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水の音・番外編 2  作者: さくら
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ツキノアカリ

時系列はヒロと隼人が出会った年の冬。

花村バージョンで肝試しです。








「肝試し!? なんでこんな寒い時期に肝試しなんか!」

「いーじゃねぇか、五、六年ペアで、旧校舎の奥のロウソクを消さずに取って帰る!」

「さんせーい!」


 僕は六年三組、出席番号二十六番。花村祐一、十二歳。見た目はやけに老けていると言われてよく中学生に間違えられるけど、日々ランドセルを背負い学校に通う、立派な小学生だ。


 皆と同じように机を並べ、皆と同じように授業を受け、皆と同じように迫る冬休みを待ちわびている、ついでに言えば皆よりもちょっとオバケが怖い、ごく普通の小学生だ。皆と違うところを挙げるとすればそれはただひとつ。僕は、ゲイだ。


 それはさておき、突如として持ち上がってしまったこの馬鹿げた企画。言い出しっぺは同じクラスのガキ大将、斉藤敦。こいつはいつも勉強もせず授業中は寝てばかりなうえに、喧嘩っ早い。そのくせこういう行事ごとではでかい顔をしてさっさと自分中心に意見を纏めてしまう。先生すらそんな斉藤に一目置いてしまっているものだから、始末に負えない。

 

 職員会議にかけられ肝試しが不意になることを祈っていたけれど、翌日登校して来た僕の目は黒板の「肝試しは今週の土曜午後七時。各自懐中電灯を持って旧校舎の玄関前に集合」と、でかでかと書かれた文字列に釘付けになった。

 がっくりと肩を落とした僕は、ふと思い立った。そうだ、まだ僕には希望がある。五、六年ということは、ヒロ君も参加ということじゃないか。もしかすると奇跡が起きて、ヒロ君とペアになれるかもしれない。これは、千載一遇のチャンスだ。

 僕は今年の春に、早々にヒロ君に告白して見事玉砕している。けれど。だけど。でも。


「うわ、お前めっちゃ気持ち悪い顔してる。うわ、こっち見んな!」

「……見てない。お前なんか見てない! 僕にはヒロ君しか見えない!」


 僕の後ろは、なんの因果か斉藤の席だ。ことあるごとに僕にちょっかいを出して、暇さえあれば僕をからかって遊んでいる。

 いつだったかどうして僕にそんなに構うんだと聞いた時、斉藤は少し照れたように、だって面白いから、なんて言い放った。

 なにが面白いのか未だによくわからないけれど、とにかくそういう訳で僕と斉藤はいつも何故かくっついている。


「にやにやすんな!」

「仕方ないだろ! なあ斉藤、ペアってクジ引き? ズルできない?」

「……お前なぁ。ペアっつったら決まってんだろ、男女のペアだよ! 男同士で喜ぶ奴なんかお前くらいなもんだからな」


 人聞きの悪いことを言う斉藤を睨んで、席に座り頬杖をついた。なんだ男女か。つまらない。

 一気にテンションの下がった僕に、斉藤は呆れたようにため息を吹きかける。だって、ヒロ君とペアになれない肝試しなんてただ怖いだけじゃないか。何のロマンスもない。

 肝試し企画に浮かれて騒ぐ教室を見渡し、ため息をつく。皆なにが楽しくてそんなに笑っているんだ。

 






 そして迎えた土曜の夜、僕のテンションは地を這っていた。校門の前にはたくさんの車の列ができている。もう暗いからという事で家の人に送ってもらったんだろう。かくいう僕も母の運転する車に乗せてもらい、すぐ近くのコンビニで降ろしてもらった。終わったら電話してね、と言う母の言葉に低く返事を返して校門に向かった。


「だいたい九時過ぎな。迎えに来るからその辺で待ってろよ」

「はーい。気を付けてね」

「おう」


 僕の耳はその声を、瞬時にヒロ君の声だと判断した。きっと今の僕の耳はどんな精密機器より正確で狂いがない。

 声のしたほうに振り返ると懐中電灯を手に、自転車で走り去るお兄さんに手を振るヒロ君の姿が見えた。


「ヒロ君! お兄さんに送ってもらったの?」

「あ、花村。うん、お父さん仕事で遅くなるからって」


 そう言って微笑むヒロ君のシルエットは、闇の中でも可愛い。誰が何と言おうとヒロ君は、可愛い。


「ヒロ君は幽霊怖くない? 僕めちゃくちゃ苦手なんだけど」

「幽霊なんか居ないよ。古い校舎だから雰囲気あるけど」


 そのあっけらかんとした声色から察するに、どうやら本気で幽霊なんか居ないと思っているらしかった。そんなばかな。僕は幽霊を見た事がある。


「居るよ、幽霊。僕は見た事がある」

「嘘。居ないよ。幻覚か夢だって」

「だって僕、昔飼ってた犬が死んじゃってその日のうちに出て来たんだよ」

「花村があんまり寂しがるから幻覚見たんだよ」

「いや、でも」


 僕をからかうように笑うヒロ君と並んで歩いていたら、すぐに旧校舎の玄関に辿り着いてしまった。既にたくさんの生徒が集まってクラス順に並んでいる。


「じゃあね。怖がりすぎて腰抜かさないようにね」


 旧校舎の前に立てられたポールに、大きな電灯がくっつけてある。ぼんやりと浮かび上がったヒロ君は僕に手を振り、さっさと自分のクラスの場所に行ってしまった。腰を抜かすなんてそんな失態。あり得るから笑えない。


「よぉ花村。家で怖がって震えてるかと思ったけど、来たな」


 例のごとく斉藤が僕の前に立って、にやにやと不敵な笑みを浮かべる。


「うるさいな。だって強制参加だろ」

「あー、でも何人か来てないみたいだぞ。部活やってる奴は遠征だったり。あと風邪も何人か」


 何だって。ということは、男女の人数がきっちりきっかり一緒の二学年が合同でも、どこか同性同士のペアが出来るかもしれないということか。


「これから男女別々にクジを引いてもらいます。同じ番号の生徒とペアになって、番号順に四組ずつ、五分の間を置いて校舎に入って下さい。ペアは必ず手を繋ぐこと。準備室を含め全ての教室にスタンプが置いてあるので、それを裏面のマス目にひとつずつ捺して、二階奥の理科室に置いてあるロウソクを消さずに持って帰って下さい」


 説明が終わった途端に生徒たちはざわめき、あちこちで黄色い声や野太い叫び声が聞こえる。

 男女に別れクジを引き、僕は百一番という数字を手にした。微妙な数字で、かなり後ろのほうだ。


「先生! 欠席は何人なんですか?」


 目についた先生の腕を掴んで、出欠表を覗き込む。たくさんの丸がついている。急に立ち上がった企画にしては出席率が高いんじゃないだろうか。


「欠席ぃ? ええと……二学年合わせて男子が二人に、女子が四人だ」


 ということは。男子が二人あぶれるじゃないか。

 もしヒロ君が百二番を手にしていたら。そんな都合のいい事は起こるもんかと心の中で否定しながらも、希望を捨てきれない。きょろきょろと辺りを見回してヒロ君の姿を探すけど、ちっとも見当たらなかった。


「番号順に男女二列になって並んでくださーい!」


 生徒会長の号令に、ざわついていた生徒たちが纏まり始める。もしヒロ君が僕のうしろに並んだら。

 果たしてその希望はあっけなく打ち砕かれた。僕の後ろには、学年でいちばん地味で目立たない、北村が並んだ。もちろん僕の隣には誰もいない。


「あぶれた男子が二人いるとおもいまーす。残念ですがその二人でペアになってくださーい。しかも四で割れないので二人きりで行ってくださいねー」


 どっと笑いが起きる。笑い事じゃない。北村も地味だけど、僕も負けず劣らず地味だ。こんな地味な二人がペアなんて、しかも最後なんて、史上最強に地味な肝試しになるんじゃないだろうか。

 そう思って肩を落としかけたその時、軽快な足音が近付いた。


「花村! ちょっとこっち来て!」


 そう言って僕の腕を掴んだのは、ヒロ君だった。なにが、なにがどうして。

 ヒロ君は戸惑う僕の腕を掴み、人ごみから少し離れた所に連れ出した。内緒の話なのか、口元に手を添えて僕の耳に近づく。そんな、くっつかれるとドキドキするんだけど。しかもちょっと、くすぐったい。


「僕とペアになった片山さんね、北村のことが好きなんだって。それで、僕に北村と代わって欲しいって言ってるんだけど、構わない?」

「構うもんか! いや間違えた、構わないよ、大歓迎だ! そういうことなら、ほら北村、ヒロ君と数字を入れ替えるんだ、ほら早く!」

「えっ……、なに。僕別にここで構わないけど……」

「僕が構うんだよ!」


 神様はきっと、存在する。心の中で神様にひれ伏し礼を言いながら、怖いのも忘れてヒロ君とふたり、自分たちの順番が来るのを待った。


「それにしても待ち長いよね、最後なんて」

「そうだね! どうしよう、しりとりでもして待ってようか!」

「花村声大きいよ。なんでしりとりなんだよ……。じゃあ、花村から」


 何だかんだ言ってやるんじゃないかと心の中で文句を言ってから、少し考えた。


「じゃあ、しりと、り」

「略図」

「ず……? ズーム」

「無傷」

「ず、……ず、……ズワイガニ」

「日本地図」

「ず……また、ず!? ず、頭蓋骨!」

「土踏まず」

「ず……。も、もうやめよう! 僕の負け!」

「あはは、勝ったー!」


 なんてことだ。「ず」で攻められてしまった。ものすごく何だか、悔しい。だけどありえないくらいに、楽しい。

 そんなことをしながら待っていたら、あっという間に僕らの順番がきた。

 校舎の前には既に帰ってきた生徒たちが、指示された場所にロウソクを立てて安堵の表情を浮かべている。怖かった、とか、意外となんともなかった、とか、何かいた、なんて騒いでいる声も聞こえる。

 僕らは並んで玄関をくぐり、ざらざらと乾いた砂の音がする板張りの校舎の床を踏んだ。長い長い廊下の向こう側、僕たちの前に入ったペアがちらちらと懐中電灯を振っているのが見えるほかは真っ暗だ。どこかで、ひゅうっ、とすきま風の入る音がした。

 ごくりと唾を飲み込んだら、ヒロ君が振り返って楽しそうに笑う。


「怖いんだ、花村」

「こっ、怖くなんか! ひっ、ヒロ君のほうこそ、いっ、意外と怖かったりするんじゃ、ないのかなっ」


 僕は緊張するとどもってしまう。もっと小さい頃に比べたらだいぶ落ち着いたけれど、こんなふうに怖かったりするとどもりが出てきてしまう。変だから治そうと意識すると余計に出てしまうから、もう今はだいぶ諦めている。


「怖くないよ。さっきも言っただろ、幽霊なんかいない」

「いやっ、いる! いるに決まってるっ!」


 ヒロ君は諦めたように僕を見上げ、仕方なく笑った。


「てっ、手、繋いでもいい? ていうかルール、だし」

「……いいけど」


 本来ならめちゃくちゃハッピーなシチュエーションなのに、今はただ、怖い。手を繋ぐというよりしがみつく感じで、ぎしぎしと音をたてる廊下を歩いた。

 この旧校舎は昭和の初期に建てられた木造二階建てで、この冬休みの間に取り壊されることが決まった。授業の一環で何度か中に入ったことはあるけれど、昼間でも結構不気味な雰囲気があるのに、夜なら尚更だ。

 あちこちの床がめくれ上がり、薄い硝子をはめ込んだ教室の窓は所々割れてしまっている。破れたカーテンが闇の中に白く浮かび上がっているのが人影にみえて、ひっ、と声を上げてしまった。

 

 各教室に置いたスタンプを捺しながら奥へ進み、時々背後になにかの気配を感じてはヒロ君に飛び付きながら二階を目指す。

 それにしてもヒロ君は、物音がしようが先に入った誰かの叫び声が聞こえようが、顔色ひとつ変えない。坦々とまるで事務仕事を熟すようにスタンプを捺しては、躊躇いもせず次の教室のドアをあける。何という精神力。


「ひ、ヒロ君。なんで怖く、怖くないの」

「もう、何回言わせるんだよ。僕は幽霊がいないって知ってるからだよ」

「さっきも言ったけど、幽霊はいるよ」

「いない」

「いる」

「いないよ。しつこいな。あんまり言うと置いてくぞ」

「……じゃあ、なんでいないって断言出来るのさ」


 二階に繋がる階段を上りながらそう尋ねたら、ヒロ君は懐中電灯の紐を持ってぶらぶらと揺らしながら手すりにつかまり、僕を見下ろした。


「……なんでって。そんなこと花村に言いたくない」


 唇を尖らせそう言い放ったヒロ君は、僕の手を離してさっさと二階へ上がってしまった。それでも階段を上がったところで待ってくれていると思ったのに、二階の床が見える辺りまで来てもその姿はなかった。


「……な、何だよ! 何だって言うんだよ! そんなムキになる事じゃないだろ! 置いてくなよ! ちょっとヒロ君!」


 大声でそう怒鳴りながら二階へ上がると、ヒロ君の姿はもうそこにはなかった。今の今上がって行ったはずなのに。

 きょろきょろと辺りを見回しても、懐中電灯であちこち照らしてみても、ヒロ君の姿は見当たらない。おかしい。


「ヒロ君! どこいったの! ねえ、ヒロ君ってば!」


 僕たちの前に校舎に入ったペアが次々と、すれ違いざまに僕を変な目で見て行く。ヒロ君を見なかったかと聞いたけれど、どいつもこいつも、さあ、と首を傾げるだけだった。

 どこに隠れたんだ。あんまり僕が自分の意見を主張したから拗ねて隠れてしまったのか。いや、まさかそんなことは。


「ヒロ君! 返事して!」


 さっきより大きな声で呼んでみたけれど、相変わらず返事がない。まさか、得体の知れない何かに連れ去られたとか。お化けとか、幽霊とか、妖怪とか。

 背中がぞくりとして、校舎にある窓と言う窓から妙なものが覗いているように思えた。怖い。めちゃくちゃ怖い。


「ひ、ヒロ君! もう、ゆ、幽霊が居るなんて言わないから! だから、返事して!」

「う……、花村」


 その時、階段を上がってすぐ脇にある理科準備室から、ヒロ君の呻き声が聞こえた。ドアは開いていて、一見して理科とは関係の無さそうな資材が床の上に積み上がっている。それにしても、さっきこの部屋を調べた時にはヒロ君はいなかったはずだけど。

 積み上がった資材の傍、小さな机の上にスタンプを捺す台が置いてある。灯りを下に向けると、資材の下の方からヒロ君が顔を出し手を伸ばしているのが見えた。


「な……! なんでそんなとこに!」

「知らないよ……。スタンプ捺してたら急になんか落ちてきて……あいたたた」

「どこか怪我したの!? 引っ張って大丈夫!?」


 うん、と頷いたヒロ君の手を引っ張って引きずり出す。体のあちこちを見てもとりあえず怪我らしいものは見当たらなかった。血も出ていない。どうやら落ちてきたものが軽かったようだ。


「びっくりした……。いきなり、音もなく落ちてくるんだもん」

「びっくしたのはこっちだよ。急に居なくなるから」

「……ごめん。でも……いてっ」


 立ち上がろうとしたヒロ君は左足を抑えて、また座り込んでしまった。どうやら足を挫いてしまったらしい。


「あれが落ちてきて倒れこむときに、何かに引っ掛けたのかな」


 ため息をつきながら、ヒロ君はそう言って資材を見て、僕を見上げる。僕はヒロ君に背を向けて中腰になり、ほら、と促した。


「……おんぶ? そんなことしたら床抜けちゃうかも。思ってたより色んなとこ脆いよ、ここ」


 そう言ってヒロ君は床を少し強めに叩いてみせる。すぐに小さな穴が空いて、ぽろぽろと床材が崩れた。

 授業でここに入った時は確か、一階部分しか見て回らなかった。今回も安全確認はしたんだろうけど、きっといい加減だったんだろう。


「じゃあ肩に掴まって」

「うん……あいたっ、痛い! 無理、立てない」


 手を掴んで引っ張りあげてみたけれど、ヒロ君は痛そうに顔を顰めてまた座り込んでしまった。


「えええ……どうしよう、誰か呼んで来ようか」


 そう言ってみたものの、こんな所にヒロ君を置いて行けるはずもない。少し考えて携帯を取り出した。斉藤に電話をして先生を呼んできてもらおう。いいアイデアだと思ったのもつかの間、電波が悪すぎて発信ができない。


「……僕たち最後だから、あと誰も来ないよね」

「……花村、くじ運悪すぎ」

「ヒロ君は人が良すぎ。なんで代わってやったりするんだよ。ヒロ君だって女の子と来たかったろ」


 僕がゲイでヒロ君が好きなだけで、ヒロ君は女の子が好きなはずだ。そんなことは言っていなかったけれど、そのはずだ。

 ヒロ君は僕の言葉に困ったように笑って、痛む足を横に流して座り直した。どうやら、先生が気づくまでここに居ようと決めたらしい。ぼくもそれに付き合うことにした。


「信じない理由、か」

「え?」

「さっき花村が訊いたんじゃないか」


 ヒロ君は崩れかけた壁に背を預け、空にぽっかりと浮かんだ月を見上げる。今日は満月だ。


「僕はね、花村」

「……うん」


 ヒロ君の隣に座り、同じように月を見上げた。濃紺の空に浮かぶ月。眩しいほどの光が木の窓枠に区切られて、僕らの頬を照らす。


「ちょっと前にお母さんが死んじゃって。幽霊がいるなら出てきて欲しいってずっと思ってたんだけど」

「え……そう、だったんだ」

「うん。だけど、出てきてくれないんだ。せめて幽霊でもいいからもう一度会いたいって思うのに、ちっとも見えなくて」


 だから。だからヒロ君は幽霊なんか居ないと言い張ったのか。ヒロ君の気持ちも知らずにやたらと自己主張した自分が何だか恥ずかしくなった。


「お母さん、いつ?」

「今年の、はじめ。だからここに来たんだよ。お母さんが死んだりしなかったら、花村に会うことも、隼人に会うこともなかったんだ」

「ハヤト、って」

「ああ……えーと、兄だよ」


 そうか、あのお兄さんはハヤトというのか。ということは今二人は、お父さんと三人で暮らしているという事だろうか。でも、お兄さんに会うこともなかった、というのは一体どういう事なんだろう。


「お母さんが死んじゃって、寂しいはずなのにね。だけど僕今すごく幸せなんだ」

「……いいことじゃないか。お母さんだってきっと、喜んでる」

「うん。だけどお母さんが生きてたら今ここにいなかったんだって思うとね。いいのかなあって」

「いいのかな、って。いいに決まってるだろ。お母さんは、どこにいたってヒロ君が笑ってくれるのを望んでるはずだ。そんな事考えるなよ!」


 思わず大きな声が出た。母親が亡くなってまだ日は浅い。だけど笑っている自分に罪悪感を感じているんだ。幸せだと、わかっていても受け入れることが出来ないでいるんだ。


「笑ってよ。ちゃんと笑って。僕は少なくとも、ヒロ君が笑ってくれるだけで幸せだと思えるよ。お兄さんだって、お父さんだってきっと、そうに決まってる」

「……うん」


 ヒロ君は頷き、また月を見上げる。長い睫毛が青白い頬に影をつくり、揺れる。思わず、その唇にそっと僕の唇をかさね合わせた。

 ヒロ君はなにも言わなかった。ただ僕を見上げて、その睫毛を伏せた。


 好きだとか嫌いだとか、そんな感情が入り込む余地はなかった。だだ、そっと触れたかった。気丈な物言いに隠した弱い部分を垣間見て、僕に出来ることはそれだけだったんだ。


 




 帰りの遅い僕たちを心配した先生たちが青い顔をして迎えに来たのは、それからすぐのことだった。足を挫いたヒロ君を抱えた先生は、案の定抜けてしまった床に足を挟まれ苦悶の表情を浮かべていた。

 自転車で迎えに来ていたヒロ君のお兄さんに、先生たちは頭を下げる。もっとよく点検しておくべきだったと謝る先生に、ヒロ君は首を横に振って笑ってみせた。お兄さんは渋い顔をしていたけれど、ヒロ君に諭されて小さくなっていた。

 生徒たちが次々と去ってゆく校庭で、お兄さんの自転車の後ろに座り帰って行くヒロ君の姿が月明かりに照らされる。僕はそれをいつまでも、いつまでも見ていた。










         ◇◇◇◇










「あ。思い出した」


 杉浦先輩のカフェで開店前に顔を出した僕に、彼はまた苦笑いを浮かべながらコーヒーをカウンターに置いた。開店前といってもたったの五分だ。そんなに迷惑がらなくてもいいだろうに。


「なにを思い出したって? お前、学習能力ってやつがねえのかよ。開店前に来んなって言ったろ」

「着いたら五分前だったんです。仕方ありません。僕、ヒロ君にキスしたことありますよ」


 ドアに掲げたプレートをくるりとひっくり返して営業中に変えた彼はぴたりと動きを止めて、ゆっくりと振り返った。

 言わなきゃよかったとも思ったけれど、どう考えてももう時効だろう。彼はじりじりと僕に近づき、眉間にこれでもかと皺を寄せて僕の胸ぐらを掴んだ。


「あ、あの、ちがっ、ヒロ君が小学生の頃ですよっ! しかも、ちょこっとです! ほんのすこーし、触れたか触れないかくらいの!」

「……花村ぁ。てめぇいい度胸してんじゃねえか。今まで俺が出してやったコーヒー全部吐け! 俺が食わせてやった飯も、ここで食ったもんも全部だ!」

「そんな無茶な。ぜんぶ消化してますよ」

「無茶だろうが何だろうが吐け! っつーか、出て行けー!」


 かくして僕は先輩に店をつまみ出され、歩道に投げ捨てられることになった。

 翌日の夜、ヒロ君と彼の暮らす部屋に赴き手土産を渡した僕に先輩は渋い顔をしてコーヒーを出した。一日たって、少しは怒りが収まったらしい。


「あの時ねえ。僕ちょっと嬉しかったよ」

「何っ!? お前この、ふざけ、」

「まあまあまあ先輩、ちょっと話聞きましょうよ。落ち着いて」


 テーブルの向こうで喚き立て始めた先輩を制して座らせ、ヒロ君の話に耳を傾けた。ヒロ君はなにかを思い出し、口の中で笑う。


「月がすごく綺麗だったでしょ。隼人に見せたいなあって思ったんだよ。それですごく、なんていうか……寂しくなって。そしたらキスなんかされちゃって。僕を慰めてくれてるんだなあって」

「だか、だから、慰めるとかそういうのでキスってのは」


 頬杖をついてぼんやりと中空を見つめため息を吐くヒロ君の隣で、先輩は鼻息も荒く僕を睨みつける。苦笑いを浮かべて先輩を見上げたら、ふん、とそっぽを向かれてしまった。子供同士のキスくらいで大人げない。


「あの時花村、僕に笑えって言ってくれたでしょ」

「うん」

「なんかそれから少し、少しだけど吹っ切れてね。色々軽くなったんだよ」


 僕にとって大事な想い出でも、ヒロ君にとってはそうでもない事なのかもしれないと思っていた。だけどあの日の月の光はまだヒロ君の中にも綺麗に残っている。そしてこんなふうにして僕だって、大切な人の心を軽くする事ができるんだ。


「そんなふうに思っててくれて嬉しいよ。少し自信なくなってたから」

「なんで。誰か好きな人でもできたの?」


 ヒロ君は結構、自分以外の事に関しては鋭い。一気に顔に血が上ってしまった僕の手を握り、頑張って、と笑った。

 ヒロ君は、可愛い。誰がなんと言おうと可愛いんだ。


 あの日月を見上げ幸せだと思うことを躊躇った君は今、きれいに笑っている。世界でいちばん大切なひとの傍で、その手を取って。




「よし決めた。明日ちゃんと言う。告白する。ノンケだろうが何だろうが構うもんか! 押し倒してやる!」

「……押し倒すのはやめとけ。ノンケだとトラウマになるらしいぞ」


 けらけらと笑うヒロ君のうしろで、先輩はそう言って眉を顰める。そうか、トラウマになるんだったら可哀想だな。そう思い直して大きく頷き、玄関に放り出してあった靴を履いた。


「気をつけて帰ってね。こんど来る時はお酒持ってきてよ。僕赤ワインね」

「酒屋でいちばん高いやつ持って来い。俺はエビスでいいぞ。プレモルでも」

「チリワインと淡麗持ってきます! じゃあまた!」

「それ発泡酒だ! こら!」


 まだ喚いている先輩を尻目に玄関を閉め、外廊下から空を見上げる。綺麗なまるい月が、冬が始まったばかりの町を静かに照らしているのが見えた。

 そっと指先を唇に滑らせる。あの日の月明かりとちいさな温もりがぼんやりと蘇り、つめたい風に消えていった。






 



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