花咲病:黄
紫の続き
黄の花咲病は、喉の声帯の近くを苗にして花が生えてくる。
茎の長さはほとんど短く、三センチよりも短いこともある。
他の花咲病と違うのは、一定の症状はなく、人によって症状が変わることだった。
そのため、花咲病の中でも一番、治療が困難である。
梓が病棟で保護されてから四年と三ヶ月たった頃に、黄の花咲病に罹った患者が病棟にやってきた。
と言っても、実はその患者が病棟に来るのは二回目だったりする。
患者の名前は結衣。
腰までの長い髪が印象的な女の子だった。
彼女の姿を偶然見たとき、生粋のお嬢様なので扱いは丁重に、と上から何度も言われたことがあったのを思い出す。
結衣の症状が他者に異常な恐怖心を感じることだったから、言われなくても丁重に扱ったと思うが。
元々、彼女が使っていた病室には既に他の患者がいるので、最近使われなくなった三〇二号室が彼女に割り当てられた。
今じゃあ、その病室は彼女のための小さな国のようになっているらしい。
複数あったベッドを一つ以外、全て除けて、広々とした空間を作り、彼女が欲しいといった物が部屋の中に散乱する状況だそうだ。
我が儘を言う彼女もだが、それを叶えてしまう親も親だなと実感した。
それを上の連中が止めないのは、一部屋ぐらいならいいと考えているのか、それとも金が入るからだろうか。
他人から彼女の様子を聞くという状態が五日続いた、ある日、何故か俺は彼女から名指しでご指名を貰った。
理由が分からなかったが、上を通して言われたので、言われた通りに彼女に会いに行くことになった。
「久しぶり、先生」
三〇二号室の扉の前でしばらく立ち止まってから、何も言わず、扉を開ける。気づかなかったら、一応訪問したという無理矢理な理由で帰ろうと考えていたのだが、俺が来る時間を予想していたのか、笑顔でそう言われた。
「久しぶり」
無視すると怒るのが分かっているから、おとなしくそう答える。
彼女は、俺の言葉を聞くと嬉しそうに微笑んで、手招きをした。
その手招きに素直に従い、彼女のそばまで行く。
「久しぶりに会ったから、忘れられているって思っていたけど、覚えていたのね」
彼女が寝転がっているベッドの端のほうに腰掛けてから、彼女の言葉に返事をした。
「忘れて欲しかったの?」
その問いかけに彼女は笑いながら、首を横に振って、先ほど言った言葉の意味を説明してくれた。
「この病棟は、入院する時に苗字を預かって退院する時に返すでしょ? あれは、病院が親から権利を受け取るって行為だと思っていたわ。権利は自分たちが持っているから、言うことを聞きなさいって脅すためだって考えたこともある。だけど、違うのよね。ここにいる間は、家族だって示すために、苗字を預かるのだって聞いたわ。だから、先生たちは言うなら親でしょ? 親に忘れられたら悲しいじゃない。だから、覚えていてもらえたのが嬉しいの」
その言葉に、何だか照れくさくなる。
あまり、素直に感情を口にしない思い出がある彼女だから、余計に恥ずかしかった。
だが、純粋に本心を口にした彼女の前で、自分だけ照れるのは負けた気になるので、誤魔化すように顔を少し伏せながら言葉を口にする。
「わざわざ、俺を呼び出したのは顔を見たかったからだけの理由じゃないだろ? どうしたの?」
結衣は、俺の問いかけを聞かなかったことにして、違う話題を口にしたが、俺が再度問いかけると観念したように、手を上げてから答えた。
「今、私の担当をしている人は怖いから、秋か貴方に変えるように言っているのに無視されるの。だから、強硬手段」
その言葉に、彼女の症状が酷くなっているのだと分かる。
他人に恐怖心を抱くのにも、病気と同じで段階があるが、彼女はそろそろ自分以外の人間全てを恐怖することになるかもしれない。
まだ、症状が軽かったときは、誰が担当をしていても平気そうにしていたのに、と思いながら彼女に視線を向ける。
首に咲いた黄色の花が、どうしても視界に入った。
その黄色の花を視界に入れないように、視線を彼女の顔に向けて、言ってみる。
「強硬手段って言っても、俺も秋も担当にはならないと思うけど」
俺の言葉を聞き、彼女は「平気よ」と幼い子どもの様な無邪気な笑顔で呟いた。
「どうして?」
拗ねたような表情で、上の連中の文句を言うのかと考えていたから、予想と違い、つい問いかけていた。
俺の問いかけに、彼女は右手を俺の目の前まで上げて、一つ二つ三つと数えながら指をたててから答える。
「だって、父さん。私が他者に恐怖を抱くのは知っているでしょう? だって、叔父さん。私の病気が進行しているのは、分かっているでしょう? だって、お爺さん。私が、黙って怯えているだけの性格じゃないことくらい、分かっているでしょう?」
特に意味のこもっていない呼び方は無視して、彼女が言った言葉の意味を理解するために頭を動かす。
考えた結果、導き出された答えが一つあったが、その答えはため息を吐きたくなるものだった。
「……つまり、今の担当のままでもいいけど、恐怖を抱く人間に対して暴力行為するかもしれないって言っているよね、それ」
多分、当たっているだろうと思っていた答えに、彼女は「半分正解」と四つめの指を立てながら笑って言った。
「半分なんだ」
確かに、確信に触れたとは思っていなかったが、たった半分だけしか当たっているとは思えなかった。
俺が納得していないことに気づいたのか、彼女は立てた四本の指を左右に振りながら、俺の疑問に答えてくれる。
「先生が言った、担当はそのままでいいって部分と暴力行為をするかもしれないってところは、当たっている。だけどね、私、もうその担当の人に暴力をふるったの。それに、担当も変わったから、半分正解なのよ」
彼女に向けていた視線を左右に揺れる手に向けて、彼女の行動力に驚いたのを隠すために平常心を装う。
既に、手を出しているとは考えないだろう、普通。
そんな風に誤魔化そうとしていたのに、誤魔化しきれていなかったのか、彼女が言い訳をするような言葉を小さな声で呟いた。
「だって、怖いから近づかないでねって最初に言ったのに、話を聞かずに此方に来るのよ? つい、近くに置いたあった枕や花瓶を相手に向かって投げてしまったの。知らない人が私の近くにいるって状況で、既に発狂しそうだったのに、それが私の言葉を無視して近づいてきたのが悪いのよ。恐怖の対象が目の前にいるのに、その存在を排除しようとするのは当たり前でしょう?」
その言葉を言い終わってから彼女は、「そうだと頷け」と言う視線で此方を睨んだ。
彼女の言葉を頭の中で思い返しながら、首を横に振ることも、首を縦に動かすことも出来なかった俺は、わずかに話題を逸らすことにした。
「知らない人に対しての恐怖は分かったけど、親しい人に対してはまだ、恐怖を抱かないの?」
そんなことを聞かれるとは思っていなかったのか、彼女は左右に揺らして手を止めてから、此方を凝視した後、四本の指が立っている手を五に変えて、また左右に動かしながら言った。
「気を抜いたら、貴方のことも殴りそうって言ったらどうするの?」
ゆらゆら揺れている手の動きを目で追いかけながら、俺は結衣が言った言葉に俺は焦ることもなく答えた。
「まだ、そこまで進行しているとは思えないから、その言葉は純粋に俺が嫌いだって受け取るけど?」
俺が冷静にそう言うとは思っていなかったのか、結衣は動かしていた手を再度止めて、すぐに手を開いたり閉じたりと動かしながら、驚いたように聞いてきた。
「容態、誰かに聞いて知っていたの?」
その言葉に対して時間をおかず、すぐに「違うよ」と答えてから、すぐに答えすぎて逆に怪しまれることに気づく。
遅すぎるのも駄目なのに、速すぎても駄目なのは、少しばかり困った。怪しまれてないかな、と思いながら、彼女を見る。
彼女は何が可笑しかったのか、くすくす、と笑いながら、閉じたり開いたりしていた右手をベッドの上に下ろし、言った。
「誰かから聞いたって思ったけど、その様子を見ると気のせいだったみたいね」
その言葉を聞き、安心する。
怪しまれることだけは、避けないといけなかったからだ。
彼女は嘘をつく人が一番大嫌いだから。お互いが、その会話から黙り込んでしまう。
俺はこの沈黙が嫌いじゃないが、彼女は嫌らしく、いつもくだらない雑談がここから始まる。
「今のところは心配しなくても、秋や貴方の前で暴れだしたりしないわ。親しい人に対しても恐怖を抱くようになったら、私は何一つだって残さずに死ぬかも知れない」
彼女は、頬から顎までのラインを左手でなぞりながら、誰に聞かせる意図を持たずに小さく呟いてから、「さて、今日は何の話をする?」と笑顔で俺に言った。
俺がこの距離で、聞き逃さないのを計算して言っているから困る。
「先生、知っている? この病棟の近くに公園が出来たらしいわよ。名前は、青空公園」
くだらない話題を互いに口にしながら、しばらく会話を続ける。
こんな風に一人の患者と長時間、話しているところを見られたら、後で怒られるかなと思いながらも、楽しい時間を過ごした。