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紫の町


十色の町 1

 幼い頃から僕の世界は狭かった。


必要なものが揃っている箱庭の中で、外の世界に憧れることも何も知らないことを嘆くことせず、大切なものだけで世界を固めて幸せだと呟いていた。


でも、その世界に破壊音を響かせながら突っ込んできた奴がいて、いとも簡単に僕の世界は終わりを告げた。


そいつは、戸惑っている僕の手を引っ張って外の世界に引きずり出して笑顔で言ったのだ。


「知らないのはつまらないでしょう?」


一章 紫の町


 四角いブロックできた建物が立ち並ぶ道を、先ほど手に入れた紙袋を抱えながら歩く。


ニケと書かれた紙袋に入っているのは、新発売のゲーム機とソフトだ。


発売前から宣伝に力を入れていたゲーム会社の告知にまんまと釣られて買ってしまったが、ゲームの内容は自分好みだったので家に帰ってプレイするのが楽しみで仕方がない。


「ふふふ、今日はラッキーだな」


紙袋を落とさないように抱え直しながら、歩く速度を速める。


親に買ってもらったパズルに夢中になりすぎて、ゲームを買いに行ったのは既に夕暮れの時間だった。


早く帰らないと怒られてしまう、と焦る気持ちとゲームを早くしたいという気持ちがいっそう足を速めた。


薄紫色の街灯が、暗くなっていく道を照らすように光をともし始める。


地面に出来た街灯の影を態と踏まないように飛び越えながら十二本の街灯を通り過ぎ、子どものオモチャを売っている四角い建物の横を奥に進むように二回曲がったところで漸く自分の家が見えた。


「…………あ」


 江戸紫と呼ぶらしい家の屋根と京紫と呼ぶらしい家の壁は確かに見慣れた自分の家だ。


だけど、古代紫色の扉の前に見慣れない色があった。


さっきまで、忙しなく動いていた足がゆっくりと速度を落として止まる。


「く、ろ?」


それは隣町の色だった。


見間違いかと目を閉じたり開いたりして見直しても扉の前から色が消えることは無く困惑する。


もしかしたら、母のお客さんなのかもしれない。


その考えにたどり着いても、見慣れない色をすぐには受け入れることができなかった。


ニケの紙袋を抱え直してから、恐る恐る近づいてみる。


相手は此方に気づいていないようで、胸の辺りで腕を組みながら空を見上げていた。


何て声をかければいいのか考えながらゆっくりと近づけば、すぐに距離は縮まった。


元々、そこまで距離があったわけではないが、考えをまとめる距離としては充分だった。


母のお客さんでなくても、失礼があってはいけない。当然のことだ。


一度、気分を落ち着けるために深呼吸をしてから、相手に聞こえる声量を心がけながら声をかける。


「あの、どうかされましたか?」


 空を見上げていた相手は、僕の声に反応して此方に視線を向けた。


黒のスーツをしっかりと着て背も高かったから年上の男の人だと思っていたが、振り向いた顔はまだ幼い少年のようにも見えた。


だが、顔の半分を覆うサングラスのせいで、それを断言することはできない。


相手は此方を確認した後、顔を顰めながら首を傾げて呟いた。


「……何で、敬語? 今更、他人みたいな話し方は気持ち悪いよ。てか、お前を待っていたのに、どうかしたって聞くのは酷いと思うけど?」


 まるで、僕のことを知っているような言葉に、此方が首を傾げる。


黒のスーツに身を包む彼に見覚えは無い。


「すみません。何処かで、会ったことがありましたか?」


 首を傾げながら、そう問いかけると相手は驚いたように目を見開き、此方を少し凝視した後、玄関の扉を荒々しく開いて中に向かって叫んだ。


「マザー! この阿呆、俺のこと忘れてやがる!」


 玄関から見えた家の中を見て自分の家だと確信することはできたが、彼の行動に驚いて僕は何の行動も出来ないでいた。


突然の行動に驚いて何も言えずに固まってしまった僕とは違い、玄関の近くにあるリビングの扉からひょっこりと顔を出した見覚えのある女の人は母のお気に入りの花柄のティーカップを片手にニヤニヤと笑いながら彼に言う。


「あら、貴方が会うたび会うたび虐めるからでしょう? 自業自得よ」


 女の人の言葉に見に覚えがあったのか、彼は言い訳をしようとして口ごもる。


言い訳も出来ない彼に苦笑しながら手に持ったティーカップに口を付ける女の人の姿を見て、男の人を見る。


やはり、その姿は記憶には無かった。


頭の中に疑問ばかりを増やしながら、口を挟む余裕も無く黙っていると女の人の後ろから淡い紫に身を包んだ母が顔を出して、少し困ったように笑いながら言った。


「でも、忘れるのは酷いと思うよ? カヨちゃんだって、私が忘れていたら嫌でしょう?」


 母の言葉に女の人はティーカップの中身を飲み干してから、くすくす、と楽しそうな笑い声を漏らした。


その表情を見ていると何だか、背筋がぞわぞわとして居心地が悪い。


男の人もサングラスで分かりにくいけれど、僕と同じような微妙な表情をしながらため息を吐いていた。


その姿に何処か見覚えがあるような気がしたが、分からない。


 女の人は声をたてて笑うのをやめ、愛らしいだろう笑みを浮かべながら、僕達に向けていた視線を母に向けて言う。


「あらあらあら? シオちゃんは私を忘れる予定があるのかしら?」


 母は戸惑ったように首を傾げながら、女の人の言葉に答える。


その表情は駄々をこねている子どもに接する時の表情によく似ていた。


そんな二人の様子を眺めながら、手に持っていた紙袋を抱えなおす。


さっきから、紙袋を抱える腕が痛くて仕方がない。母と女の人は話が終わったのか仲むつまじく二人してリビングに戻っていった。


どうしようか、と悩む僕と男の人だけが取り残される。


どうしようもない沈黙に、意味もなく紙袋を抱え直した。


その抱え直した音を聞いたからか、呆れたように二人を見ていた男の人が此方を向いた。


男の人は何か言いたげに口を開いては閉じるといった行動を数度繰り返した後、紙袋を持った僕に気を使ったのか、それとも玄関にいるのがいい加減嫌だったのか、玄関の扉を押さえながら人一人通れるスペースを開けて、速く入れと言わんばかりに睨まれた。


口を開いたり閉じたりしている行動を見て金魚みたいと思っていたのがばれたのだろうか。


「……ありがとう」


 一応お礼を言って、玄関に入る。抱えた紙袋を自分の部屋に置くか、リビングで開けるか迷いながらゆっくり靴を脱いでいると玄関の扉を閉めた男の人が僕より先に靴を脱いで、さっさとリビングに入っていった。


リビングから母や女の人と話している声が聞こえる。


紙袋を片手に抱え直し、靴を揃えてから僕もリビングに向かう。リビングに入ると机の上に女の人が持っていたティーカップが二つ、僕と友達がお揃いで買った青紫色の豚が描かれたカップが一つあった。


それを横に避けながら、紙袋を机の上に置く。どうして、このカップが使われているのだろうか。


このカップは彼女が来たときにしか使わないようにしているのに。疑問に思い、問いかける。


「ねぇ、母さん。このカップ……何で使っているの?」


 母はまるで聞こえていないとでも言いたげに何も答えず、女の人と楽しそうに会話をしている。


漸く、重さから解放された腕を軽く解しながら父が買ったソファーで寛いでいた母の方を振り返ろうとして、ドンッと背中に衝撃を受けた。


「ふっひっひ、私がここにいるのだから当たり前だろう? それとも、そんなことも分からないほど馬鹿だったのかい? アズちゃん」


 友達の変な笑い方と聞き覚えのあるソプラノの声に驚いて、何も言えずにいると後ろから唸るように言われた。


「で? 俺にここまでさせといて、知らないとか言わないよね? 泣き虫アズちゃん」


 その声の低さと言葉に驚いて振り返る。


そこにいたのは、さっきまで黒を身に纏っていた男の人だった。


男の人はスーツの上から友達がよく着ている紫と灰色のツートンカラーのポンチョを身に付けて、顔を歪めている。


サングラスを外しているから、その顔がよく見ることが出来た。


変な格好だと思いながら、その姿を足から頭まで何回か繰り返し見る。


スーツさえ着ていなかったら、その姿はよく知った友達の格好に似ていると心の中で思った。


そう思ってしまえば、カップのことも、聞き覚えのあるソプラノの声のことも、ツートンカラーのポンチョのことも、説明することができることに気づいて頭を横に振る。


だって、それが本当に正しいのなら僕は今まで勘違いをしていたと認めてしまうことになる。


ぐるぐるとその名前を言った方がいいのか言わない方がいいのか悩んでいると、ポンチョを乱暴に脱いでいる男の人に問いかけられた。


「分かるの? 分からないの?」


 さっきまでの怒ったような声音ではなく落ち着いた優しい声音に、友達の名前を言うことに悩んでいるのが申し訳なくなる。


勘違いをしていたのは彼が女物を着ていたことにも原因があるのだから、と心の中で言い訳をしてからゆっくりと頭に思い浮かぶ名前を口にした。


「……マキちゃん?」


 男の人はその言葉を聞くとポンチョをソファーで寛ぐ女の人に投げ渡しながら、にやりと笑ってから頷き、二人を振り返って言った。


「俺の一人勝ちね。だから、言ったでしょう? 負ける気はしないって」


 その言葉に首を傾げる。


彼がどうして、そんなことを言ったのか分からなかったからだ。


訂正、分かったけど分かりたくなかったからだ。


「あら? どうしましょうか、シオちゃん。私達、賭けに負けたみたいよ?」


 くすくす、と余裕な表情で笑うカヨさん。


よく見えれば何時も着ている明るい紫のワンピースではなく、黒に近い紫のワンピースを着ていた。


むしろ、紫に近い黒と言った方が彼女からすれば正しいのだろうか。


「そうね……これで、断る理由もなくなっちゃったわね」


 母も楽しそうに笑いながら言う。


どうやら、話についていけないのは僕だけのようだ。


母やカヨさん、マキちゃんの楽しそうな会話を聞きながら、視線を彷徨わせて呟く。


「……説明……」


 楽しそうに話していた三人黙って、此方を見た。


最初に行動したのは涙目になっている僕に気づいた母だった。


笑いながら「仲間外れは寂しいものね」と言い、自分の隣を叩いて僕をソファーに来るように託す。


おとなしく母の横に座る僕を見て、カヨさんが謝りながら頭を撫でてくれる。


マキちゃんは始終ニヤニヤしていて、恥ずかしくて顔を見ることができなかった。


顔伏せた僕の頭を優しく撫でながら、カヨさんが今までのことを簡単に説明してくれる。


「ごめんなさいね。マキラがどうしても貴方と旅行したいと聞かなくて、この町の人に倣って賭けをすることにしたの。私とシオちゃんとマキラの三人でね。マキラは、私の趣味で女の子みたいな格好が多かったでしょう? だから、アズレト君が男の格好をしたマキラの名前を呼ぶことができるかどうかが賭けの内容になってね。混乱させてごめんね?」


 優しく僕を気遣ってくれるカヨさんに、話に混ざれないばかりか賭けの対象にされていたことに拗ねていた自分が、子どもっぽくて嫌になった。


「……大丈夫なので、謝らないでください」


 手をぶんぶんと振りながらカヨさんの言葉に返事をする。


その言葉を聞いて、さっきまでニヤニヤと笑っていたマキラが急に真顔になり、「ほぼ、マザーが提案した茶番だったけどね」と呟いた言葉は聞かなかったことにしよう。


そんな風に思いながら母の方を見ると、母は僕の視線に気づいて微笑みながら言った。


「それでね、アズちゃん。お金の問題はないのだけど、アズちゃんって旅行用の鞄持っていたかしら?」


 その言葉を聞いて咄嗟に自分が持っている鞄を思い浮かべかけたが、慌てて脳内から消す。


それよりも、訂正をしないと駄目だと気づいたからだ。


「僕は、旅行なんて行かないから!」


 大きな声で、きっぱりとそう断る。


その言葉を聞いた三人の反応はそれぞれ違っていた。


母は何故、そんなことを言われたのか分からないと目をぱちくりとさせ、カヨさんは僕がそう言うと予想していたのか頷き、マキちゃんは笑顔で立ち上がって言った。


「買ったゲーム機持って。お前の部屋、行くぞ」


 有無を言わせない雰囲気に何も言えず、おとなしく頷く。


それに満足したマキちゃんは僕よりも先にリビングから出て行き、二階の僕の部屋に向かってしまった。


僕も慌ててリビングの机の上に置いてあった紙袋を持って、マキちゃんの後を追いかける。


この後、リビングに残された母とカヨさんがどういった会話をしていたのか僕もマキちゃんも知ることはなかった。


 二階に上がってすぐ左にある扉のドアノブを掴み、中に入る。


中には、先に部屋に来ていたマキちゃんがベッドに腰掛けながら窓の外を見ていた。


外を見るのはマキちゃんの癖みたいなものだった。


どうやって、話しかけようかと考えながら部屋に足を踏み入れる。


悩んでいたせいか自然と伏せ気味になっていた顔を無理矢理、前に戻す。


その時、たまたま足元にある僕がゲームを買いに行くまでしていたパズルが視界に入った。


未完成だったパズルが完成していることに気づいて声を上げる。


「……何で、完成しているのさ!」


 僕の声に気づいたマキちゃんが足元のパズルを見て、面倒だと言いたげにため息を吐いてから此方を見る。


その反応が気にくわなくて、だんだん、と二回床を右足で蹴ってから勉強机の椅子を引っ張り出して、それに座る。


椅子はギィッと音を立てて、僕を支えた。


「帰ってから完成させるつもりだったのに」


文句を言いながら体を左右に揺らして、マキちゃんを睨む。


体を左右に揺らすたびにギィッ、ギィッと椅子が音を立てた。


もしかしたら、そのうち壊れるかもしれないな、と文句を言いながら心の中で思う。


僕が文句を言っている間何の反応も示さなかったマキちゃんは、僕が文句を言い終わった後、だったら、と少し怒ったような声音を含ませながら返事を返した。


「だったら、さ! 早く帰ってこれば良かったんだ。そうすれば、俺だって暇潰しをしなくても良かった。……確かに、此方も少し遅い時間にお邪魔したが、普通は家にいる時間だと思うんだけど?」


 時間のことを言われると何も言い返せなかった。


自分だって帰る時間が遅くなっていたのには気づいていたから余計に言い訳をすることはできない。


言い返そうと口ごもる僕に苦笑しつつ、マキちゃんは言葉を続けた。


「勝手にパズルを完成させたことには謝る。新しいパズルを用意するから許してくれ。…………それよりも、旅行のことの方が重要!」


 その言葉に僕は顔を横に逸らして答える。何度、言われても返事を変える気はなかった。


「絶対、旅行なんて行かないから! 僕はこの町を出て行きたくないから何度言われたって無理だよ!」


 町の外に出て行くことは、僕にとって恐怖でしかない。


この町を出て行くということを明確に想像することはできないことが、理由の一つだ。


僕が本音を言ったからか、マキちゃんは迷って様に目線を彷徨わせてから、目線を窓の外の方向に固定して囁くような声で自分の気持ちを吐露し始める。


「空は青い。雲は白い。太陽は赤い。夕焼けは橙色で、夜は黒い。月は黄色で、植物の葉っぱは緑。桜は桃色で、菖蒲は紫。鏡は銀色。……俺の町に伝わる絵本の中に、俺の町以外の色のことを描かれている物があった。それを見た時から、他の町がどんな町なのか気になって仕方ないんだ。知りたいって思った。……他の町に行けば父親のことも知ることができるしね。それに……」


 囁くような声は後半になるにつれ、大きくなっていった。


顔は此方を向いていないから確認することはできないが、きっと期待に満ちた表情をしているのだろう。


どうして他の町に行くことにまったく恐れを抱かないのか僕は不思議に思った。


この町に来ることが既に凄いことなのに。そんな風に思いながらマキちゃんの言葉を聞く。


それに、と区切った後、マキちゃんはこちらを振り向き、心底楽しそうに笑いながら僕に言った。


「知らないのはつまらないでしょう?」


 その言葉を言われると何も言えなくなる。


マキちゃんの気持ちが最初に言っていた言葉よりも、最後に付け足した言葉の方に込められていると分かっているからだ。


僕が何も言えなくなっていると、マキちゃんはベッドから立ち上がって笑いながら言う。


「この町から出たくないのは分かる。だけど、それが他のことを知らないでいい理由にはならない。それにね、この町から出たくないって思っているのは、アズに一歩を踏み出す勇気がないだけだよ。……大丈夫。危険なことからは全部、俺が守ってあげるから、一緒に行こう」


 最後の言葉と一緒に伸ばされた手に、マキちゃんの顔を見る。


キラキラとマキちゃんの青色の瞳が光を詰め込んだように綺麗に見えた。


その瞳に、何の感情を詰め込んでいたのだろう。


僕には分からなかった。


伸ばされた手とマキちゃんの顔を何度か繰り返し見つめてから、息を吐いた。


断ってもきっと意味などないのだろう。


マキちゃんの知ることに対する貪欲さには敵わないな、と思いながら僕は断ることを諦めて頷くことになった。


頷いてしまえば、駄々を捏ねるわけにはいかない。


 マキちゃんの言葉に心を動かされた僕は、あんなに嫌だと思っていた旅行に結局ついていくことになった。


母親は僕が旅行に行くと信じていたのか、僕より先に旅行の準備をしていたらしく、マキちゃんと二人して下に下りたときには薄紫色の大きな鞄を両手で持った母が「準備は大体終わったわよ」と笑って立っていた。


その後ろで、呆れたように立っているカヨさんの足元にはマキちゃんのだろう真っ黒な鞄が足元に置いてあることに気づく。


その鞄は母が手に持っている鞄より小さめの鞄で、僕の方が張り切っているように見えて恥ずかしかった。


母は戸惑っている僕に目もくれず、用意した鞄を押し付けて嬉しそうに笑いながら言う。


「貴方がいなくなるのは寂しいけど、旅行を楽しんできてね。困ったことがあれば、すぐに電話してきて。力になるから」


 母から渡された鞄を受け取りながら、どう反応すればいいのか分からない僕の横でマキちゃんは楽しそうに笑って言った。


「お前の母親は何時も行動に迷いがないよな」


 その言葉に黙って頷く。


一度決めたら絶対に意見を変えることがないのは、自分のほうがよく分かっていた。


きっと、僕が行くと言わなくても追い出すことくらいしたかもしれない。


母なら行動しそうだな、とその光景を思い浮かべながら思う。


そんな結果にならなくて良かったと思うべきか、自分の意見を無視されることに嘆くべきか迷った。


「マキラ、ゆっくりしていると間に合わなくなるわよ」


 そんな思考を遮るようにカヨさんが、時計を指差しながら言う。


その言葉の意味が分からなかった僕とは違い、マキちゃんは時計を見ながら少し焦ったような表情を顔に浮かべて、カヨさんの足元に合った鞄を手にとった。


「準備が出来ているなら都合がいい。さっさと行くぞ」


 鞄を片手に持ったマキちゃんにそう言われながら右手を取られ、引っ張られる。どうして急に急ぐのか分からず、母に渡された鞄を落とさないように左手に力を入れて、右手を引っ張るマキちゃんの後ろをこけないようについていく。


引っ張られている右手は強い力で握られているせいか、少し痛かった。おとなしく引っ張られている僕も、手を引っ張っているマキちゃんも何も言わず、黙ったまま玄関まで行く。


玄関に着くとマキちゃんは引っ張っていた手を離して、此方を振り返らず靴を履きながら独り言のように呟いた。


「本当は明日出発してもよかったんだけど、明日は動かないって聞いたからね。遅い時間だけど、今から出発することにしたから」


 その言葉を聞きながら、僕もマキちゃんの隣で運動靴を履く。


マキちゃんの言葉の意味は分からなかったが一緒に行くと決めたのだから、疑問は後回しだ。


きっと、後で説明してくれるだろうし。


靴を履き終えたマキちゃんは手に持っていた鞄を肩にかけ、玄関の扉を開けて外に出て行く。


おいていかれないように僕も急いで鞄を手に持って玄関の扉を開けた。


玄関の扉を開けると、家から少しはなれた星の形をしている看板の隣で立ち止まっているマキちゃんの後姿が見えた。


マキちゃんが立っている場所は、確か絶叫バスと皆に言われているバスのバス停だ。


目的につくのは速いけど、あまりのスピードと荒い運転に絶叫系が苦手な人は乗れないことで有名なバスなのだが、マキちゃんはそのバスに乗るつもりなのだろうか。


絶叫アトラクション苦手なのに。


「マキちゃん、これに乗って大丈夫なの?」


 マキちゃんの隣まで早足で近づいて尋ねる。マキちゃんは何を聞かれたのか分からないというように首を傾げてから、何かを思い出して納得したように頷く。


「苦手だけど、乗れないことはないから平気。それにバスなんだからアトラクションみたいな落ちるとかはない、と思うし」


 微笑みながら、「ありがとう」と言われれば何も言えなくなる。


マキちゃん本人が大丈夫だと言うのなら、信じるしかない。


そんな風に、思いながらバス停の看板を見ていると勢いよくバスが走ってくるのが見えた。


そのバスはキキキキィ、と音を立てながらバス停の前で動きを止める。


地面とタイヤの擦れた臭いに顔を顰めながら、マキちゃんは開いたバスの扉をくぐる。


その後ろを、おとなしくついていきながら、地面に残ったタイヤの擦れた後を掃除しなくてはいけない人達に心の中で哀れんだ。


 バスの中はガラガラで、唯一バスに乗っているのは僕とマキちゃんとの二人だけだった。


時間のせいでもあると思うが、このバスを日常的に使用する人は少ないのだろうと考える。


マキちゃんは前から三番目の二人用席に腰を下ろして、自分の隣に荷物を置いた。


僕は彼の隣の一人用席に座るか、彼の後ろの二人用席に座るか迷った後、彼の前の席に腰を下ろすことにした。


席に座るのを待っていたバスの運転手は僕らが座ったのを確認すると、勢いよくアクセルを踏んだ。


前のめりになった体を起こして鞄と席の肘掛を必死に握ったが、左右に揺られるのも急に止まるのも、自分の想像以上よりもましだったからいらなかった気がする。


それでも、手を離すことはできなかったけど。


その状態で十分ほどバスの中で揺られていると、目的地についたのかバスが急―ブレーキをかけて止まった。


出発した時と一緒で体が前のめりになり、前の席に額をぶつけてしまう。


勢いよくぶつけたからか、痛みが尋常ではない。額を押さえながら唸っていると、立ち上がったマキちゃんが僕の隣で呆れたように僕を見ていた。


しばらく、僕が動かないのを見てズボンのポケットから財布を出して、僕の頭の上に置く。


「それ、お前の母親から預かっていた財布。さっさとバス降りるぞ」


 鞄を肩にかけたマキちゃんは、それだけ言うと僕をおいて、さっさとバスを降りていった。紫色の中で黒は目立つから、どこに行ったのか分かりやすい。


それでも、はぐれると困るのでバスの料金をもたもたしながら払い、急いでバスを降りる。


マキちゃんは、バス停から少し離れた場所で此方を見ながら、立ち止まっていた。


僕がバスから降りるのを確認した後、背中を向けて歩き出す。


わざわざ、待っていてくれたことに嬉しさと申し訳なさを抱いた。


早足でマキちゃんの隣まで行くと、マキちゃんがどこに行こうとしているのかに漸く気づいた。


記憶が正しければ、真っ直ぐ行けば船場にたどり着く。


そこから、違う町に行く気なのだろう。


「これから、どこに行くの?」


 横目でマキちゃんを見ながら、そう問いかける。


マキちゃんはきっちりと着ていたスーツを着崩しながら、僕の質問に答えた。


「冬の国にある白の町」


 その後、何を聞いても答えてくれないマキちゃんの隣を歩きながら船場についた。


マキちゃんがなれた手つきで乗船手続を済ませるのを横で見ながら、恐怖で忙しなく動く心臓を落ち着けようとするが無意味に終わった。


手続が済んだ後は、黙ったまま船に乗り込む。


七階まであるらしい船に始めて乗るから、前を歩くマキちゃんの後ろを何ともいえない気持ちで歩いた。


そんな僕の様子に気づいていながら何も言わず、部屋の説明をしてくれる彼の対応をありがたく思う。


「予約したのは個室仕様の客室で、二段ベッドで洗面台付き。後、小さな机と二つ椅子があったと思う。タオル、スリッパ、歯磨きと歯磨き粉はあると思うけど、窓なしの内部屋だから」


 その言葉に頷く。


外の風景を見たいとは思えなかったので、窓なしの部屋は嬉しい。


外の風景を見ていると、自分の町を本当に出て行くのが分かって、多分恐怖で吐く。


そんな自分に苦笑しながら、ぎゅっと鞄の持ち手を強く握り、彼の説明を聞く。


「部屋番号とかはカードキーに書いてあるから覚えなくても問題ないよ。書いてある文字と壁、床の色は同じ色だから、階と通路は間違えないと思うし」


 呟くような声に見えてないと分かりつつも頷きながら、六階まで上がる。マキちゃんが言っていた六階にある部屋の前まで着くと、マキちゃんは手続の時貰ったカードキーの片方を僕に渡してから部屋の中に入っていった。


僕も慌てて部屋の中に入る。


中は落ち着いたような雰囲気で、過ごしやすそうだった。


マキちゃんは部屋にある二段ベッドの上に鞄を置き、上のベッドに上りながら僕に下のベッドを使うように言った。


僕は言われた通り、下のベッドに鞄を置く。


マキちゃんは僕が鞄を置いたのを見ると、ベッドから顔を覗かせながら首を傾げて尋ねた。


「全長約二百二十四メートルの船に乗った気分は?」


 その言葉に苦笑する。


初めて船に乗ったのに気分がどうとか聞かれても答えることはできなかった。


その質問に答えることはせずに話題を変えるように質問した。


「どれくらいで着くの?」


 その質問にマキちゃんは少し考えてから答えてくれる。


僕が質問に答えないのを気にしていないようで安心した。


「十二時間と三十分」


 その時間が長い方なのか短い方なのか分からなかったが、マキちゃんに聞くのもおかしいと思って黙る。


それ以上、何も聞いてこないと分かったマキちゃんは覗かせていた顔を戻し、ベッドに伏せる。


「これから俺は寝るわ。暇なら五階にゲームコーナーがあるから」


 そう言ったきり、マキちゃんは黙ってしまう。


近くにある梯子を登って上を覗くと、体を丸めながら枕に顔を埋めているマキちゃんが見えた。


その寝方は息苦しくないのかと思いながら梯子を降り、手持ち無沙汰になった時間をどうしようかと考える。結局、マキちゃんが教えてくれたゲームコーナーに行くことにした。


 一つ下の階にあるらしいゲームコーナーを探してうろうろとする。


船という乗り物は知っていても乗ったことはないから、ゲームコーナーがあって安心する。


気を紛らわす所がなかったら変な想像ばかりしてしまうだろうし。


そんな風に思いつつ、周りを見渡しながら歩いていると、種類は豊富ではないが確かにゲームコーナーがあるのを見つけた。


マキちゃんは一度寝たら自分が決めた時間まで起きてこないってカヨさんが言っていたから、長い時間ゲームコーナーにいても問題ないだろう。


とりあえず片っ端からゲームに没頭することにした。


 結局、僕は船を降りる十分前までゲームコーナーに入り浸っていた。


部屋に戻ってもすることはないし、気持ちを落ち着けるためにもゲームに没頭していたが、さすがに長く居すぎた。


急いで六階の部屋に戻る。


部屋の扉をおそるおそる開けて中を覗き込む。


ゲームコーナーに行く前は寝ていたマキちゃんはスーツから黒のジーパンに灰色の模様が描かれている黒のⅤネックの長袖に着替えて、椅子に座って本を読んでいた。


「……ただいま」


 怒られるかもしれないと思いながら、部屋の中に入る。


マキちゃんは此方を一瞬見てから手元の本に視線を戻し、パタリと閉じた。


その後、何も言わないマキちゃんに何を言われるのだろうかと怖くなる。


だけど、マキちゃんは怒ることはせず、優しい笑みを浮かべながら質問してきただけだった。


「遅かったね。楽しめた?」


 心配している様子も怒った様子もなく質問された言葉に、どう反応していいのか戸惑った後、黙って頷く。


僕が頷いたのを横目に見ながら、マキちゃんは机の上に置いた自分の鞄に本を直し、コートを取り出した。


「もうすぐ着くから、鞄に入った防寒具、出した方がいいぞ。外は寒いから」


 フード付のロングコートを手に持ちながら言うマキちゃんの言葉に頷き、慌てて自分のベッドに置いた鞄の中から、押し込められたダウンジャケットを引っ張り出した。


「緊張していないなら、外の町も楽しめるよ」


ダウンジャケットを着てから鞄の中にある手袋を探していると、優しく微笑みながらマキちゃんにそう言われる。


その言葉の意味を聞く前に到着のアナウンスが響いた。


そのアナウンスを聞いたマキちゃんは鞄を肩にかけて、にやりと笑い、言った。


「では、行こうか。白の町に」


 自分の町以外の場所に始めて来たという事実に、恐怖と緊張と少しの楽しみでお腹が痛くなる。


絶対に迷子にだけはならないようにしようと思いながら、船を降りた。


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