わせようと努力した。
アレンは思う。絵本を読み漁り、かといってそのたくさんの絵本を大事に保管するでもなく、汚れたり破損したりするにまかせた頃があった。
僕は神に愛されていた?
いや、違う。
絵本や悲しい空想とは決別すべきだったのだ。
その神はアリエ神とは違う神だった。邪神かもしれない。
アレンは紅茶を含んで、ゆっくり飲み下しながら思った。
(神に愛されていた? 違う。神は僕を奴隷化していたんだ)
ベルシェは何も言わずに紅茶を飲んでいる。
アレンは「絵本を捨ててよかった。もうここには絵本はない」と思って安心した。そして、その神との説明しにくい関係は、ベルシェには話さずにおこうと思った。
運命に翻弄される僕の人生。
(何も仕事らしいことをしたことのない、王族の僕。でもベルシェと結婚できた。人間、苦労しないに限るけど、つまり、あの父さんでさえ僕には過保護だったというのか)
仕事をしてみないか、と言ったことのないアレンの父。
仕事をしてみない? と言ったことがあるが、嫌ならいいのよ、と言って強制しなかったアレンの母。
(僕は仕事をすべきだった。王族として何かできる仕事があったはずだ。このままでは…… 青い病人の服を着ているけど、神経病の僕にだって何かできることがあるはずだ)
アレンがベルシェにそれを話すと、彼女はアレンの意見に否定的だった。
「遊んで暮らしていられるなら、それでもいいじゃない」
「でも、何か虚しいんだ」
「何かやりがいのあることが見つかればね」
「やりがい?」
「うん」
アレンは自分の中に何もないことに気づいた。ただ毎日、ローザを育てるためにベルシェと一緒に子守りをしているだけだ。
やりがいのあること……
でも、アレンにはそれが見つけられなかった。
アレンは、自分が身近なものとして感じている「せつなさ」がいけないのだろうと思う。
そもそも、アレンが幼かった頃、彼の父が彼につらく当たる毎日が続いたことが、せつなさを胸のうちに抱え込み、せつなさが常態化するようになったことの原因だった。
(せつなさはもういらない。繊細で神経質な僕は、もういらない)
お茶のあと、アレンは一人で釣りに行った。そうしたらニジマスが十匹釣れた。せつなさと縁を切ったアレンの新しい人生のスタートにふさわしい釣果だった。
その夜、アレンはゼンダの夢を見た。
夢の中で、ゼンダとアレンは一緒に食事をしているのである。
夢の中のゼンダは言った。
「ベルシェはいい女になっただろう。その処女を奪ったのも童貞のお前だ。まったく、本当にうらやましい奴だぜ」
そして彼は去っていく。
去り際、ゼンダは言った。
「ベルシェを幸せにしてやりなよ」
そしてアレンは目を覚ました。隣にはベルシェがいる。
アレンは寝室のある二階から一階に下りた。
食事室の隣の台所に水の入った手桶があるので、そこで水を飲んだ。
(窓から見える月は美しいけど、もう「美しい」とか、そういう感傷的な僕ではないんだ……)
翌朝の食事は鶏肉のソテーと、缶詰のアスパラガス、ゆで卵、干し鱈のスープ、パン、そしてりんごだった。
ベルシェはアレンに向かって言う。
「昨日、途中で起きた?」
アレンは答える。
「うん。ゼンダの夢を見たんだ」
「ゼンダの夢?」
「うん。まあ、ゼンダが夢の中で僕に親しげに話しかけたからといって、あいつに対する悪感情が消えることもないけどね」
アレンはもうせつなさを捨てた。もはや過去の彼ではなかった。
アレンは思った。
(せつなさは、邪神が好みそうだ)
アレンは食事をガツガツと、上品さのかけらもない食べ方で食べた。上品であることは、それだけボロが出やすい生き方だ。
それをベルシェは笑って見ている。
マルコは言った。
「アレン、何かあったのか」
アレンは答える。
「うん。心境の変化だよ」
邪神ジデが、アレンの周りに、つらいこと、悲しいことを起こしてきた。だからこそ、それに耐えようとして、アレンは感傷的な人間になっていった。
だから、邪神の産物であるせつなさは自分の中から追い出そう、と彼は思った。
アレンは自殺を思った。
(でもベルシェやローザ、カリン、それからみんなが悲しむだろう)
第一、自殺はどれも痛いか苦しい方法である。
アレンは一度アロンに「一番簡単な自殺の方法は何か」と聞いたことがある。アロンは「ガスを部屋に充満させるのがよいでしょうな」と言った。でも詳しいことはアレンに教えなかった。アレンがあまりに危うく思えたからである。
アレンはあまり自分の心を「いじって」「変えよう」とはしないようにしようと思った。どんな付け焼き刃をしても、人間の性格、長所、短所といったものはそうそう変わらないから。
一同はマレリアの城の城下の町・カデンに出た。そこは農産物、畜産品のあふれる町で、金物やせっけんなどもたくさん売られていた。
その日、皆はカデンに買い物に出かけた。
一行が買ったものは以下のようだった。
オリーブせっけん十個。
卵十個。
爪切り二個。
牛肉の煮込みの缶詰二個。
ナツメグひと瓶。
カモミールのお茶。
その他色々。
そして昼時になると、レストランに行った。店の名前は「メダード」。皆、料理を注文した。
アレンとベルシェは、魚の唐揚げとバゲット。
カリンは「セリ載せレモン麺」。
マルコとアデルはハマグリのピザ。
ライルはネギと鶏肉の焼き飯。
ローザには三つ葉粥。
ダモンは留守番だった。
魚の唐揚げは、白身魚の風味が活きていておいしかった。麺は柔らかく、食感が良かったし、スープに入っているレモンの皮が独特な味わいだった。
ハマグリのピザは、チーズが多くて「ちょっと胃にもたれるな」とマルコ。
焼き飯は、ライルによれば「おいしくもまずくもないかな」とのこと。
そしてローザは三つ葉粥を楽しそうに、嬉しそうに食べていた。よほど気に入ったらしかった。
第九章
絶望のその先へ。
(結婚して子供が生まれても、生きがい自体は何もない。かといって町の人になって一日九時間も働くのは嫌だ。生きがいはどこにある。僕の倦怠感を消してくれるものはどこかにないのか)
アレンはそれをベルシェに言った。
ベルシェは答える。
「私だって生きがいが欲しい。ローザが生まれる前は、ローザが生きがいになってくれると思ってた。……結局私たち、子供として王宮にいたころが一番幸せだったのね。今はそれがなつかしいけど、これから生きがい探せるかな」
「農業とかどうかな」
「農業?」
「果物の木とか、じゃがいもなんかを育てるんだ」
「いいね」
「でも、それが生きがいになってくれるかどうかはわからない」
「そうだ。人には役目があるのよ。何かしていないと人間は自分というものを保てないんだわ」
「そうかもしれないね」
そしてベルシェとアレンは、合わせて二百万リントを両家から受け取り、王族からの脱退の手続きをした。
アデルは「時々ローザの顔を見せに来てね」と言った。
家財は何も持たなかった。
貴重品や思い出の品など、必要なものだけ背負い袋に入れて、二人はカデンの町に出ていった。アレンは体に掛けた布でローザを前に抱えていた。
まずは宿。一泊五十リントの宿を選んだ。
そして二人は「作戦表」を書いた。経済的支援があったとはいえ、これは二人が自分の力で何かをやるという初めての体験だった。
次の日、不動産屋に赴き、簡素な家が欲しいと言った。
不動産屋の男はガニエといった。
彼は言う。
「二階建てで二部屋の家なら七万リント、屋上つき二階建てで三部屋ある家なら十五万リントですが」
アレンは言った。
「屋上つきがいいね」
ベルシェは答える。
「そうね。星も見られるし。毛布を持っていって星を見ながら寝るのもいいね」
アレンとベルシェは屋上つき二階建ての家を選んだ。
二人はガニエとともにカデンの商店街を抜け、住宅地にある石造りの家に着いた。
アレンは「なかなか良さそうな家だね」とベルシェに向けて言った。
ガニエは「中を見ないといい家かどうかはわからないですよ」と応じた。
ガニエが鍵を開ける。
中には、かまどと暖炉があり、テーブルと四つの椅子が置いてある。
ガニエが言った。
「このテーブルと椅子はサービスですから」
ベルシェは言った。
「カデンには水道管が通ってるから、住みやすいわね」
蛇口をひねると、きれいな水が出た。
ガニエが「二階に行きましょう」と言う。
二階は二部屋。どちらも、石壁と木の床だけが見える何もない部屋だった。
さらに階段を上って屋上に行くと、晴れ渡った青い空と流れる雲が見えた。
アレンたちは書類を書いて、サインをした。
ガニエはアレンに鍵を渡すと「一週間以内なら返品がききます。その場合、お金は少々頂戴いたしますけどね」と言って、去っていった。
(自分で決めていく。自分で人生を作っていく。そんなの初めてだな)
ベルシェは言った。
「銀行にも行かないとね。十五万リントを振り込まないといけないから」
アレンは応じた。
「カデンがこんなに進んだ街だとは思わなかったよ。水道って、便利だね。使用人が井戸から水を汲んで来なくてもいいんだものね」
「そうね」
二人は二階に上がる。
アレンは思った。
(何もない二階だけど、とりあえず今日はこのままでいいか)
ベルシェは「屋上に上がろうよ」と言った。
屋上に行くと、ちょうど夕焼け時だった。夕日は優しく暖かい光を三人に投げかけていた。
ゆるやかな風が吹いている。
もう、いい。
アレンはこれで人生が終わってもいいと思った。もう幸せは十分味わった。だからもう……
泣いているアレンの手をベルシェがそっと握った。
この世界は、この一家を苦しめるだけで有罪であり、存続する価値すらない。ベルシェはそう思った。
ベルシェはアリエ神には祈らなかった。それはアリエ神がアレンの苦しみを取り除いてくれないためである。あてにならない神だと思ったのだ。
そんなとき、家の扉をノックする音が聞こえた。
アレンがまず降りていき、ベルシェがそれに続いた。
扉を開けると、一人の中年の女が立っていた。
彼女は言った。
「私、町内会の者ですけど、アリエ祭のチラシを持ってきたんですよ。よろしければ参加してください。日にちはアリエ様の誕生日、六月二日ですから」
アレンは応じる。
「もうすぐですね」
「ええ。当日は色々な食べ物が出ますんで、ぜひ」
「ありがとう」
「じゃ、さよなら」
女は去っていった。
黒一色だけで印刷された版画のチラシを、アレンはテーブルの上に置いた。
アレンは言った。
「のどが渇いた。お茶が飲みたいな」
「待ってて。すぐ入れるから」
ベルシェはローザをテーブルに下ろして、かまどに火を入れ、やかんでお湯を沸かした。その間、アレンがローザの様子を見守っていた。
そしてベルシェは持ってきたティーポットに茶葉を入れ、お湯を注いで待った。
しばらく待つ。
静かな時間。それは生きるうえでとても大事なものだと思う。
持ってきたたった二つのティーカップに、ベルシェが紅茶を注ぎ分ける。
ベルシェは言った。
「女は産むのがつらいのよ。どうも、相当私たちも抱き合ったけど、二人目が来ないみたい。このまま子供を作るのはやめにしない?」
アレンは答える。
「うん。でも、アリエ祭のチラシに書いてあるんだ。『神様から全ての人が救ってもらえる世界に』って。人間がアグとエレモの二人の男女から生まれたのはベルシェも知っていると思うけど……」
「それってただのクレール教の言い伝えでしょう?」
「まあ聞いてよ。アグとエレモの犯した罪、食べてはいけない実を食べたせいで、人間に農耕の苦労が生まれて、妊娠と出産の苦労も出てきてしまったっていうんだ」
「その話は知ってる」
「チラシに書いてあるんだよ。『原罪のないもともとの世界に戻る日が近づいている』って」
「それは耕さなくても実がなって、子供を作っても出産の苦しみがない世界?」
「そうだと思う」
アレンはチラシをテーブルに置いた。
「そのためには神様が邪神のジデを打ち倒さなければいけないんだけどね」
「私たちに何ができる?」
「神様を信じること」
「私にできるかなあ」
「明日、神殿に行ってみよう。人間の力は微力だけど、神様の愛は無限に深いものだっていうから」
「時代が変わりつつある?」
「そういうこと。耕さなくても食べられる、子供を作っても苦しまない、病気や怪我の起こらない楽園に戻るときが来ているんだ」
翌日二人は、朝食のあと、カデンの外れにある神殿に行った。
神殿はひっそりとして静かだった。
石の柱が立っているが、すでに崩れた部分もある。
進んでいくと、賽銭箱がある。
ベルシェは言った。
「これって意味あるのかな」
アレンは答える。
「意味?」
「やっぱりお金をたくさん入れたからって、ご利益が増すわけじゃないよね」
「そうだと思うよ」
アレンは一リントも入れないで祈るのはよくないと思い、一リント硬貨を入れた。ベルシェもそのようにした。
一羽のカラスが柱の上で鳴いている。
アレンは思った。
(何だか寂しい。人間はただ無意味に死んでいくのか)
彼は倒れている柱に座った。
ベルシェもそのようにした。
アレンは言う。
「神様はいるよね?」
ベルシェは自信なさげに答えた。
「いると、思うけど……」
アレンは顔を覆って泣いた。そして言った。
「駄目なのかもしれない。神はなくとも邪神はいる気がするんだ。小さい頃から邪神に蝕まれてきた人生は、変わらない気がするんだ」
ベルシェはただアレンの肩に手を置いた。
やがて一人の老人がやってくる。
老人は言った。
「お二人さん、こんにちは」
アレンとベルシェはあいさつをし返した。
そして老人は言う。
「今日は何かのお願いに来たのですか」
アレンが答える。
「今度アリエ祭があるでしょう。それなら神殿に来てみようと思いまして。私たちはカデンに越して来てあまり日が経っていないんです」
「そうでしたか。……奥さんが抱いている赤ちゃんの名前は?」
「ローザっていいます」
老人は「ローザちゃん、こんにちは」と言ってローザの前でお辞儀をした。
「私はアリエ祭の実行委員なんです。名前はウーロ・マナンダといいます。では、お二人とも仲良く」
ウーロは賽銭箱のさらに奥の方にある建物のほうへ歩いていった。
アレンは思った。
(行ける! ……人は役目がなければだめなんだ。きっと僕は仕事をしていないから邪神に付け入られて憂うつになるんだ。きっと大丈夫だ。仕事をして、アリエ様についていれば)
アレンは上機嫌になり、境内で売っているアズキ汁を二杯買って、ベルシェと一緒に飲んだ。アズキ汁は一杯二リントだった。
アズキ汁は砂糖がたっぷり入っていてとてもおいしかった。便利な町であるカデンは、比較的、平民と貴族の生活の差が小さい町かもしれなかった。何しろこんなにたくさん砂糖の入ったアズキ汁を二リントで飲めるのだから。
アレンは言った。
「人生も、捨てたものじゃないかもしれないね」
ベルシェは答える。
「何よ、今さら」
「でも本当にそう思うんだ。仕事でなくとも、何かの役目を果たして生きていけば、邪神も離れるかもしれないって」
「私は何をすればいいの?」
「主婦」
「ああ。そうよね。料理をたくさん覚えなくちゃ。……今日の夕飯は何がいい?」
「魚の南蛮漬けがいいな」
「えーっ? そんな難しい料理がいいの?」
「ごめん。魚の南蛮漬けはまた今度でいいよ。君の料理の腕にかなった料理を作って」
「何だか馬鹿にされた気分……」
昼時になると、二人は麺の店に入って、すりおろしたレモンの皮がたっぷり入った異国風の麺料理を食べた。カデンの飲食店はどこでも粥を用意しており、赤ちゃんはそれを食べることができるようになっていた。
ローザは卵粥を食べてご機嫌だ。
人生が開ける。
アレンは何の仕事をしようかと悩んだ。
ふと、アレンはベドンの町でジュースを売っていた中年女のことを思い出した。
(そうだ。ジュース売りだ。あれなら自分のペースでできそうだ)
二人は家に帰った。これからジュース売りをするにあたって、マーケットの中に空いている物件を見つける必要があった。金ならたくさんある。でもそこにあぐらをかくのではなく、役目を持つ必要があるようだ。
アレンたちはその夜、家の屋上で寝た。
あまり風は吹いていなかったし、空気はそれほど冷たくはなかった。
毛布は暖かく、アレンとベルシェ、そしてローザの体温を守った。
星空を眺め、アレンは「今日から生まれ変われそうだ」と言って笑った。
ベルシェは言った。
「私も、本当は世間の人たちよりずっと弱い人間なんだって、この空を見たらわかった。少しづつでも強くなっていかないとね」
強くなる。
アレンは考える。
(いつか、貴族の子供とのケンカで殴られて帰ってきた時、父さんは「強くなれ」って言ったっけ。僕は途方もなく弱い人間だったんだ。でもそれは僕のせいじゃない。僕は全然鍛えられずに育ったんだ。そんな不幸、誰が責められるっていうんだ)
実際には屋上の寝心地は非常に悪く、アレンたちは家の二階に戻り、そこで寝た。彼らはベッドや布団を買わなければならない。
そんなアレンの苦しい思いを止めるかのように、眠りは直ちに彼を夢の中へといざなった。
そしてアリエ祭の当日。
アレンたちは神社に行った。
神社の境内には、羽がふさふさ生えていて、大人の胸くらいまでの背丈がある不思議な鳥が何羽もいた。
そこにはウーロ・マナンダがいた。
彼は言う。
「神様が特別に、天国の鳥をここへ派遣して下さったんです」
ベルシェは言う。
「ほんとですか?」
「本当ですとも」
アレンが「鳥さん」と言って鳥の羽を触ろうとすると、鳥はアレンに近づいてきて「クエーッ」と鳴いた。
アレンは言った。
「気持ちが通じてるみたいだ」
ウーロは言った。
「すごいじゃないですか、この鳥と気持ちが通じるなんて」
ベルシェは言う。
「アレンは肉こそ食べるけど、動物のことを馬鹿にしたりは決してしないんです。動物好きなんです」
「そうなんですか…… じゃあ、酒かすから作った甘酒がありますから、お二人とも、こっちへ来てください」
導かれた先には露店が出ていて、甘い酒かすの匂いがした。
アレンはたずねる。
「おいくらですか」
ウーロは答えた。
「無料です」
アレンとベルシェは甘酒を二杯づつ飲み、神の恵みの深さに感謝した。
ベルシェは甘酒を飲んだことがなかったらしい。
「これ、すごくおいしい飲み物ね」
アレンは応じる。
「ベルシェは甘酒を一度も飲んだことがなかったんだね」
「そうなの」
甘酒にはアルコールがあまり含まれていないので、アレンやベルシェが酔うことはなかった。
さっきの天国の鳥はアレンについてきて、「クエーッ」「クエーッ」と人懐こく鳴いた。鳥はアレンのことがよほど気に入ったらしかった。
アレンは鳥を撫でてやった。鳥を撫でると、鳥は「キューッ」と鳴きながら目をつむった。
アレンは少し離れたところで売っている飴が欲しかったので、そこまで歩いていった。
飴はニッキ味の飴で、一袋が三リントだった。
アレンは思う。
(何だかこうして楽しく過ごしていると、あの邪神ジデも消えてなくなるような気がしてきた)
アレンはベルシェに飴を一つあげ、自分でも食べてみた。
ニッキの味は少し辛く、いつ食べてもニッキ飴はおいしいとアレンは思った。
ベルシェは言う。
「鳥さん、行っちゃった?」
「僕が飴を買うことを理解したんじゃないかな」
そしてまたウーロがやってきて、言った。
「早くこの世界が楽園に戻るといいですな」
アレンは答えた。
「本当に楽園なんて来るのでしょうか。私は信じられないですね」
「アリエ神を信じないというのですか」
「そういうわけでもないんですけど」
(邪神ジデが死んで僕が幸せに暮らせるようになればいいんだけど。それは遠い未来のような気がする……)
アレンの心は晴れないが、しかしアリエ神はちゃんと彼のことを知っていた。邪神ジデの被害者であるアレンや他の人たちのために、アリエ神はミサイルを撃つ。惑星を破壊するミサイルを。
そして発射予定時刻は少しづつ近づいていた。
第十章
アリエのミサイルが発射された。長い長い距離をわずか五分で飛翔し、邪神ジデの住むバダン星を貫いて、爆発した。
そのすさまじい爆発が、ミド星の、アリエのいるオペレーションセンターの画面に映っていた。
ジデは遺言も残さずに死んでいった。
だが、恐らく死んだだろうと言えるだけであり、ジデが本当に死んだかどうかということは確認できなかった。
その数分後、人類の住むリド星の呪いが解け、草花のじゅうたんが広がり、果物のなる木、木の実のなる木が次々出現した。甘い瓜のような植物もみられた。
アレンたちはその時家にいた。カデンではアリエ祭が終わり、次の日の昼食時になっていた。アレンの一家は家で魚のフライを食べていた。
ブリが安く手に入ったので、一口大に切ってフライにしたのだ。魚をさばいたのはベルシェである。
ベルシェはフライの出来を気にする。そして言う。
「おいしかった?」
「なかなかおいしかったよ」
タルタルソースは料理店で売っている既製品を使った。
ランデ王国は米とパン両方を食べる国であり、この日もアレンたちはご飯を食べるおかずとしてブリのフライを食べたのだった。
アレンたちが買い物に出てみると、空き地という空き地に、果物のなっている木が生えていたので、彼らは驚いた。
ウーロに事情を聞きたくて、アレンたちは神社に行ってみた。
神社ではアリエ祭の後片付けはもう終わっており、いつもどおりの静かな神社に戻っていた。
ウーロは倒れた石の柱に座っていた。
アレンはウーロに声をかけた。
「こんにちは」
ウーロは応じる。
「こんにちは。……驚いただろう。木が生えてきて」
「あの果物は食べてもいいんでしょうか」
「神様がくださったんだよ。誰が食べてもいいんだ」
「取り合いになりませんかね」
「そうしたらまた実がなるだろう。人間に原罪が宿る前の時代に戻ったんだ。これからのこの世界は幸せだ」
その瞬間、アレンは肉というものに抵抗感を覚えた。
アレンは思う。
(アグとエレモのいた世界の始まりの楽園では、彼らは肉を食べていなかったはずだ。だから神様が僕を肉嫌いにしようとしているのかな)
今日も境内ではアズキ汁を売っている。
アレンはお金を払って、アレンとベルシェ、そしてウーロの分のアズキ汁を買った。
ベルシェは言った。
「あんまり甘いものを飲むと、私太っちゃうかも」
ウーロが言った。
「いえ、大丈夫です。神様はどんなに食べても太らない楽園を再現してくださいました」
「そうですか。それなら、楽です……」
アレンは今さらながらに驚いた。
「楽園が、来た?」
ウーロは「そうなんです」と答えた。
その瞬間ローザが「アーイ!」と叫んだ。そしてローザの顔は笑顔になった。
アレンは「ローザ、かわいいね!」と言って、アズキ汁の入ったお椀を露天のテーブルに置き、ローザをベルシェから受け取った。
ローザの温もりは何よりも大切な命であり、絆だった。
自分が幸せになれたこと。
神経病が軽減され、過ごしやすくなった。
アレンは思った。
(病人の青い服を着るのはもうやめようかな)
数日後、ブロム公国の医師に、自宅に来てもらった。
そして診察を受けると、医師は「少し良くなっている」と言った。
医師は言った。
「神経が少し治ったことに何か思い当たるフシはありますか」
アレンは答える。
「いいえ、何もないんです。強いて言うなら、今回アリエ様が実行してくださった、世界を原罪の前に戻すという試みが、私の神経を少し治してくれたのかもしれません」
「もう病人の服を着る必要はないでしょう」
「そうですか」
医師はカバンを持って帰っていった。
アレンはベルシェに青い服を洗濯してもらった。
今、アレンは屋上にいる。青い服は、彼の家の屋上で風にはためいている。風の匂い、青い服、青い空、流れていく雲……
タイル張りの屋上には少しだけ草が生えていた。その草をも愛で、アレンは横になった。
一面の青い空が目に優しく、世界はこんなにも美しいと思う。
雲がゆっくり流れていく。
アレンは考える。
(原罪の消えた世界はまだ完成していないのだろうか。これで全部? 何より、僕の心はまだ一部、苦しみと悩みに縛られている。それでも、原罪のない世界になったというのか? 青い服を脱いで僕は少し楽になった。あの服はタンスにしまっておこう)
ベルシェが鍋を叩く音が聞こえる。
ごはんよー、と言っている。
アレンは思う。
(そうだ。僕はもう暇に飽いている王族じゃないんだ。ベルシェと庶民的な生活をしている町民なんだ)
アレンは階段を降りていき、食卓についた。
料理は、チキンスープを白飯にかけて食べる雑炊だった。チキンスープには、レモンの皮をすりおろしたものと、セロリ、玉ねぎ、トマト、鶏モモ肉、キノコが入っていた。
ベルシェは言う。
「ブリアン精肉店っていう店で、濃縮したコンソメスープを買って来たの。それがこのスープに入ってる」
アレンは答える。
「そうなんだ。ただ鶏肉を煮込んだだけじゃあまり味は出ないのかな」
「そうだよ」
ローザはコンソメ味の玉ねぎ粥を食べている。時々「ウー」とか「アー」とか「アイ!」などと言って自ら満足している。
ベルシェが言った。
「楽しいね」
アレンはその言葉にハッとして、思わずベルシェを抱きしめていた。
アレンが孤独だったころ。
少年時代、アレンは自分だけの世界で閉じていた。
それは苦しみではなく、幸せな時間だった。
父にも母にも叱られることなく、タンスの引き出しからいつでもクッキーやビスケット、飴などを取り出すことができた。
(人間は孤独ではいけないのだろうか? そんなことはない。一人の時間は大切だ。もちろん、孤独であるためには、親友の存在が不可欠だ。だからこそ孤独でいることができる。親友とはいつも心でつながっている。いつか見た紙芝居。大きな人形が敵の竜や獣を打ち倒すというもの。ベドンの町でやっていたその紙芝居は楽しかったけど、王族の一行がそれを見てはいけなかったのだろうか? 他の子供達は僕を避けた。楽しい劇を僕は途中であきらめなければならなかった。それが町民の力だ)
アレンは、貧しい人ばかりの町民がいかに王族を嫌っているかということが、その時わかった。アレンは自分が嫌われ者であることを知った。
神経病は彼を苦しめた。ときには、風呂に入っていて、湯気に咳き込むこともあった。父はそれを「お前は神経質だな」と言った。幼少時の父は彼にとって「敵」だとしか呼べない代物だった。
やがて夜になる。空は藍色だ。
屋上の空気はいい空気だった。
アレンは夜気というものがとりわけ好きだった。しかし、貧しい町人のように深夜の散歩に出かけることなどかなわなかった。王族は制約が厳しかった。
アレンは生まれつき神経質にできていたし、弱かった。それを活かせるのは美術の分野だけで、時たま彼の描いた絵が褒められるくらいだった。
(それなら僕は絵を描いて暮らせばいいのかな? いや。やはりジュース売りのほうが楽な仕事だろう。ただ果肉を絞っていればいいんだから)
まだ、リンデン・マリオン両家からもらった二百万リントのうちの大半が残っている。
たくさんの金が残っているから、別に働かなくてもいいのだ。
七十八歳ごろまで生きるとすれば、一年あたりの生活費は三万リントくらいになる。それほど豊かな暮らしはできないが、庶民とはそんなものだろう。
次の日の朝、ベルシェは言った。
「アレン、ジュース屋はやらないの?」
アレンは答える。
「うん。やってもいいんだけど、僕は勇気が出ない」
「どうして」
「人と接することにためらいを感じるんだ」
「アレンが人嫌いなのは知ってるけど、仕事ができないほどなの?」
「僕はやっぱりポンコツなんだ。接客をするときに人と気持ちが通わないのが嫌なんだ。かといって全部の客と心が通ってもおかしいけどね」
「何とかして働いてくれないと……」
ローザが泣くので、ベルシェは母乳をあげた。
「働かなくても生活できるけど、突然の出費があるかもしれないから」
「そうだね」
つらい気持ちだが、アレンは町に出かけていった。
すぐ目に付いたのは、食料品と雑貨を売っている店。貼り紙にこう書いてあった。
「店員募集 朝九時から夕方五時まで 給金は一ヶ月二千五百リント 作業内容 商品の販売、陳列など」
アレンはため息をついた。
(何でこんなことをしなければいけないんだろう。町人は、少年時代から働いてたくましく育っていくかもしれない。でも王族はそうでない場合もある。僕は、仕事をしたくない。人と心が通わない。神経病の場合、考えていることが人と違うから、人と心が通う機会も少ない。神経病の性格とは、花の匂いや酒の味、文学作品の味わい、音楽といったものに心を引きつけられているのであって、これは世間一般の人たちのあり方とは違う。僕は、どこに出てもやっていけないような気がする)
アレンは喫茶店で紅茶を飲み、パンケーキを食べて帰った。
家に着くと、戸口でベルシェが待っていた。
ベルシェは言った。
「お帰り! 今すぐお茶を入れるね」
アレンは答える。
「うん。頼むよ」
「何だか疲れてるみたいね」
「そうなんだ。何の職業についたらいいのか見当がつかないんだ」
アレンはテーブルについた。
ローザはベビーベッドからアー、アー、と声を出している。
アレンは言った。
「実はさっき紅茶を飲んで、パンケーキを食べてきたんだ」
ベルシェが答える。
「そうだったの。じゃあ、ゴーフルがあるんだけど、要らないね?」
「うん」
「私、思うんだけど、アレンの性格ならやっぱり農業が向いていると思うんだけど」
「農業か。そうだね、きっとそうだ」
「土地を買わなきゃいけないけど」
「……でもさ、僕たち、原罪の消えた楽園にいるんだよね? 何でこんなに苦労してるんだろう」
「そうだね! 空き地になっている木の実をたくさん取ってこよう。肉ももう買わないほうがいいかもしれない」
「まさに、神から離れることが人間の罪なんだね。楽園にいたアグとエレモみたいに何も心配することなく暮らしていればいいんだ」
お茶を飲んだら二人はさっそく、カゴを持って近くの空き地に出かけた。木になっている果物はおびただしい数だったが、すでに実は半分ほど取られた後だった。
地上から手が届く位置の実はもう残っていない。木に登るしかなかった。
アレンは木に登り、カゴを枝の間に置いた。そのプラムのような赤い実は何という名前なのだろう。
ラコ。
ラコ。たしかにアレンにはそういう声が聞こえた。
神の声。アリエ神の声?
実は、食べてみると甘酸っぱくておいしかった。プラムに似ている。
アレンは思った。
(そうか。それなら!)
アレンは実をたくさんカゴに入れると、地上に下りた。
ベルシェは言った。
「お疲れさま」
アレンは自分の考えを言った。
「あのさ、土地を買ってそこに何か生えないかって期待してたら、作物が手に入るんじゃないかと思うんだ」
「それはいい考えだね!」
アグとエレモの暮らした、苦労のない楽園が蘇る。
二人は家に帰ると、ラコを床下の冷たい場所に保管した。でも六個だけ外に出しておいた。
二人はラコを味わう。
おいしい実がタダで、しかも働かずに手に入る。
楽園。
労働をなくすことがアリエ神にとって一番の課題だった。
昔、人々は狩猟採集の生活をやめ、穀物をがむしゃらに蓄える「嫌な時代」に突入した。その頃から雇用者と従業員という苦痛な枠組みが現れた。
人類は神とともに過ごすことを拒絶した。
神は人間の性質の悪さをどうしようもなく嫌なものだと思いながらも、希望を捨てなかった。とにかく邪神ジデを倒せばいい時代が来ると信じていた。それは実際に来た。
アレンとベルシェは肉や魚介類、卵、チーズなどを食べるのをやめ、調味料も、昔からランデ王国に伝わる、空豆から作ったミルという調味料を使うようになった。
二人は、動物はなるべく食べないようにしようと思った。
そしてアレンとベルシェは不動産屋のガニエに相談して、家十軒分くらいの土地を買った。
七月、八月、九月が過ぎていった。
長い間ラコやパン、粥などを食べて過ごしていたが、いよいよ、買った土地に作物が生えてきた。
神の声はその名前を「グラン」だと、アレンとベルシェに教えた。
グランは低い木だった。その実は二十センチほどの楕円形で、皮の中には乾燥した米粒のようなものがぎっしり詰まっている。
味は普通の米と同じだった。神が食べやすい作物を、と配慮してくれているのだと、二人は思った。
そのうちローザは三歳になり、あまり手がかからなくなった。
今日も三人はグランの実を食べている。
これは米とほぼ同じなのである。
違うところといえば、実際の米のようにへこんだ部分がないことくらいだった。
このように新しく出てきた作物は、取ったそばからまた実が出てくる。そのため、実は一年中ついているのだった。
ローザも大きくなればどこかの男に持っていかれるんだなあ、とアレンは気の早い心配をした。
そして、二十歳になったアレンは、一度城に顔を出すことにした。
もちろんベルシェも一緒である。
アレンにとってこのマレリアの城はそれほど愛着がなかった。本当はマガンの王宮を訪れて中庭の花を見たいのだが、もう庶民になったアレンはそこに行く理由が見つけられない。
アレンたちは食事室に通され、珍しいぶどうの実を見た。それは真紅のブドウだった。
アデルが言った。
「珍しいでしょう。このブドウ、ラウジっていうの。……それよりローザ、大きくなったねえ」
ローザは答える。
「おばあちゃん、こんにちは」
「こんにちは」
マルコもローザを見て頬が緩みっぱなしだった。
アレンはアデルにたずねた。
「母さんたちもやっぱり新しい作物を食べているの?」
「そうね。みんなそうしているよ。でもうちに食べ物を納める人たちの仕事がなくなってもいけないから、そういうのは食べてる。ただ、肉や魚は食べなくなった。新しい作物を食べてると、肉や魚を食べたくなくなるのよね」
そこにカリンがやってきて、手を振った。
「王子! お久しぶりです!」
アレンはそれに応えた。
「カリン、お久しぶり。でももう僕は王子じゃないんだよ?」
「ああ、そうでしたね。平民になられて、生活は変わりましたか」
「最近では世の中の身分の差がなくなってきたみたいで、僕自身も、平民だの、王族だのっていう意識がなくなった」
「たしかに。アリエ様がこの世界を良くされたから、誰も威張らなくなりましたよね」
第十一章
真紅のブドウ・ラウジを食べながらの歓談のひととき。
アレンは思う。
(あれから五年経った)
アレンの中で、ベルシェに恋をしていたあの頃が輝かしく、懐かしく思い出される。その思い出は一生の宝物だと彼は思っている。
横からベルシェが言う。
「ぼーっとして、何考えてるの」
「いや、ベルシェと恋をし始めて間もなかった頃のことを考えてた」
「そう…… あの頃は楽しかったね。最初の頃は、アレンと色々するのがすばらしく幸せだった」
「そうだったね」
ラウジには種がない。だから幼いローザもラウジをたやすく食べることができた。
負けじとアレンたちもラウジを食べる。
マルコもアデルもラウジを食べる。
アレンは以前、カニやエビが食べたい思いが強く、実際買って食べていたが、新しい作物を食べるようになって、もう魚介類が食べたい気持ちが消えていた。神様が新しい作物をそのような食べ物として作ってくださったのだろう。
もう牛や豚、ニワトリ、羊の肉を食べなくていいのだ。彼らにだって心はあるのだから、今思えば命を取るのは残酷すぎる。
チーズケーキを食べ、ミルクティーを飲んでいた少年時代。それがおしゃれだと思っていた。
でも、牛乳を取る牛にストレスをかけているのだ。
いま、アレンは他の動物に由来する物――つまり卵などだが――そうしたものを体内に取り入れたくないという感覚がある。神の食物であるラコやグランを完全な食物だと思う。もしかしたらアグとエレモのいた楽園に生えていた植物なのかもしれない。
城のベランダから見る月は美しかった。黄色く光り、暗い地上を照らす。それは慈悲の象徴であるかのようだ。
ベルシェとローザが寝たので、アレンも床についた。
人間が堕落したために世界は苦痛なものに変わっていたが、邪神ジデが消えて世界は再び楽園に戻った。
幸せな世界……
次の日、目が覚めて、みんなでグランの焼き飯を食べる。もう三歳になるローザは焼き飯が食べられる。
紙芝居が来るというので、アレンとベルシェ、ローザは城を後にし、カデンの町に出ていった。
紙芝居は金属の人形の話で、人形には人が乗れるのだった。悪魔の星に住む敵がリドに次々送ってくる怪物と戦うのだ。
その紙芝居には楽器の演奏がついていて、話を盛り上げた。脚本を書く人も大変だろう。
アレンは次回の紙芝居に期待した。それは半年後だそうである。
苦悩の年月はアレンに何をもたらしただろうか。彼は自分ではそれほど成長したとは思っていない。しかし実際はそうではなかった。
紙芝居のあと、一家は、いつか行ったことのあるレストラン「メダード」に入った。
以前来た時からだいぶ時間が経っているので、店の壁に掛けられた絵や、料理の名前を書いた紙なども、全く違うものになっていた。
アレンは空豆のスープを頼んだ。
ベルシェは豆製ハンバーグを頼んだ。これは豆を加工して肉の食感に変えたものである。
ローザは「五種の野菜の焼き飯」と、寒天ゼリーを注文した。
アレンは思う。時代が変わっていく。その時代の流れに自分は関わっているか。自分は本当に必要な人間か。
でも、この楽園・リドはどんどん素晴らしいものになっていくだろう。
そのとき、レストラン・メダードの中に一人の憂うつそうな男が入ってきて、ラム酒と「セリ載せレモン麺」を注文した。
彼は思い切りラム酒をあおると、麺をずるずると食べ始めた。味など味わっていないという様子だった。そしてその丼一杯のレモン麺を食べ終わると、ラム酒をあおり、飲み干した。
彼はそのあと三杯のラム酒を飲んだのだが、お勘定をするときに今まで食べたもの、飲んだものを床に吐き散らしてしまった。
店員は「大丈夫ですか」と言ったが、男は大丈夫、大丈夫と言って、店員の持ってきた雑巾を奪い取り、床を拭き、吐いたものを一箇所に集めた。
男は金を払い、「悪かったね」と言うと、店を出ていった。その間、アレンたちはポテトフライを食べながら過ごしていた。彼らは不快な情景の一部始終を見守ったのだった。
リド星には緑が多くなった。ランデもその例に漏れなかった。ますます時代は退行し、人々は機織りをして、自然の中に生えている植物の実を取って食べる生活をした。
もはやリド人には悩む者がなくなった。アリエが計測した結果、大きな悩みを抱えているリド人の比率は一パーセント以下だった。
最終章
ネレクとアルテという、ともに十六歳の恋人たちがいた。
彼らはブロム公国に住んでおり、黒スグリを毎日食べていた (今ではリドの作物には一年中実がなっている)。時にはそれを砂糖と一緒に蒸留酒に漬け込み、リキュールを作った。
神が彼らの関係を祝福した。しかし、もともとアリエ神は霊的存在ではなく、他の星に住む「神」という責任者であった。だから「祝福した」とは、アリエがモニター上に二人の影を見出し、それを微笑ましく思って、彼らの運命を少々幸福なものにしたというだけのことである。
ネレクもアルテも特別美しいというわけではなかった。普通並みの顔立ち、体型だった。
彼らは今は楽園に住んでいるので、ほとんど苦労がない。だから、結婚して子供を作ろうという話になった。楽園のアグとエレモの犯した罪により、女は子供を生む苦しみを運命付けられたのだが、リドが楽園に戻った今、女は何も心配せずに子を産めばよいのだった。
二人はいつも一緒で、よく山の方に行って自生しているトマトを食べたりした。
救われなかったネレク、孤独だったネレクはアルテによって癒された。ネレクは自分がとりわけ不幸だと思っていたが、それは「みんな同じ!」などと切り捨てることのできるほどの不幸でなく、筋金入りの不幸だった。父におびやかされ、母が泣いて甘えてくる家だった。
しかし二年前、リドは楽園になった。ほとんどの不幸がリドから消えた。
そして、交際が認められていなかったネレクとアルテは親の賛成のもと、交際するようになった。
二人は結婚した。それはこれまでブロムという進んだ国には似つかわしくなかった、南国風の結婚式だった。進んだ国は歪みが大きかったが、何事も南国風の、快い文化に変わっていくのである。
人並みの情事を経て、アルテは女に変わっていった。そして子を産んだ。
ネレクも今まで軽蔑していた身体運動と筋肉に和解し、山歩きを趣味とするようになった。
二人がリース公女とその一家のパレードを見守ったのは翌年の七月だった。まぶしい太陽は苦しみのようでもあるが、四季はアリエがぜひとも残したかったものである。暑い夏に、日差しを受けながら飲み物を求めているときの幸せがあるからだ。
パレードの終着点にはりんごジュース、ラコのジュースなどが置かれ、見物人たちはこれを奪い合うようにして飲んだ。パレードの実行委員は「一人二杯までです!」と見物人たちに釘を刺した。
公衆便所には多くの人が列をなした。これを見て、アリエは「やっぱりそろそろ水洗便所を普及させる頃かなあ……」と思っていた。
一方、アレンとベルシェ、そしてローザ。
アレンとローザはベルシェの里帰りに付き合ってダボン王国の王宮に来ていた。
庭園には噴水が吹き上がり、バラが植えられていた。庭師たちはあまりきっちりと剪定しないで自然味を残そうという「楽園風」の考え方になっていた。しかしバラは手をかけなくても必要以上に伸長しなかった。
ベルシェは薔薇水を飲むぜいたくがもうできなくなったことを少々残念に思いながら、バラと噴水を見ていた。だがベルシェの父であるネルド王が告げるところによると、小規模で薔薇水を作る工房ができたという。リースは「希少価値のない薔薇水なんてただのジュースよね」と思って、二度と薔薇水に手を出すことはなかった。
時代は移り変わる。
いま、アレンとベルシェは四十歳。ローザは二十三歳になった。
マルコもアデルも年老いたが、楽園では病死は全くない。まだ二十年くらい生きられるだろうと、マルコもアデルも思っていた。
アレンの一家、そしてマルコとアデルは久しぶりにマガンの王宮を訪れた。
それは七月の暑い頃。
中庭の花は人生の価値の半分かと思われるほどの香気を放っていた。
マルコの弟であるラド王が、妻のブリッグとともに中庭に現れた。
そしてラド王は言った。
「この庭は素晴らしい。ここを誰でも見られる開かれた花畑にしようではありませんか。子供たちが少々踏み荒らしたって構わない、いっそ食事室まで開放することにして……」
アレンはその言葉を受けて、こう言った。
「賛成です。中庭は自分だけの幸せな場所だって思ってましたが、それもいけませんね。神様がくださった幸せなんだ。それは分け合わなきゃね」
太陽は輝き、風は人々に涼を運んだ。
(終)
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