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第五話

《九》


「先生の作品は、最近女性の方、特に若い女の子たちから凄く支持を受けているんですよ。先生の情景描写、特に山紫水明の活字表現や男女間の感情の機微のリアルさなんかが女の子たちから評判良くって……」

「ふーん、そう」

 次の仕事の話から多少脱線をしていることに気付いていないのか、小森が身振り手振りおれの作品に対して寄せられた読者の感想を熱弁するのに、おれはというと適当に相槌を打ち返す機械のようになっていた。

 どうせ仕事の内容についてはメールにて細かく指示が来るというのを経験から知っているというのが、まず一つの原因である。

 だが、最初に白ワインのアテにするピクルスを玉葱からにするか赤ピーマンからにするかといった難儀なニ択を迫られていたというのが最たる原因であろう。

 更には、そもそも話の内容が前任の担当編集からもしょっちゅう聞かされていたものなのだから、おれの態度もやむを得ないものであろう。

 おれにとってそうした女子供の感想は箸にも棒にも掛からない、というよりも屁とも思わないようなものばかりで、作家としてのモチベーションを上げるに値しないのである。

 寧ろ時たま読者から送られてくる感想では一見すると頓珍漢である、酒の思い出や失敗談のようなものが、おれにとっての一番の刺激となり、作家冥利につくというものとなる。

 旅先のちっぽけな温泉宿で呑んだ名も知れぬ酒が筆舌に尽くし難い旨さだったのを思い出しただの、呑んだ帰りに最終電車で乗り換えを失敗して見知らぬ町で迎えた朝の風の心地良さを覚えただの、酒と共にあった各々の人生を感じる純朴な感想が心に沁みるのだ。

ここに居ぬ誰かに酒に関してシンパシーを覚えさせることこそ、おれにとっての作家としてのプライドを支えているに他ならなかった。

 

 おれへのおべっかが一段落着いたのか、小森はジョッキに三分の一ほど残ったノンアルコールビールを飲み干すと、なにやら鞄をごそごそと漁りだした。

数枚の資料を取り出して「それでですね、先生?」と、妙に溌剌とした面持ちで話を再び仕切り直し始めた。

「はいはい?」

 白ワインのいくらかの渋さを帯びた酸味とキリッとした辛味が、赤ピーマンのほっこりとした甘味を引き立てるのを噛みしめながら、おれはやはりおざなりに話を聞き流そうと、体勢を少し崩した。

 左肘をウッドチェアの肘掛けに立て、頬杖をつくようにしたその姿勢でピクルスをピックへ突き刺そうとするのだが、なかなか巧くいかない。

 そんな気もそぞろに話を聞いていた筈なのに、きっちりと意味内容を把握してしまうのだから人間の耳というのも存外馬鹿に出来ない。

 いや、この場合聞き取れなかった方が幸せだったのやもしれない。


「今度先生にはお酒の描写が一切ない作品、それも飛び切りの恋愛ものを書いて貰ったらどうか、というお話が出ているんですよ」

「・・・・・・は?」

 苦労してピックで突き刺した人参を思わず取り落とす程に、寝耳に水と言うべき話であった。

 こいつは何を言っている?

「雑誌の方針からすると、女性読者に人気ある先生の作品にアルコールの描写があるのはちょっとな、ということになりまして。甘酸っぱい少年少女の青春群像に一つ是非挑戦していただけないかと思っているんです」

「つまりはおれにアイデンティティを捨てろ、と?」

「いえ、寧ろ先生の最大の武器は物事の繊細さ、美しさを描けることだ、というのが編集部全体の総意なんですよ。お酒について書くのを控えてより綺麗な文章を目指す方針が相応しいだろうという意見が多数出ているんです。私もその意見に賛成しています」

 つまりはおれの酒についての記述が汚い、雑誌に不要だ、という旨を遠回しに伝えられているのだということは、酒が入っていようとも分かる。

 さしものおれもワインを煽ろうとした手を止め、著名な料理評論家にして食に関するエッセイを雑誌へ寄稿していた大作家の名を挙げ、早速の反論をした。

「酒について書くな、と言うのか! 酒やら食事やらについてなら吉村大先生も貴社に寄稿している筈だろう!?」

 おれの剣幕に、小森は一瞬たじろいだ素振りを見せたが、おれが憤る理由が見当も付かないようで、首を傾げながらしかし確かな口調で言葉を返した。

「あ、はい。吉村先生にも先月までは呑み屋さんやお酒なんかについての随筆をたくさん寄稿して頂いてきました。勿論評判は大変良かったのですけれども、それも実は今月で最終回ということにさせて頂きまして、来月からはスイーツについての随筆を書いてくださることが決まっています。読者に女性が増えつつあることも踏まえての決定ではありましたが、世の中のニーズに合ったクリーンな雑誌を目指そう、という弊社の方針に大変共感してくださいまして」

 この辺りの事情は必死に覚えてきました、という感を覚える言い回しで説明する小森の表情は些か強ばっているように見えた。

 事実に近い嘘を言っている。

 ただの勘であるが、おれには小森の言動がそう聞こえて仕方がなかった。

 吉村先生とは出版社のパーティで意気投合して、一緒に何度か呑みに行ったこともあるが故に、その言葉をにわかには信じることは出来なかった。

 嬉しそうにワインへ口をつける様が愛嬌のあるお方でワインに大変造詣が深く、何より同じ酒を一つのテーマに長々と活動してきた作家であるのだから、そうした心変わりを理解できる由もなかった。

 

 吉村先生が望んで女子供が好むような幼稚な菓子なんぞについて書く筈がない。

 吉村先生を屈させる程の何か大きな圧力を、謀略の影を感じざるを得ない。

 ひょっとすると出版社、いや出版業界を揺るがす程の権力が働いているのではなかろうか、そんな疑惑がおれの頭をもたげた。

 ここに来る電車で見た飲酒禁止のポスターをおれは思い出していた。

「君ね、幾ら女の子から支持が得られるからといって、あんなにワインを愛する吉村先生が簡単に呑み歩きのエッセイを辞めるはずがないだろう? 先生がそうしたエッセイを辞めざるを得ない差し迫った事情が君達の会社に降って沸いた。違うかね?」  

「……い、いえ、えーっと」

 おれがにわかに饒舌となり、食って掛かってくるとは思ってなかったのだろう。

 あからさまに狼狽が見て取れる小森を、おれは更に問い質す。

「国から何らかのお達しがあったんじゃないのかね? 近々、酒類描写の掲載を禁止する法令でも成り立つだのなんだの。法整備の前に自粛していくことを検討するよう秘密裏に指導を受けた、違うかね?」

 ぐうの音も出ない、という面持ちで暫く俯いていた小森が徐に語り始めた。

「・・・・・・そうです。まったく先生の言う通りです。全面的にお酒の個人所持や飲酒の禁止を政府は進めていく方針とのことで、読者の飲酒を促すようなお酒に関する記述を出版物に掲載するのを段階的に禁止していくという情報が出版社には通達されました。次第に出版社、執筆者共々に重い罰則が科せられていく予定だということでした。だからこそ、我が社で連載をしている先生方には、ごく自然な形で自主的にお酒の記述を自粛して頂くことが、最善にして合理的な方針であろう、と会議で決定されまして。……吉村さんも先生と同じように私共の話を不審に感じ、理由を追及されましたので、結局、政府による圧力が掛かっているとの旨を伝えたところ、渋々ながら作品の方針を改めてくれると約束して下さいました。弊社としても優秀な作家である先生をむざむざ失うことなく、これからも協力して良い雑誌を目指していこうという思いから、このような回りくどい方法を取って、お酒の記述の無い作品を書いて頂こうとしたのですが……」

 真顔となった小森が一片の笑みも漏らさずに全てを打ち明けた内容は、予感していたこととは言え、改めて聞かされると、気分が重くなった。

「つまりはこの国では、酒に関して完全な表現規制が成立する。表現の自由が束縛される。そういうことなんだな……」

 おれは誰にともなく呟いた。

「……ええ」

「出版社は、これからも酒について書きたいという作家の想いには応えてくれない。そういうことなんだな……」

「そっ、それは! その……」

 押し黙る小森に、酒についての記述の自制の方針を固めた出版社に、おれは元より答えを求めていないのだ。

 おれは眼前のワインボトルのキャップを外すと、ラッパ飲みで一気に飲み干す。


何時だってそうだった。

 おれに力を、勇気を、生きる希望を与えてくれたのは酒だった。

 初めて出版社の賞へ応募した時も、元妻へプロポーズした時も、職業作家として生きる意味が分からなくなった時も、活力を与え、支えてくれ、自らを省みさせてくれたのは酒であった。

「あ、あの先生……?」

「分かった。仕事を引き受けよう」

「えっ……!? 引き受けて下さるんですか?」 

「ああ。国に歯向かってまで酒なんぞについて書き続けるほど、おれも愚かじゃないよ」

「ご理解頂けたんですね! ありがとうございます、先生!」 

 小森がうっすらと涙を零して両手を差し出してきた。おれは右手を差し出して握手で応えた。


 おれは酒についての記述が一切ない原稿の依頼を引き受けることにした。 しかし、それはあくまでおれの作品を電子雑誌に載せることが目的であった。

 おれは全身全霊を込めて酒に纏わる小説を書き上げる。

 読者に、出版社に、社会に、国に、酒とは何かを、酒呑みとはどんな生き物なのかを、呑兵衛作家の存在意義を示してやることを決意した。

 酒の素晴らしさを説き、酒呑みが決して規制なんぞに屈しないということを示してやる、その一念で仕事を引き受けたのだ。

 小森の話を聞く内に、おれには『酒が呑める社会はおれが守る』という奇妙な正義感が芽生えていた。

『酒に纏わる記述の一切ない恋愛小説』をダミー原稿として出版社に送り付け、『酒と酒呑みを賛美する風刺小説』と差し替える。

 それが、呑兵衛作家として出来るおれの唯一の正義の為し方だ。

 この時、おれは徹底的に酒規制へと向かう社会と孤独に立ち向かうことを決意したのだった。


 

《十》


 おれと小森は、仕事の契約関連の話を手早く済ませると、ノンアルコールバーを出て駅へと向かった。

 初めこそ小森は小鳥のさえずりのようにピーチク話しかけてきていた。

 しかしおれは店を出た後も、酒というものがどんなものかを読者に、出版社に、社会に、分からせてやるためには作家としてどんな作品を書くべきか、轟々と煮詰め続けており、斜め後ろから聞こえる雑音に対して生返事を返したかどうかすら怪しかった。

 おれの余りの反応の薄さに屈したのか、いつの間にやら黙ってとぼとぼとおれの後ろをついてくるだけとなっていた。

 いよいよ駅に着いて、おれがそのまま改札を通って帰ろうとするのに、小森が焦って駆け寄り、上着の袖を掴み引き留めて来た。

 不安げな小森が早口で捲し立てるのに、二つ三つ言葉を返して改札口で別れた。

 最早、意識は眼前の小森に在らず、頭の中の原稿へ向かっていた為、小森が何を言い、おれは自分がなんと言ったかも定かでなかった。

 おれは頭に浮かんでいく作品のイメージを踏みしめるように一歩一歩力を込めてずかずか駅構内を進んだ。

 人混みの中、流れに従って小説の構想を必死に考えている現状に、奇妙な飢餓感に捕らわれ創作に没頭していた学生時代の自分を見出し、苦笑いがこみ上げてくると同時に幾分気が楽になった。


 九時を回り、仕事上がりのサラリーマンや遊び帰りの学生でホームは雑然としていた。

 移動するのも面倒であったので上りきった階段付近の列に並んだが、人は多い割にどうも繁華街の駅という感を覚えないのが腑に落ちなかった。

 浮ついた酔っぱらいの客を一人も見ない。

 群衆の誰もが乱れずにきちんと整列しており、駅構内ではちらほらと散見した正体の怪しい顔が赤くなった連中が見受けられない。

 一人くらいはそんな輩がいてもおかしくなかろうときょろきょろ辺りを見回していると、横合いから急に「ちょっとすみません」と、静かだが有無を言わさぬ調子の声を掛けられた。


「は?」

 落とし物でもしただろうかと振り向くと、小難しい顔をした駅員がなにやら機材を手に立ちはだかるようにして立っていた。

「お急ぎのところ申し訳ありません。飲酒乗車の検問を行っているのですが、ご協力願えますか?」

「ん? 車を運転する予定は御座いませんが?」

 普段から酒ばかり呑んでいるおれはまず、移動手段に車というのはあり得ず、運転免許こそ持ってはいても、自家用車というのを終ぞ所持したことすらない。

 だからこそ飲酒運転の疑いを、それもこんな見当違いのところで持ちかけられるとは思っておらず、間抜けにも質問を質問で返す真似をしていた。

「いえ、飲酒運転の検査ではなく、一般車両にお酒を呑んでいる乗客の方が乗ることが当路線では現在禁止されているんです。飲酒されている方には、酒気帯び乗車専用車両へ乗って頂くことが決まっておりまして、お客様に検査のご協力をお願いすることがあるんですよ」

 駅員が丁寧ではあるが淡々とした口調で説明する。

 その説明はあくまで事務的で、内心面倒に感じていることがありありと表れている。

 こういったものは実施する側もされる側も互いに面倒であるのは確かな事実であるし、素直に協力しておくのが波風立つまい。

「はぁ、そうでしたか。それじゃお願いします」

 電車を待つ周りの奴らのじろじろと蔑むような視線がこちらに集まり始めているのも肌で感じとったおれは、さっさと終わらせたい一心から潔く口を開け、呼気検査に構えた。

 こうした素直な態度が意外であったのか、駅員はしばしの間を置いてから、先刻よりも幾分和らいだ声でおれに指示を出す。

「息を強く吐いてみてください」

 周囲の視線を気にしながらも、おれは深呼吸の要領でいったん息を吸うと、はぁー、と吐き出した。

「やはり、あなたの息からはアルコール臭が嗅ぎ取れますね」

「ええ、先程まで呑んでいましたもので」

「では、こちらのアルコールチェッカーで呼気中アルコール濃度を測らせて頂きます。こちらのストローをくわえて肺いっぱいの空気を吹き出すようにして吐いてください」 

 最近ではとんと見なくなった固定電話の子機ぐらいの大きさに形状の機械から伸びる短いストローをくわえると、おれは指示された通りに、ゆっくりとしかし力強く息を吹き込んだ。

「はい、いいですよ。息を吐くのを止めてください」

 ピピピピッ、という体温計の計測終了を示すような電子音の後、駅員がそう告げた。

 おれは言われたままに息を吐くのを止めた。

 それは調度肺活量の限界を迎えて苦しくなり、止められずとも自ら止めていたであろうというタイミングであった。

 機械の画面をしかめ面で睨みつけていた駅員が手帳を取り出して、何やらサラサラと認めると、口を開いた。

「呼気一リットル中に零点六三ミリグラムと、飲酒乗車禁止規定における普通車両乗車可能飲酒量以上の数値が出ましたので、当路線の乗車規約に基づきまして、お客様には一万円の罰金が科せられます。また乗車に関しましては、酒帯び者専用車両に移って頂くことになりますので、後程ご案内いたします。身分証のご提示をお願い致します」

 さも当たり前だと言うように事務的に告げる駅員へ反論する余地はまるでなかった。

 おれはおずおずと財布から自動車免許証を取り出し、駅員に渡した。

 おれの脳裏には、行きに嫌になるほど見せつけられた『飲酒乗車厳禁』のポスターが浮かび上がってきた。

 舐めていたと言わざるを得ない。

 おれはまだこの国の酒規制の流れに高を括っていたのだ。

 

 駅員が罰金の支払いについて説明するのを聞き流しながら、酒規制の現状を早急に調べねばならない、ということをおれは考えていた。

「それでは、後日に罰金のお振込み用紙を郵送致しますので期日内にご振込みお願いします」

「ん? あぁ」

 どうやらやっと解放される運びが整ったようで、駅員がガサガサと資料を纏めると立ち上がった。


「本日はこれでお帰りして頂いて結構です。酒帯び者専用車両に案内致しますので此方へどうぞ」

 帰宅ラッシュに差し掛かり混雑するホームを掻き分けるように進む駅員に連れられるままにやってきたのは、予想通りホーム後方、一番端であった。 なるほど酒帯び者専用車両待機場所に相応しいと言える所であり、漸く見慣れた光景に出くわせた、という安堵感をおれに与えた。

 赤ら顔で後輩にくだをまくサラリーマン、乱れた服装で吐瀉物と共に横たわる女学生、浮浪者然とした恰好で呟くように歌う老人。

 終電近くの繁華街のホームというのはやはりこう退廃的でなければならない。

 この国をここまで発展させてきたものの影が色濃く映るのが駅のホームという空間なのだ。

 おれがそう得心して頷いていると、「それでは失礼します」と、駅員が脱帽して一礼し、さっさと踵を返していった。

 

 人影に駅員が消えるのを見送り、おれは改めて辺りを見回した。

 足元にはくっきりと白線が引かれ、おれが立っている側には鈍いオレンジ色で『酒帯び者専用車両乗車位置』とでかでかと書かれていた。

 塵一つ落ちているのが見受けられない白線の向こう側に対して、此方側ではゲロが掃除されずに放置されてままになっている。

 故意かどうかは分からないが、蛍光灯が切れた状態で放置されている。

 

 暫くそうして辺りを見回していたが、左側から刺すような視線を感じ、おれは目を伏せて線路を眺めていざるを得なくなった。

 一般車両を待つ乗客達から躊躇いのない侮蔑の目が向けられていた。

 それもその筈で一般車両の乗客達が一番奥まで列を成して待っているのに対して、酔っぱらい達はおれを含めて六人。

 これから満員電車に体を無理矢理ねじ込み押し潰されながら最寄り駅を目指す彼等の目には、がらがらの車両にゆったり座って帰るのであろうおれ達はさぞ憎らしく映っているに違いないのだ。

 

 実際には五分程度であったのだろう。

 針の筵の上に寝かされているかのような心境で電車を待つ時間は二十分にも三十分にも思えた。

 しかしやっとやってきた電車の車両が通り過ぎていく様を安堵して眺めていたが、最後尾の車両が目の前に現れるとおれは愕然とした。

 その車両は明らかに古い型の車両で所々錆や塗装の剥がれが目立つ代物であった。

 乗り込むと、どうやら古い時代の名残の客車のようでトイレが備え付けられているのだが、扉を開けっ放しにしてげーげーと吐き戻している酔っぱらいの姿が目に飛び込んで来た。

 そして内部もやはりぼろぼろで電灯が何本か切れたまま放置されており、他車両と比べてかなり暗く、そのこともおれを陰鬱とさせたが、碌に掃除もされていないのであろう。

  あちらこちらに吐瀉物が残されたまま放置されていた。

 

 酒と嘔吐物の臭いで蔓延する車両内は、誰かが臭いを逃すためであろう、ほとんどの窓が開かれ、風が吹き荒んでおり、やたらと寒かった。

 どうやら掃除をしていないのは一日、二日というレベルではないらしく、鼻につく酸っぱい臭いが度々おれの鼻を襲い、何度か吐き気を催した。

 

 席が空いているというのに座らずに寝転がっている酔っぱらいを避けておれはやっとの思いで座席につく。

 しかしのんびりともしていられない。

 堪らない臭気に鼻を摘まみながら、おれは苦手な携帯メールをちまちまと打った。メールの送り先は大学時代からの友人でプログラマーをやっている辻である。趣味でハッキングを嗜む曲者で、ちょっとした企業のちょっとしたデータを改竄するなどお手の物の奴である。

 知る人ぞ数少ないが天才的なハッカーであるこいつと親しくなければ、まず原稿を差し替えてやろうなどということは考えなかっただろう。


「これで良いか……」

 細々とした事情を伝えるかどうか、書いたり消したりをしながら迷った挙句、簡素なメールを送った。

『仕事依頼。仕事を頼みたい。○月×日にA出版で原稿を発表するんだが、その原稿を発表前に別の原稿と差し替えて欲しいんだ。出来るか?』

 直ぐに返信が来るとは思っていなかったため、酷い臭気と寒さの中何とか寝付こうと試みていたメール送信後十分くらい後にポケットの中の携帯電話が震えた。

『引き受けた。報酬は取って置きの酒三本ってところだな。今潜って確かめてみたがその出版社のセキュリティレベルなら発売日の前日に差し替える原稿送ってくれれば間に合うぜ。ファイルの体裁だけ整えて送ってくれ』

 このなんとも適当な友人のメールにおれは途轍もない安堵感を覚えたのは言うまでもない。直ぐに返信を返した。

『深く事情を聞かないんだな?』

『どうせしょうもないことだろ。犯罪であることに変わらないし、なんだか面白そうだからな。やってやるよ。報酬には期待している』

『任せろ』

 おれは辻とメールのやり取りを終えると、自らの頬をぴしゃりと叩いた。変わらない酒呑みの友達との接触は、下がりかけていたおれのモチベーションを確かに取り戻させていた。

 どんな物語を紡ごうか、漸く本気で仕事に取り掛かる決心がついたのだった。

 おれは車内での時間を酒規制に対する憎しみをひたすら煮詰めるのに使った。

 そうすることが今回の原稿を書き上げる最大の原動力となるに違いない。 この時のおれはそう信じて疑わなかった。

展開動きました。

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