第二話
《三》
一昨年前のことになる。
おれが小説を寄稿していたとある電子雑誌の担当編集が変わることになり、その新担当となる女性が直接会って打ち合わせをしたいとの旨を伝えて来た。
おれは無論大した作家ではないし、長年世話になってきた出版社に頭は上がらない。
新任の担当が提案して来た通りに都内での打ち合わせに応じることとなった。
おれが酒好きだという情報を事前に前任から聞いていたのだろう。新任も気を利かせてくれ、呑み屋にて会合しようという申し出であったのだ。
父の遺産のアパートもさっさと売り払って雑音の気に掛からない田舎に引き籠ってしまい、都会の呑み屋というものには久しく足を運んでいなかったということもあり、この提案には寧ろ魅力を感じざるを得なかった。
日頃の酒は通販で購入して賄っているし、不思議なことにもの好きなおれのファンという奴らが時たま酒を贈って来てくれたり、存外に多い呑み仲間達が各地の珍品名品を土産として持って来てくれたりと、酒に関して事欠くということが無かった。
それでもやはり外呑み、店呑みとなるとまた別の趣があり、呑み屋というのは酒呑みにとっては格別な憩いの場であるのだ。
さてさていよいよ申し合わせた日となり、おれは胸を躍らせつつ、さぁ出陣だと都内へ向かう電車に飛び乗った。
いざ都に入らんという駅にて乗り換えを行うと、連絡通路にて珍妙な文字列が目に入ってきた。
『飲酒乗車厳禁‼ ※都内駅構内にて飲酒及び酒気帯びを禁止。違反者には是正勧告の後、行政命令発令を経て三万円以下の罰金を科す。』
なんだなんだ、これは。
なんの冗談なんだ、これは!
なんだか飲酒が『悪』のように読み取れる文面なんだが、これは‼
おれは著しい動揺から、ただその文章を通告するだけを目的とした、なんの飾り気も無いポスターがずらりと並んだ長い通路に暫しの間独りぽつんと立ち尽くした。
しかしそれでも、だ。
おれは一度約束した呑みにはたとえ酔っていたとしても、二日酔いだとしても遅刻しないことを取り得にしている男であるのだ。
約束の呑みに遅れる訳にはいかない。胸騒ぎとも動悸とも判別の付かない果てのないざわめきを胸に抱きつつ、おれはその場を後にした。
都心へ向かう電車内にて吊り広告から吊り皮の片隅にまでも『酒』と『禁止』という単語を確認してから、おれは兎に角情報を遮断した。
電子書籍に行儀良く並ぶ文字達をただ眺め、イヤホンから音の群れを徒に耳へと誘う。
次第に混雑していく車内ですらも最早空虚に感じ、おれは千秋の孤独を覚えていた。
やっとの思いで待ち合わせ場所である駅の改札に辿り着いた。
遠くに意識を飛ばしていた御蔭か、気分も幾分か落ち着いて来ており、一杯目の酒をどんな酒にするべきかと、近くに迫った呑みの席に思いを馳せる余裕を取り戻していた。
乗換駅にて立ち往生していた時間を含めても余裕を持って着いてしまったので、何となしに改札付近から垣間見える街の様子や行き交う人々を観察していたが、どうにも違和感を覚えた。
おれは暫く違和感の正体を探るべく眉根を寄せて辺りを睨みつけていたが、結局は分からず終いだった。
《四》
約束の時刻より五分前、夕方の五時五十五分を駅の時計が指し示した頃に、事前のメールへ添付されていた写真とどうやら同じ容貌をした女性が改札を抜け、しばし辺りを見回したかと思うとおれの方へと歩み寄って来た。
「先生、初めまして。新しく担当となりました小森と申します。もしかしてお待たせしてしまいましたか?」と、申し訳なさ気な微笑を湛え、眼鏡越しに上目遣いで覗き込む小森の表情はなるほど非常に絵になる、と感心を覚えた。
なかなか言葉を返さないおれに戸惑い、首を傾げるその幾らか幼さを感じさせる姿も観察するに申し分ない対象であったが、おれは今日呑みに来ているのであり、創作の材料を集めに来ている訳でない。
「いや、待ってないよ。それじゃあ行こうか」と、小森を促し、その場を後にした。
「十分少々掛りますかね」という、世間話程度に目当ての店への所要時間を小森に尋ねた際の返答は、決して誇張表現でなかったようだ。
唯でさえ初対面の小森と探り探りの会話を試みねばならないというのに、周囲になんら面白みのあるものがない為、話題に乏しく、やたらと長い時間歩いている気すらした。
それでも二、三分は歩いた筈だというのに、まるで目的地と思しい呑み屋というのが見当たらない。
いやそもそもがまず、一昔前に駅近辺を席巻していたチェーン展開の居酒屋群すらも姿どころか、のぼり旗やらうざったい勧誘やらの影も形も見当たらないのだ。
漸くそうした居酒屋の姿がぽつねんと認められ、おれは思わずちょっとしたノスタルジーに浸ってしまったが、そのやっと得た安堵感を頼りに小森へこの有様について聞き出すことへと踏み切った。
すると小森は、「都の条例で駅から五百メートル以内での居酒屋の営業が禁止されたんですよ。なんだか駅前がすっきりと綺麗になりましたよね?」と、教師の出す質問に正しく答えられた生徒のような朗らかな笑顔を浮かべて教えてくれた。
駅へと着いた時より頭の中に薄い靄のように掛っていた違和感の正体がやっと判然とした。
ただ只管に整然としているのだ。単に居酒屋が見当たらないとかでない。無いのだ。
居酒屋だけでない。
パチンコ屋、ゲームセンター、カラオケ、クラブ、雀荘といった娯楽施設の何処か下卑た色合いが軒並み街から消え失せている。
一歩分先を歩く小森が何事かを話し掛けてくるのを適当に相槌を打ちながら、そっと後ろを振り返る。
きっちりと統制された秩序を感じる、一般的には落ち付くと称される部類の景色が広がっている。
日本庭園に佇む庭石の如く、どっしりとしつつも何処か安らぎを与えてくれる色調のグレーで統一されたビル群に、暖色やパステルカラーの装飾や広告が調和を崩さぬよう配されたその空間はおれのような淀んだ色の人間にはどうにも馴染めるものではなかった。
これは最早街による世間による派手な色や煤けた色への明確な拒絶だ。
パリッと乾いたシャツと肌の隙間をぬったりと冷や汗が這っていった。
おれは確かに小森と連れ立ち歩いている筈だというのに、足に地の感触はなく、まるで鈍く光る街灯という星を頼りに宇宙を孤独に彷徨っているかのような感覚に陥っていた。
早くも投降遅くなりました。
続けて読みたい、と思ってくれた方、もしいらっしゃったら申し訳ありません。