第三話
《五》
「あっ、先生……。此方ですよ? 着きました!」
正しくおっかなびっくりといった表現が相応しいだろう。
小森の目上の仕事相手を気遣いながらも使命を果たそうという意志を感じる力強い声が、おれが纏った真空を突き破り耳に届いた。
「んっ……? ああ」
意識を取り戻したおれはまるで電車で眠りこけ終点で駅員に肩を叩かれて目覚めた疲れ切ったサラリーマンのように自分の居場所を確認すべく、眼前に注意を向ける。
「ほぅ」
思わず感嘆の声が漏れた。
如何にも日本人的につまらなくカテゴライズしてしまえば、カフェ&バーというのが眼前の店を表すに適当であろうか。
酒を齧り出しのちょっと背伸びがしたい若造やら、人生の酸いも甘いも噛み分けられる通な年配やらが好んで通いそうな、確かな支持を受けて年月を重ねて来たことを想起させる店構えである。
先刻まで捕らわれていた孤独感は何処へやらで、おれは既に店の全貌を眺め廻し、どんな呑み屋なのかを妄想する虜となっていた。
小洒落たバンガローを思わせる木製の看板に、お決まりの筆記体で刻み込まれた店の名は『Green Glove』とある。
洒落過ぎず、ださ過ぎずといった中庸をいく響きが小気味良い。『なかなか良さそうな店じゃないか』と、おれは店の外観において一先ずの合格点を与えることにした。
どうやら無意識に賛辞が口を衝いて出たらしい。
「お気に召しましたか? 中を見ればもっと気に入って下さると思いますよ!」
些かその存在を忘れかけていた小森が、突然に後ろから声を掛けてきた。おれの機嫌が上向いたのを見て取ってだろう。
元来の明るさを取り戻した小森が「ささっ、先生。早速入りましょう」と、背を押すようにして促されるが儘に、おれは蔦が蔓延る赤いレンガ造りの建物へと吸い込まれていった。
往年のジャズピアノがバックグラウンドに流れる店内は、その装飾も古色蒼然としており、ウッドチェアへ腰掛けた途端に苦手な葉巻なぞを吹かしたくなる気配に満ちている。
冷たく伝う木の感触はおれをかつて旅した北欧の彼方へと誘い、寒気を散らす暖炉の炎の色の灯りは包み込むように彼の地への来訪を祝福してくれていた。
しかし、この古式ゆかしさ溢れる仄暗い空間にすら飲まれない、自ら光り輝かんばかりの若さが、おれを幻想の地より追い出した。
「今日はわざわざ遠くから御足労頂き有難うございました、先生。此処はやはり取り敢えずビールでよろしいでしょうか?」
小森はメニューも開かずにきびきびとした動きでウェイターを手招きがてら、淡々とした口調でそう言葉を投げ掛けてきたのだ。
「ほお、んんっ。いいんじゃないか?」
ふと漏れ出た嘆息を誤魔化す為に言葉を繋ぎ、どうにか悟られずにやり過ごせたようだが、内心で穏やかでない。
目の前の若造がたとえこの店のあらゆることに精通していたとしても、連れにメニューを見せないというのは言語道断、非常識極まりないと言えるであろう。
聖人君子でもなければ腹を立てて然るべきという所であるが、おれの心を逆撫でしたのは勿論そんな非常識さに対してではない。
今、おれは我が青年時代にも最早全般的に通じるものでなくなっていた『取り敢えずビールでよろしい』人種と値踏みされたのだ。
世間から離れていたのはおれだ。
所謂世間で生きる社会人というのに相当するのが小森だ。
社会に出て少なからず酒を呑む場に出くわす筈の社会人により、世間離れしたおっさんの嗜好が推し測られた結果がビールであるというのは、過去に生み出された愚かな風潮が細々と繋ぎ留められてきた証明と言えるであろう。
だが、おれはたとえビールが嫌い、或いは呑めない若者が増えたというに起因するにしても『取り敢えずビール』の風潮が下火になったことを好ましく思っていた人間だ。
各々が好きな酒を呑めば良いじゃないか。
確かにビールという酒はジョッキにしても瓶からコップに注ぐにしても乾杯の音頭を上げるにはもってこいであるし、大概の料理に合うのだから、一杯目に呑む酒のチョイスとしては安牌だ。
それでも店や相手、料理を始めとした様々な要因に合わせて呑む酒を選ぶ、これこそが何よりも楽しいのではないか。
ただ単に周りの奴や風潮に合わせて選ぶなぞ愚の骨頂だ。
自ら悩み抜いた選択にこそ価値があるのではないのか。
しかし、ここでメニューを取り上げ違う酒を頼むことで、小森の面目を潰して、呑みの雰囲気を台無しにするのも酒呑みのマナーとしてあってはならないのである。
一杯目の酒を何にして、どの料理と合わせてやろうか、という欲求を無理矢理に押さえつけ、おれは小森が注文するままにさせた。
小森がウェイターにビールと料理の注文をするのを網膜に捉えながら、おれの目は後数分待てば出てくる筈の未来の酒だけを見据えることで、酒への渇望を我慢したのであった。
脳裏に浮かぶ命を潤す酒達への憧憬に割り込むようにして、過去に経験したお互いの度数がちっとも揃わない差し呑みの記憶が駆け抜ける。
いくら酒を呑もうが決して酔えない、壁を間近に感じつつ、無下に過ぎ去る時間の記憶がドロドロと心を蝕んでいった。
おれはただ静かに待った。
小森がなにやらこうこうこういう経緯でおれの担当になったという話をはきはきとしているが、おれと言えば正しく馬耳東風、まるで話を聞く耳を持たない。
適当な返事を返しながら、渇きを防ぐために酒への、肴への想いを馳せることで涎を捻出し、口内にねっとりと粘膜を巡らせることで持て余す時間を潰した。
《六》
小森が注文を入れてから随分と長い時間が経ったようであった。
腕を少しばかし浮かせたことでウッドチェアの肘掛けが肌に張り付く感覚を思い出す。
水滴を幾筋も滴り落とす大振りのビールジョッキが運ばれて来るのを目にして、ゴクリと生唾を飲み込んだ音は恐らく小森にも聞こえたに違いない。 文字通り、渇望していたその金色の液体はやけに眩しく輝いて見えた。
サックスを吹かせたら如何にも似合いそうなウェイターが数種のチーズにトーストを添えた大皿を机の中央に置き、それぞれの席に竹編みのコースターの上にジョッキを配していく。
ウェイターが「ごゆっくりどうぞ」と一礼して去っていくのを見届けるか見届けないかの内に、おれはしかとジョッキを握りしめる。
二十歳を迎えて幾星霜、数知れぬ酒席に招き招かれ悟ったことがある。
乾杯は先手必勝。『乾杯』、の音頭を自ずから取ることが眼前の酒に早くありつく為の最良の手段であるということだ。
おれはジョッキを胸元の高さまですっと掲げ、「それでは、君と僕との成功を祈って。乾杯!」と、淡々と音頭を取る。
小森も急な乾杯に多少面食らったようであったが、「あっ、乾杯」と、ジョッキを遠慮がちに突き出してきた。
ぶつかり合った二つのジョッキがカチンと軽やかな音を立て、腕に確かな衝撃が伝わってくる。
このとき実感するのだ。
嗚呼、いよいよ酒が呑める、と。
おれはグッと背筋を伸ばすと、泡を呑まないよう注意を払いながらも一気にビールを喉奥に流し込む。麦芽の香ばしい香りが口内に広がり炭酸の心地良い清涼感が喉を潤す――筈であった。
ホップの爽やかな苦みが余韻として後口に残ることを期待してビールをゴクリと呑み込むと、微かな酸味と共にある種の薬のような妙な甘ったるさが舌を襲い、おれは想像の埒外の味に思わず咳き込む。
「先生っ!? だ、大丈夫ですか……!?」
小森が慌てて席を立ち、ゲホゴホと周りに憚ることなく咳きをするおれの顔を覗き込むようにして自分のおしぼりを渡そうとするのを「大丈夫だっ!」と、蠅を手で払うようにして追いやる。
おれはこの味を知っている。
己の内に秘めていた静かな怒りが呼び覚まされ、不意打ちを喰らって慌てふためく身体に反して、頭は平静を取り戻していく。
それは確かにおれが酒を呑み始めるよりも遥か前から存在していたあれに違いない。
そう、ノンアルコールビールテイスト飲料、いわゆるノンアルコールビールだ。
現れた当初こそ単にまずいと突っぱねられ、アルコールが極微量であるが含まれるものもあり、廃れこそはしなかったもののそれほどに重宝されはしなかった。
しかし、飲酒運転による悲惨な事故の発生が道路交通法の改正を招き、飲酒運転に厳しい罰則が課されるようになると、次第にニーズが高まっていく。
そして、ビールメーカーによりアルコール分が零点零零の完全なノンアルコールとして発売された代物は、以前より美味しくなったと評され、需要も拡大していった。
だが、基本的に水、麦芽、ホップといった自然由来の原料から醸造されるビールとは違い、合成甘味料や香料といった添加物が用いられる。
その不自然な味は、おれにとっては受け入れ難いものであり、生産コンセプトも相まって忌避すべき存在であるのだ。
一方的な被害妄想でしかないのやもしれない。
極度の呑兵衛のおれにはノンアルコールビールテイスト飲料の開発販売自体が、例え社会が内包するニーズに答えた結果とはいえ、メーカーの裏切り行為に思えてならなかった。
運転するから酒が呑めないだの、アルコール中毒だから酒が呑めないだのと言う輩がいるが、そんなものは甘えに過ぎない。
酒を呑むか呑まないか、必要なのはその選択だけだ。
勿論自制出来ずに呑んでしまうのは、言語道断である。
が、それならば、安易に酒の紛い物に縋ろうというのは酒に対して失礼というものではないだろうか。
人類に酩酊を与えてくれるのが酒であり、アルコールあっての酒であるのだ。
酒の代替品などあり得はしない。
兎にも角にもノンアルコールビールなんぞは断固として呑みの席で呑むものでないのだ。
お酒の知識に誤ってる部分や主人公の偏った思考に違和感が見受けられるやもしれませんが、あくまでフィクションとして受け止めて、読み進めて頂ければ幸いです。