第二章:覚めた悪夢、戻る日常
〜幕間〜
朱夏と蒼氷が中つ国を目指している頃。
小さな火の鳥が、地ではなく、蒼穹に赤い影を落としながら王宮を目掛けて飛んでいた。
その時、王宮の一つの窓が微かに開く。鳥は、その隙間にするりと入っていった。
中には緋の髪を持つ人と、真紅の髪を持つ人の二人がいた。
緋の髪の人が鳥に手をさしのべると、鳥は一瞬激しく発火し、巻かれた紙に姿を変えた。
「誰からです?」
「烽鳥なんだから朱夏に決まってる。お礼でも何かか?」
紙を広げ文面を読むと、緋の髪の人は、溜め息をつく。
「どうしようもないことをしてくれたな。朱夏は」
「いかがなされました?」
「読んでみなよ。言っとくけど、お礼じゃなかった」
真紅の人も渡された手紙を見ると、眉を顰め怪訝な顔をする。
「……こんなことが可能なんでしょうか」
「さてね。その気になれば自分も出来る。でも蒼尊は、そんな能力が高いわけじゃない」
「わずか四歳で皆蝕乱狂を起こされた方ですよ」
「わかってる。わかってるけど」
緋の髪の人は立ち上がる。
「朱夏に協力してくる。リョウガ、トキ、ギョウシュウも中つ国にいるから仕事が溜るけど、今回は四天士のことがかかってる。目を瞑ってくれないか」
「承知致しました。無駄な休みをとる方じゃございませんから。我が主は」
「ありがとう。行ってくる」
緋の影は、部屋を出た。
動き出した時をもうとめないように。
聖良が目を覚ますと、出窓から朝日が差し込む部屋。即ち自室のベッドで横になっていた。安心感で、ふーっと息を深くはく。
(長くて、生きてる中で一番嫌な夢だった……)
天井を見たまま、ぼーっとする。
(夢……?)
聖良が携帯を手に取り、日付を確認する。テスト最終日から一日しか経っていない。
(じゃ、夢だよね)
生き物を殺し、自分が自分でも、人間でもなくなった悪夢。それはすべて夢の中のできごとだったのだ。
そのことに安堵すると、ドアが開いた。開けたのは、紛れもなく聖良の母親だった。母は目覚めた聖良を見て、喜びの色を顔に浮かべた。
「起きたのね? いつまで経っても帰ってこなくて……捜したら砂浜で倒れてて……何があったの?」
(砂浜……あ!)
上半身を起こし、鏡を手に取り自分の顔を見た。そこに映ったのは黒い髪、黒い瞳のいつもの自分。血糊もついていない。いつもの自分。
(何やってんだろ。夢だっていうのに)
「どうしたの?」
何でもない、と首を横に振ると鏡を元の位置に置いた。
「学校休む? 無理しなくていいのよ?」
聖良は時計を見た。家を出る時間までまだ二時間ある。
夢であったことはわかったが、どうも気分がすぐれない。休もうか本気で考えたが、ここで休むなんて言ってしまったら、より心配をかける結果になるに違いない。
「平気だよ。今日からテスト返ってくるし」
「そう? じゃあシャワー浴びにいきなさい。朝食作っておくから」
母親はそう言うと、一節置いて聖良を抱きしめた。
「本当に、心配したのよ。聖良……」
聖良の首筋に母の一滴の涙が溢れ、小さい鳴咽が聞こえた。
(心配させるようなこと、今までなかったっけ)
「お母さん。ごめんなさい」
母親は手を放すと、少々目を赤くさせながら笑顔を見せた。
「いいのよ。聖良が無事だったことが一番だから」
「父さんは? やっぱり怒ってる?」
「最初は、かんかんに怒ってたけど、砂浜で倒れてた事を聞くなり医者を呼べやら……おかしいくらい慌ててたわ」
「……父さんらしくない」
二人は微笑んだ。
「さ、シャワー浴びてきなさい」
聖良は体をベッドから降ろすと、新しい制服を持ってシャワーを浴びに行った。その足取りは、どことなく重い。
(どうして……)
高天原という神話上の世界。自分の事を主と呼ぶ、青い髪の青年・蒼氷に、赤帝と名乗る女性・朱夏。化け物を5匹を相手に血を浴びながら戦ったこと。そして、自分の髪と瞳が蒼く変色し、わずかながら顔付きも変わっていたこと。全て、夢。なのに。
(どうして、こんなに気になって胸騒ぎがするの?)
忘れてはならない、という声がどこからか聞こえた気さえした。
洗面所のドアを開けると、すぐそこに鏡がある。
そこに映った、蒼い髪と瞳――
「っ! 違う! 違う! 私は……!」
気が付くと、鏡の中の自分は朝の姿に戻っていた。気にしすぎて幻覚でも見たのだろう。
すごく驚いてしまったので、運動後のように心臓が激しく鼓動している。
「ダメダメ。気にしないようにしなきゃ」
聖良がシャワーを浴び終えると、制服に着替えてリビングに向かった。
テーブルには香ばしい香りを漂わせる焼きたてのパン、スクランブルエッグ、サラダが並んでいた。
聖良は椅子に座り、いただきます、と言ってから温かいパンを少しずつちぎって食べた。なんだか暫く食べていない気がして、パンの味と温かさが心にしみる。
食事が終わり、食器をかたそうとした時、母は聖良の前に少し厚い封筒を置いた。
「母さんも父さんも暫く外泊するから。その間の食事代よ。何かあったら電話しなさい」
「……それにしては、やけに厚い気がするんだけど」
「留守番代金として余分に入れといたから。余った分だけお小遣いにしなさい。それじゃあ行ってくるからね。片付け、よろしくね」
「わかった。行ってらっしゃい」
聖良は食べ終わった食器を片付けながら言うと、母親は家を出た。
片付けを終え、今日の支度を素早く済ますと、聖良もスポーツバッグを持って家を出た。
――これが、自分の世界と日常。
(何が本当の生まれ故郷は高天原、よ。あんな化け物が出るとこなんて私の故郷じゃない)
食器を軽く洗っていると、意識を持っていかれるような眠気に襲われる。悪夢で眠りが浅かったせいか、やはり眠気がひどい。
「こんなことで、めげるもんか、っと」
洗い終えると、タオルで手を拭き、予めリビングに持ってきてたスポーツバッグを持って家を出る。ちゃんと鍵をかけるのも忘れない。
「んーっ! いい天気!」
晴れているといえども湿気はそんなになく、風があるので昨日よりずっと涼しく感じた。住宅街を吹き抜ける風を受け、学校へ続く短い坂道を上る。
「おはよっ! 聖良!」
しばらく歩いていると、麻奈が後ろから肩を叩いた。聖良が振り向くと、麻奈のもう片手にはサンドイッチがあった。
「また寝坊?」
麻奈はよく寝坊し、テスト期間の時は徹夜続きで、一緒に登校することはなかった。中間テストの時はテスト期間が終わっても、しばらく遅刻が続いていた。
「仕方ないじゃない。テスト返ってくるから眠れなかったんだよー。古文が赤点危機だしぃ」
「そうだったね。麻奈は理系なんだよね」
「そうそう!」
麻奈は微笑むが、怪訝な顔をした。
「どうしたの?」
聖良にはその質問の意味がわからない。
「何で?」
「いつもの聖良の顔をしてないよ?」
聖良は胸ポケットから手鏡を取り出したが、見ようとする気は起きなかった。また、蒼い髪と瞳が映し出されそうだから。
「それは髪か目の色が違うんじゃなくて?」
今度は麻奈には聖良の返答の意味がわからない。
「あはっ。寝惚けた? なんか元気ない、てことだよ。だてに幼馴染みやってるわけじゃないから」
その直後に麻奈はサンドイッチを三口でたいらげた。
「今日はあまり寝てなくて」
化け物と戦った夢のせいで体調がすぐれないなど、信じてもらえる理由ではないだろうと思った聖良は、半分本当の理由を選び口にした。
「聖良が寝不足なんて珍しいね。稽古が長引いた?」
「うん。そんなとこ」
「本当に厳しいねぇ。それに堪えられる聖良も聖良だけど」
「もぅ慣れた。物心つく前からどっぷりだし」
聖良は苦笑する。
「ま、テストも終わったし、残りの一学期を有意義に過ごしましょ」
「それってつまり、『授業中寝ないで授業聞け』ってことでしょ」
「当たり!」
「……赤点危機の麻奈には言われたくないなぁ」
「なっ! 言ったなぁ!」
ふざけあいながら坂道を上る。
上った先には、学校があった。
――いつもの日常に戻った聖良を迎えるように。
そこは、暗闇と言うには暗すぎる空間だった。
なぜ、自分がそこにいるかわからない。わかるのは、そこに自分がいること。
目の前に、ふいにどこかで見たような化け物が現れた。
(荒鷲、って言ったっけ?)
荒鷲は今にも聖良を食わんと口を広げる。
「ひっ……」
目を瞑ろうとする直前、荒鷲が断裁された。
荒鷲の代わりに目の前に立つ、蒼い影。影が振り返る。それは――紛れもなく自分だった。
「役目を放棄した臆病者めがっ!」
狂気の目をした蒼い影が、その刀、碧瑠刀を振り上げた。
暗中なのに、碧瑠刀が鋭く光る。
(斬られるっ……!)
「……新堂! 新堂!」
「はっ……はいっ!」
担任が自分を呼ぶ声だった。気が付けば、そこは自分の教室。自分があんなところにいたのは、眠っていたからだと気付く。やってしまった、と言わんばかりに手で軽く額を叩いた。
(帰りのホームルームで寝ちゃったな)
「どうした? 新堂にしては珍しいな。まぁいい。さて、お待ちかねの成績発表の時間だ」
えー、と生徒から不満の声が次々と漏れる。
聖良の学校、即ち明華学園では、テストの次の日に各教科の点数が印刷された紙が渡される。解答用紙は次週に返される。クラスが最も一喜一憂する時だ。
「実はこのクラスに学年ダントツの奴がいる」
クラス中が騒めく。
「新堂。よくやったな。なんと全教科満点だ。新堂。最初に取りに来い」
聖良は歓声と驚きの声を浴びながら担任から成績表を受け取った。全教科名の横に確かに“100”という数字がある。
(そういえば、蒼尊は超越した運動能力を持つって。知能の方はどうなのかな)
聖良は未だ静まらない騒めきの中を歩き、席につく。
(って、何考えてんの。私。これじゃあ自分が認めたようなもんじゃない)
「こんな快挙を成し遂げられるのは巽以外いないと思っていたなぁ」
担任が他の生徒の成績表をパラパラとめくりながら見て、ふと言葉を漏らす。
「巽って、生徒会長のことですかー」
誰かが質問した。その名を聞いて、聖良も昨日のことを思い出す。あの、容姿は格好良く、しかも優しい、完全無欠と噂される生徒会長、巽七緒。
「そうだ。巽も今までテストで1点も落としたことがないんだ。さすが、あいつは有名だな……」
「一点も!?」
クラス中が口を揃えて叫んだ。何せ完全無決と謳われ、学園一誇れる人だ。知名度は相当高い。
「おい! 静かにしろ! 巽のようになれ、とは言わんが少しは巽を見習え! 成績表を返すぞ。……荒海!」
また生徒の声が不満へと変わり、予想通りほぼ全員が一喜一憂しだした。
聖良は成績表をファイルに入れて鞄に入れた。思わぬことで夢のことを蒸し返してしまい、何だかまた気分が悪くなってしまった。
(部活休もう。中途半端にやったら顧問に怒られるだけだ)
全員分の成績表配布が終ると同時に帰りのホームルームは終わり、生徒は部活に向かう者、掃除分担の場所に向かう者で分かれた。
聖良の班は今週掃除当番ではないし、部活を休むので、すぐに帰れる。その前に麻奈に部活欠席を告げる必要があった。
「麻奈ー。ごめん。今日やっぱり部活休む」
「おっけー。朝から顔色悪かったもんね。お大事にー」
「あ、途中まで一緒に行こうよ」
麻奈の班も掃除当番ではないので、すぐに部活に向かうことが出来た。
「あーあ。今日は一人で部活やるかぁ……」
「ごめんね……」
「ううん。いいよ。体調悪くなるって、誰でもあることだし」
下駄箱で、更に家路につく者と部活に向かう者で分かれる。
「じゃ、顧問に言っとくから!」
「うん。じゃあね!」
麻奈は部活棟に走っていった。それを見送ると、聖良は自分の下駄箱を開けて、革靴を取り出す。
(そうだ。図書館で本借りようかな?)
特に意味はないが、そんな気になった。この学園が所用する図書館は、公共の図書館ほど本はないが、普通の学校の図書室と比べると、相当な数だ。それでも聖良は入学以来一度しか利用していなかった。
革靴を下駄箱に戻すと、その足は図書館にと歩を進めた。
この図書館は三階建て。一つの階の広さは体育館の半分ほど。三階は自習、または閲覧フロアになっている。
聖良は鞄を三階に置いてきて、一階で何かいい本はないかと探していた。
(……てか、ここ、何のコーナーなんだろ)
聖良は天井を見上げ、吊られた標識をを読んだ。書かれていた文字は“神話”。
(神話……高天原)
不意に手を伸ばして、一冊の本を本棚から引き抜いた。そして、適当に本を開くと、そのページには高天原について詳しく書かれていた。本までもが故郷を指し示すように。
「違う!」
周りの人に迷惑がかからない程度の声で呟くが、本を足元に落としてしまった。拾おうと身を屈めると、別の手が本を拾い、聖良に差し出した。
「本は大切に扱わなくちゃ。ね?」
聞き覚えのある声に顔を上げた。声の持ち主は、昨日七緒と一緒にいた、生徒会の一員、西園寺仁史。
「すみません。ありがとうございます」
「ねぇ、これ読む?」
会話を続けられて、聖良は一瞬たじろぐ。
「いえ……」
「良かった。巽が探してたんだよ。これ」
「巽先輩が?」
立ち去ろうとする仁史が立ち止まった。
「うん。巽は神話系の本をよく読み漁るからね。あ、もしかして君、巽ファン? 巽と話したい?」
「えっ! いえ、あの……」
どう答えるべきか迷った。憧れているが、ファンではない。それでも憧れているということは、一種のファンに入るかもしれなかったので。
「顔に書いてあるよ。本見付けてくれたし。いいよ」
「見付けただなんて、そんな」
「偶然でも見付けたことに変わりないって。それに巽自身も、話してみたいって昨日言ってたし」
「巽先輩が、ですか?」
仁史は微笑む。
「家、剣道道場やってるんでしょ? 新堂道場、だっけ」
「知ってたんですか?」
仁史は顔を横にふる。
「知ってたのは巽だよ。巽のとこも道場やってるから。さ、こっち」
少し強引だったような気もするが、七緒自身も、こんな自分と話したいらしいので、とりあえずついて行った。