月が綺麗ですね
昔の作品
永遠を約束して、全てを逃がすまいと手を握り合って過ごした貴方との日々は何時だって赤い花を見る時に思い出す。
私の名を優しく呼ぶ声が好きだった。
たまに見せる恥じらい赤く染まる頬も、すがるように伸ばされる指先も、人より色素の薄い灰色の髪も、ガラス玉のような赤い瞳も、白磁のように白い肌も、好きだ、と言葉を紡ぐ口も。
愛おしくて仕方が無かった、彼の全てが。
何も置かれていない和室の部屋で向かい合うように座る。
庭側に面した障子は閉められているため、障子の和紙から漏れる柔らかな光だけが部屋の中で唯一の明かりだった。
部屋の間切りのためにつけられた襖もしっかりと閉められているため、誰かが襖や障子を開けない限り二人の空間が壊れないことを知る。
普段使っている腕時計は自室に置いてきてしまったため、時間を確かめるすべは無い。
彼が時計などを持ち歩いことを知っているのに、何時も持ち歩くようにしていた時計を忘れたのは現実を見たくない無意識の行動だったのかもしれない。
物も無く、時間を知るすべもない空間は静寂も相俟って隔離された空間のように感じられた。
そんな空間を壊すのが勿体無くて、私からは話す気にはなれなかった。
だけど、結局どちらかが先に動かなくてはならないのも知っている。
何もしないと言うのは選択肢にはないのだ。
先に動いたのは彼の方だった。
触れることを躊躇せずに伸ばされた手が腰まで伸ばした髪を弄る。
髪、伸ばしたんだねと彼が笑って言うのに、ええ、長い方が好きだと言ってくれたからと私は答える。
それ以上は何も問わずにそう、似合ってるよと当然のように付け加えられた賛辞に顔が赤くなるのがわかった。
誉められると、どこかくすぐったくて照れてしまう。
簡単に言うと自分は誉められなれていないのかもしれない。
それを知っているはずの彼は顔を赤くして焦っている様子を髪を弄るのを止めずに、柔らかく笑いながら見ていた。
遠くから木魚の音が聞こえてくる。
耳をすまして聞いてみれば低い声でお経を読んでいる声も聞こえる。
彼は寂しそうにその音を聞いていた。
「これが最後だよ」
彼の視線は庭側に面した障子に向けられている。
「子供みたいに泣くこともできずに無理をして笑う姿が心配だったけど、もう大丈夫だろ?」
私はただただ黙っていた。何も言えなかったのだ。
会えてよかったと笑う彼が、泣きそうに笑っていたからだろうか。
泣きそうに笑う彼の姿は酷いかもしれないが中々に綺麗だと思った。
赤い瞳が淡い光の下で光っている。
ガラス玉を光に透かしたような澄んだ色は作り物のようにすら思えた。
「もう行かないと」
私は何も言わなかった。
言えなかった。
彼は愛おしむように微笑んだまま、私の頬に口づけをする。
話は終わったとばかりに立ち上がった彼の服の袖を無意識のうちに掴んだ。
行かないで。
そばにいて。
言いたいことなど山ほどあったけど口からでたのは
「愛してます。ずっと、貴方の隣にいれたのは幸せでした」
あの日、言いたかった愛の言葉。
耐えきれず、瞳からは雫がこぼれ落ちた。
嗚咽を漏らし、止めるすべなど忘れたかのように泣いた。
彼は何も言わない。
困ったように笑ってこちらを見ながら私の手を優しくほどき、彼は閉められていた障子を開けた。
ごめんね。
そう呟いた気がする。
音が光が急に現実味をおび始めて少しだけ焦った。
彼は庭に降りて、母の趣味で育てられている赤い花の花壇の前に立った。
「月が綺麗ですね」
後ろに咲いた赤い花と彼の瞳の赤が鮮やかに目に映る。
言われた言葉を何度も繰り返して、やっと意味を理解した。
何て分かりにくい告白だろうと思う。
私が意味を理解したのに気づいたのか彼が笑った。
今日、見たどんな笑みより綺麗な笑みで。
「さよなら」
そして、彼は空に吸い込まれるように消えた。
きっと、もう二度と、会うことはないだろう。
名前を呼ぶ声が震える。
涙はいまだに止まっていなかった。