第四話
《七》
「おいっ、これはノンアルコールビールテイスト飲料だろうが!」
長い長い反芻と共にやっとのことで口の中を蹂躙する不快感を嚥下し終えるや、おれは誰彼なしに怒号した。
静かな秩序を保っていた店内では、おれの大分嗄れた声でもよく響いたようだ。
散見される客や店員が突然背に冷水を浴びせかけられたかのように狼狽え、こちらをちらちら伺っているのが見える。
誰も他の店員が動こうとしないのを見てとって、躊躇いがちに先程料理を運んだ青年がおれの方へとやって来た。
「お客様? いかがされましたか?」
「おい、これはノンアルコールビールだろっ!」
「え、えぇ。こちらはノンアルコールのものです」
「こいつをとっとと下げて、生ビールと白ワインを早急に持ってきてくれ。それに自家製ピクルスとフィッシュ・アンド・チップスを追加で頼む」
半分以上残ったジョッキを押しつけるようにして机の端に寄せながら、おれがメニューを見て目星をつけていた品をせかせか注文するのを、ウェイターは慌ててメモを取る。
「かしこまりました。ビール、白ワイン、ピクルス、フィッシュ・アンド・チップスですね。ビールと白ワインはアルコール入りのもので……」
「当たり前だっ! 急いでくれ」
「はいっ、取り急ぎお持ち致します」
ウェイターは引き攣った笑顔で一礼すると、おれのジョッキを持ち、いそいそと店の奥へと引っ込んでいった。
キッチンの入り口であろうその空間をじっと睨みつけるようにしていると、小森がおどおどと口を開いた。
「せ、先生……。申し訳ありません」
「……あぁ」
勝手なまねをしてノンアルコールビールなんぞを飲ませてくれた小森とは正味な話、口も聞きたくないというのはある。
しかしおれも腐ってはいても大人であり、小森は一応のビジネスパートナーだ。謝罪の意志があるのなら素直に受け止め、怒りも酒で流せば良かろう。
「実はここは最近流行りのノンアルコールバーのようなものでして、流行りの酒場となれば先生もお喜びになるかと思ったのですが……」
「ノンアルコールバー?」
再度辺りの客層をそれとなく見返してから、メニューを訝しげに眺めていくと、なるほどノンアルコールバー グリーン・グローブと記述されている。
メニューをざっとめくっていくと、ノンアルコールカクテルを中心としたノンアルコールドリンクのページが八ページにわたり写真付きで載っているのに対して、酒はたった二ページだけであり、その内の一ページの半分はソフトドリンクである上に、写真なぞ一枚も付いていない。
道理で仕事帰りのオフィスレディの姿なんぞを多く見かける訳である。
確かに酒のメニューはノンアルコールよりも少ないのだが、それでも下手な居酒屋よりも種類が多く、質も良い。酒が置いてあるのなら、ノンアルコールバーという業態自体にはこれ以上深く言及していく必要性は感じられない。
だが、話にキリをつけさせる為、敢えておれは顎で小森に話の続きを催促した。
「え、えぇ。お酒が呑めない若い子なんかにおしゃれなバーの雰囲気が体感できる場所として人気なんです。そうした若者文化の一端に作家である先生なら見るべきところなんかがあるんじゃないかって……」
「ふん、大きなお世話だね。ま、酒がありさえすればなんでもいいよ。別に怒っちゃいないさ」
注文した小森に原因はあれど、注文を小森一人に任せてしまい自分の甘さやノンアルコールビール自体への方に怒りの中心があり、小森に対しての怒りが薄いのは確かである。
多少気落ちして小森の端正な顔が苦渋に歪む様というのも趣はあるが、このままだらだら謝罪を続けられるのでは酒の肴には似つかわしくない。
それに何よりもウェイターが右手にジョッキとグラスを、左手にワインを携えてこちらに向かって来ているのが目に入ったのだから、小森の話なぞ聞いている場合ではないのであった。
《八》
「それじゃあ、改めて。乾杯」
先刻よりも緩やかにジョッキを合わせて手早く乾杯を済ませると、おれはグビグビと喉を鳴らして一挙に半分近くまでビールを呑み下した。
ほろ苦さと共に華やかなホップの香りがあっという間に口の中へ広がり、深いアルコールの余韻を残し「おれは酒を呑んでいるのだ」と、いよいよ実感させる。
爽快感と余韻を与えてくれるビールは「取り敢えずビール否定派」であるおれでさえも最初の一杯目として申し分がない酒だと認めざるを得ない。
一口目のビールの余韻を楽しみきった後に、ぷはーっ、と一息ついて、待ちに待ったチーズの盛り合わせに手を伸ばす。
選んだのは淡いオレンジ色のチェダーチーズ。
それをトーストに載せてばくりと頬張る。
トーストのサクッとした食感と同時にチーズの濃厚な味が口一杯に広がり、後を追ってピリリとした辛味が舌に踊る。
大地の恵みを感じさせる豊かな小麦の風味とふっくらとした弾力をしばらく噛み絞めてから、ビールで一気に流し込む。
トーストとビール。小麦と大麦が奏でるハーモニーに目を閉じると風に靡く麦畑を連想させた。
まったくもって至福の時間である。
おれの様子をしばらく窺っていた小森も小皿に取り分けたチーズをナイフで細かく切り、ちぎったトーストとともにちまちま口に運び始めていた。
しばらく二人して黙々とチーズを食べていたが、小森が頼んでいたのだろうサラダにクリームコロッケに加え、おれが注文していたピクルスとフィッシュ・アンド・チップスが続々と届き、机の上が賑わうと共に宴も次第に賑わってきた。
気を良くしたおれは手軽に酔いを加速するべく、更にビールをもう一杯注文した。
どれくらいの時間が経っただろうか。
どの料理が旨いだの、この作家の近況がこうだの、と当たり障りのない会話に勤しみつつ、料理をしばらく堪能した後、小森が改まって先程の無礼を詫び始めた。
「先生、先程は本当に失礼致しました。お仕事のお話をするつもりでいましたので、アルコールでない方が良いに違いないと手前勝手に決めつけてしまって。先生がお酒を好きなのは承知のつもりでしたのに・・・・・・」
「あぁ、もういい、もういい」
おれはワインボトルを取り上げ、スクリューキャップを捻りながら、ぺこぺこ頭を下げる小森を制した。
絶妙な相性であったビールとフィッシュ・アンド・チップスある程度腹が満ちて来た為、白ワインでまったりやろうか、という時に、水を差されてはたまったものではないのである。
ワインは高級レストランなどではウェイターが注ぐものであり、自分で注がせるというのはあまりないのであるが、手酌でワインをボウルの高さ三分の一程度まで注いだ。
机の端に寄せてあったもう一方のグラスを取り、同程度注いで「ほれ、呑みなよ」と、小森の方へ寄越すと、小森はおずおずと受け取り、申し訳なさそうに小さくにこりと笑った。
おれはグラスを捻るようにして傾け、再度乾杯の意を示し、匂いを楽しんでから、少量を口に含んだ。
瑞々しい果実を思わせる芳醇な香りと爽やかな酸味が満ちつつあった食欲を刺激し、まだまだ呑めるな、というおれの尽きぬ飲酒欲をひとしお盛り立て、嬉しくなった。
小森はというと、おれの動きを追うようにしてぎこちなくグラスを持ち上げ乾杯のポーズを取ると、右手で匂いを嗅ぎ、若干眉を顰めてから、そっとグラスの端に唇を付け呑む振りをした。
おれがグラスに口を付けたまま見下ろすようにして小森のその様を眺めているのに気付いた小森は「林檎のような素敵な香りですね」などと、ごにょごにょ口ごもりながら言うと、グラスをコトリと机に置いた。
「ああ、なかなか品のある代物だね」
おれはにやりと小森に笑って見せてやる。
体面だけ繕うことで、早々に仕事の話を終えさせこの場を後にしたい、という意志がおれにさせた懇親の作り笑いであった。
「先生の寛大さには痛み入ります。宴もたけなわといったところではございますが、先生のこれからのお仕事の話をさせて頂きますね。先月、看板作品が大団円を迎えたばかりですが、来月より先生に新しく作品を書いて頂こうということが決まりました。それでですね……」
照れ笑いを浮かべながら長々と話し始めた小森へ、手前が酒を一滴も呑んじゃいないのだから宴もたけなわも何もあるまい、と内心で呆れながら話を聞き流す。
前担当の時はお互いがどんなに酒が入っていようとも、互いに言葉を交わし合い、仕事を何とか形にしようという意志が働いた。
しかし、どうにも酒を呑まない、酔い心地を共有しようとしない小森の話は、これ以上真面に聞こうという気にはならなかったのだった。
アルコール度数が揃わない呑みというのは、何時しかおれと相手との気持ちとそごが生まれていくのは、今迄の人生で重々承知である。
小森とは、水と油、決して混じり得ないであるということを悟ったのだ。 おれの中では酒と料理を真摯に味わうことだけが、最早この呑み会へ付き合う意義となり果てていた。
とりあえず第◯話とサブタイトルを付けてますが、2章ずつあげているだけだったりします。