語らい
「さてと、今日はここに来るという話だったんだが……一体どういうつもりなのやら」
雪人は暗い夜、用意された個室の中のベッドの上で胡坐をかいて、ひたすらに一人の少女を待っていた。
思い返すこと今日の昼。なぜか自分に話があると言っていた妹に話を聞きに行って最後にもらった一言。
――――――――――――後で行くから今日の夜は兄さんの個室にいてね。
いったいこれは何だったのか。結局雪人はその後図書館に戻って本を頭に叩き込む間に発言の意図を考え続けていたが、さっぱり回答は出なかった。
そうなると気になってしまうのが彼の癖。いったい何をするのか。もしかすると部屋にいるところを闇討ちするために布石を打ったんじゃないだろうな、と思いつつも彼は妹の意味深な発言にいいように転がされて、現在は自分に用意された個室に初めて入っている。
自分が今日は図書館に入り浸ることはしないと聞いたときのガイルの珍しそうな顔と、司書の安心したような表情は特徴的だった。ほぼ一週間徹夜状態であった自分が帰ることに司書も研究者も安心していたという事だろうが、ガイルの方はまだまだ気力の残っている自分が個室に戻るという事が不思議だったのだろう。
どちらにしても体に不調が出てきていたのも事実だったので、そんな面々には自分の体を気遣って戻るだけだと言っておいた。別にそんな必要も無かったのだが、一週間もいたところなので自分を心配する顔見知りくらいは結構いたし、心配をかける趣味があるわけでもないので安心させるくらいはバチも当たらないだろうと思っての発言だった。
そうして戻った個室は客人不在でもメイドさんたちがきっちりと掃除をしてくれていたようで、ベッドメイキングはばっちり。敷かれていた絨毯にも埃は一切ない完璧な状態だった。
この部屋の状態を見ればむしろ自分の方が汚れ物ではないだろうか。この一週間、とりあえず体を拭うくらいのことはしてきたが、しっかりと体を洗ったことは無いことを思い出し、取り敢えず備え付きの豪華な風呂に入ることにした。
湯船につかってゆっくり疲れをとるのもよかったが、疲れでそのまま眠ってしまうのも不味いと思って烏の行水ですぐに上がる。そうして久しぶりのお湯にホカホカと頭から湯気を立てて、個室のベッドの上に胡坐をかいて座っていたというわけだ。
それが結構前に終わったことで、今は三十分ほど時間がたって夜の十時。自覚はしていなかった疲れと久しぶりの一人の状態という事で否が応でも意識がかすむ。
図書館にいた時は本に没頭して、近くの騎士を警戒していたから緩まなかった警戒心が音をたてて崩れていくのを感じてしまった。
このままでは早くも睡魔の虜になってしまう。何かして眠気をさまそうと思うも緩んだ精神では体に力が入ってくれない。
やばい、起きたまま待っておくはずだったのに――――――そんな思考を最後に雪人は意識を手放した。
何処か、遠くから水の音が聞こえる。
懐かしく郷愁を感じさせるその音に聞き覚えがあったような気がして、そのまま音に耳を澄ませていくと、突然音は途切れて空に堕ちているような不思議な不安感を全身に感じる。
驚いて目を開いて状況を確認しようとするが、何故か目は開かない。そのまま明らかに空を落ちているだろうという感覚とともに、風に自分の体が振り回されるように体が動いた。
いったい自分の状況はどうなっているのかという事を知るために、使えない視覚は破棄、全身の触覚と聴覚に全神経を委ねる。
そして目が覚めた。
ガバッと腹筋を使い全力で体を起こす。光の初級魔法、込めた魔力の量で明るさの変化するライトと同じ効果をもつ魔道具による灯りつけていたはずの部屋の中は暗くなっていて、窓から入ってくるこの世界にある二つの月の光が部屋に差し込んでほのかな明かりになっているだけだ。
しかし、それでも眠っていた目には十分な光源になってくれる。辺りを見回すと、ちょうど彼が横になっていたベッドの右側に一人の少女が椅子に座って、上体をベッドにもたれかけるようにして眠っている。
冬音だ。
ただし彼はその姿を見た途端、警戒よりも先に脱力せざるを得なかった。
というか
「なんでこいつ寝巻のままなんだよ……」
雪人はそう呟いて力なく項垂れる。
そうなのだ。今彼の隣でまるで看病していたらそのまま眠ってしまったかのような姿勢で眠っている少女は、身体に薄いネグリジェ?というのだろうか。そんな感じの寝巻を着たまま突っ伏してしまっている。
その服というのもはばかられるような寝巻は夜の月光の下だからいいが、明るいところでは中に着ている下着が透けて見えるのではないかというような格好だ。起きてすぐ隣にいる少女がこの状況。正直、雪人の処理能力を軽く超えてくれている。
こいつはいろんな意味で自分の想像の範疇を超えていく。そんな相手は師匠だけで十分である。そう思った雪人はとりあえず冬音を起こすことにした。
かといって大声をあげて起こすのもいろいろとはばかられる時間であることは月の様子からも分かったので、静かに肩を揺さぶるようにして小さく声をかける。
「お~い。冬音~。冬音さ~ん」
しばらくそれを続けていると、冬音から覚醒の気配が漂ってきたので手を離した。そうしてゆっくり顔を上げたところでまだぼやけた様子の冬音と視線を合わせる。
そのまま視線を合わせた彼女はとろんとした目をしていたが、すぐに状況を理解したのかハッとなって椅子の上に背筋を伸ばして座りなおす。
どうでもいいがそんな姿勢に急にもどると寝巻の中身が見えそうになるのだが。
雪人は自分を襲った煩悩を振り払い、冬音の目にのみ集中する。決して自制心が甘いわけではない。
どこに言っているのか分からないのに雪人が心の中で必死に言い訳していると、冬音の方も落ち着いてくれたのか乱れていた髪を直して、コホンと軽く咳払いを一つする。
「ええっと兄さん。その、もたれかかってしまってすみませんでした」
「いやそんなことは別に気にしちゃいないんだが……一体どういう経緯があってこんな状況になったんだ?」
羞恥からか、少し顔を赤くした冬音が言いづらそうに謝罪の言葉を述べてくる。とりあえず雪人としてはそんなことよりも自分の部屋で何故、冬音が眠っていたことの方が気になったのでそちらの方を聞いてみる。
重ねて言うが、動揺して話を逸らそうと思ったわけではない。
「それはですね……言いづらいのですが、兄さんに昼間話した件でまだ騎士の方には聞かれたくない話があったのでそれをお話ししようとこの部屋に来たら兄さんは疲れていたのかベッドの上に寝入っていたので……そのまま起きるのを待とうと思って部屋の明かりは消して、兄さんの顔を見ていたんですが……どうやら私もその内に眠ってしまっていたようです」
「おい。なぜ俺の顔を見る必要がある?」
「え? 見ないんですか?」
疑問に思って突っ込んでみたが特にボケというわけでもないらしい。いきなり常識を聞かれた時のような反応をしているのを見て、自分の妹は何かよく分からない感性をしていると雪人は確信する。
「まあそこはどうでもいいか……。というか話したいことって何なんだ? あ、でもここにも多分間諜はいるはずだから喋るんだったらあっちで……」
「いえ、氷の魔法で部屋の周囲の大気を薄く壁上に氷結させました。内側と外側の空気の振動を完全に妨げるこの魔法フリーズウォールがある限り音が伝わることはありません」
「そ、そうか……というかそれは上級魔法なんじゃないのか?」
「兄さんと話すために準備した魔法です」
魔法を習って一週間でもう上級魔法、しかも二属性を合わせる氷属性の魔法を習得しているという事実に妹は天才だったかという驚きを禁じ得ない。
というかそしたらさっきの夢は、その魔力の余波による水と風の魔力の残滓を自分が感じ取った悪夢という事なんじゃないだろうか? 自分が接近されても気づかなかったほどの深い眠りの状態であったら結構精神の深い領域に意識があったはずである。ならば無意識化において冬音の魔法を感知したという可能性もありそうだなと最早身に沁みついた研究根性で分析する雪人。
「……兄さん」「ハッ!」
サイエンスな思考に持っていかれていた自分の意識を冬音が現実に戻してくれる。なんだかんだで緊張も取れてきたし、頭の回転も戻ってきたのでそろそろ本格的に妹の話を聞くことにしよう。
「で、結局お前は何が話したくてここまで来たんだ?」
「……ちょっと長くなるけどいいですか?」
「そんなのは気にしないからさっさと話せ」
「うん……じゃあ話します」
大体冬音がその後に話したのは以下の通りだ。
今回何故魔王討伐という依頼を請けなかったのか。そして王城からどこに行くつもりなのか。最後に何処かに行くのなら自分もついて行ってもいいか。という三つだった。
最後のは一体何なんだと思ったが、深く考えても、冬音の様子をみても全く意図は分からなかった。というか見ていたらフイッと目を逸らされたせいで考えが読めなくなった。
「まず初めのことだが……魔王討伐は俺には無理だといったはずだろう? 別に俺は超人ではない」
「……それはさっきも聞きました。でも兄さんだったら魔王を倒そうと思えば努力して実際に倒せるようになるでしょう? なんで決心しないのかなって」
要するに冬音がいいたいのは何故魔王を殺すことを考えないのかという事だろう。確かに能力が足りなくて諦めるというのも人にとってはあるかもしれないが、少なくとも雪人は能力の有無で意思を曲げる気はない。そういう彼の性質を見抜いた意見だという事だろう。
話をようやく理解した雪人は、自分のことがなんでこんなにばれているのか不思議に思いつつも、別に間諜が誰も聞いていないのなら困ることもないと自分の理由を話し始める。
「ああ……そういうことな。だったら話は簡単だ。俺は別に魔王に恨みはないし、顔も知らないような相手を殺そうとは思えないからだ」
「……それだけ?」
拍子抜けした。というような表情で聞いてくる冬音だったが。結構これは重要、というか雪人としては外せない条件だ。
もし、何かを殺めるときは顔を見てから。彼はそう戦いの中で教わったし、彼自身もこの意見には納得しているのだ。
「重要だろ? こういうことは。というか普通顔も知らない相手を、見も知らぬ相手から殺してくれなんて頼まれても従う気にはまったくならないな。お前もそうだろう」
「…………うん」
「なんだその間は」
「二つ目は……?」
不自然に空いた言葉の間に対する雪人のツッコミを華麗にスルーして、冬音は次の質問に移る。
親は情操教育をしっかりやっていたんだろうかと疑問に思ったがそういや自分も受けていない。つまり雪人にも人のことは言えないのだろう。
「別にどこに行こうとかは決めてないさ。ただ自由に旅に出たいと思っているだけだ」
「なんでですか?」
「なんでってそりゃ、気になることがあるからだよ。世界にはまだ見ぬ不思議がたくさんあって俺はそれを見たいからな」
彼の孤立の原因。極端な好奇心は、例え人に拒絶されて小さくなっても未だに体の内面でくすぶることを止めてはいない。
「自由に生きたいという事?」
「そういうことだな」
「じゃあ、一緒についてっちゃダメですか?」
上目遣いの攻撃に、勿論雪人は長年の夢を譲らない。
「面倒。俺は一人旅がしたい」
「どうしても?」
しつこく食い下がってくる冬音に対し、自分もそろそろ面倒になってきた。
ここはたとえ厳しかろうと、いきなりの状況で将来に不安を持つ妹に一言いいことを言わないといけないところだろう。
「お前もこっちの世界に召喚されたんだったら自分で自分の道を選ぶんだな。俺も年長者としての最低限の義理は今日のこれで果たしたことにする。ここからは自分の力と意思で道を見据えて行け」
含蓄、というほどの重みは無いが、結局は自分の人生、自分でどうにかしないといけないというある種の心理を雪人は淡々と冬音に告げる。
流石に感じ入るところもあったのか、黙って考え込むような仕草をする冬音に対し、ようやく納得したかと胸をなでおろす雪人。
しかし、彼の判断は間違いであった。
「……じゃあ条件があります」
「なんだそりゃ?」
突然の冬音の発言に疑問符を浮かべる雪人。流石にこの完全論破した状況で、まだ何か条件を付けられても彼は守ろうとは思わない。適当にごまかしておこう。
「一週間後にある私の遠征型戦闘訓練に一回は付き合ってほしいです。それが最後のわがままではだめですか?」
「一週間後ねぇ……」
と思ったが、考えてみると一週間後は自分の知識の詰め込みが終わりそうな頃合いだ。どうせその日には城を出るし、自分の体の鈍りをほぐすのにも時期的にも丁度いいかもしれない。
なので、深く考えずに発言した。それが墓穴になるとは知らずに。
「別にいいんじゃないか? その頃までなら俺も城にいるだろうし」
「本当? じゃあ明日から打ち合わせに毎晩この部屋に集合でお願いします」
「あ? おい!」
嵌められた。自分に戦闘訓練を了承させたのはそれが理由だったか。と今更考えてももう遅い。一瞬前まで座っていた椅子からスタッと立ち上がり、そのまま部屋の扉を開けていく。
「じゃあね。また明日」
それだけ告げて去っていく冬音。風の魔法も使ったあまりの速さに油断していた雪人は止める隙も見つけられなかった。
図書館に逃げ込んでも、きっと彼女はあの寝巻を着て、襲撃してくるだろう。完全に詰みの状態に追い込まれた彼に残された手段はただ一つ。
「せめてまともな寝巻を着といてくれよ……」
そうやって祈ることくらいだった。